禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

ウィルスは弱毒化する?

2021-09-29 05:28:49 | 雑感
 「長期的にはウィルスは弱毒化する。」と言われているが、この「長期的」がどの程度のものかが問題である。「感染者が皆死んでしまえばウィルス自体も生き残れない」というような、進化論的な話であるならば、人間の何世代にもわたる超長期であると考えた方が良い。つまり、「長期的にウィルスは弱毒化する」のは、私もあなたも死んだ後の話である。

 現実的には、ウィルスは弱毒化する可能性も強毒化する可能性もある。遺伝子の変異は無作為だからである。一般的に言って、現在生きている生物(ここではウィルスも生物とする)の遺伝子は「生存している」という意味で相当洗練されていると見るべきである。今「生きている」ということは、既に淘汰のフィルターを通り抜けてきたということだからである。

 だから一般に、変異すなわち遺伝子のコピーミスのほとんどは生存に有利には働かない。人間ならばたいていそれは「遺伝子異常」と言われる事態となる。ウィルスについても同様で、生存にかかわる遺伝子の変異であれば、そのウィルスはたいてい生き残れないのである。ただ、ウィルスは個体数が桁違いに多い。だから遺伝子の変異自体がまれなことだとしても、それは巨大な数となる。変異自体は無作為でそれが強毒化するものもあれば弱毒化するものもあり、感染力が強いものも弱い者もある。ただ、感染力の弱い者は生き残れないのだから、結局感染力の強いウィルスだけが生き残る。それを人間の側から見れば、ウィルスがどんどん感染力が強くなってくるように見えるわけである。このように個体数が膨大であるウィルスは容易かつ極めて短期間に「進化」を遂げるのである。

 結果的には、人間の免疫力をくぐり抜けるようなウィルスであれば、強毒だろうが弱毒だろうが生き残るのである。したり顔で、ウィルスは生き残るために弱毒化する。」などというべきではない。個々のウィルスは生き残ろうと考えているわけではない。「進化」は結果として起こるものであって、決して目的論的に考えるべきではない。

 「キリンの長い首は高い木の葉っぱを食べることが出来るように進化した。」というのは間違いで、「長い首のキリンは高い木の葉っぱを食べることが出来るので生き残った。」というべきである。科学教育という観点から見て、進化論に対する態度というものは極めて重要なことだと思う。その辺のことが学校ではきっちり教えられていないような気がする。最近テレビで、コメンテイターが専門家に対して「長期的にはウィルスは弱毒化すると言われていますが、最近そのような傾向が出てきているような気がしますが、どうでしょう?」と訊ねているのを聞いて、ちょっと驚いたのである。

 とにかくウィルスは感染力さえ強ければ感染する。今生きている自分自身の問題としてとらえるならば、それが弱毒であることもあれば強毒であることもある、と考えるべきである。

横浜 象の鼻パーク (本文とは関係ありません。)
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親ガチャ

2021-09-27 11:48:54 | 仏教
 「〇〇ガチャ」という言葉を最近よく聞く。ガチャというのは、お金(硬貨)入れてレバーを回すとカプセルが出てくる、小さな自動販売機のことである。カプセルの中身はいろいろで、何が出てくるかは分からない。そういうところから、自分の意志で選択できないことがらについて、「〇〇ガチャ」と表現するらしい。つまり、親を選んで生まれてきたわけではない、そういう意味で「親ガチャ」だというのである。それを口にする本人は単なる軽口のつもりかもしれないが、自分の子に十分なことをしてやれなかったかもしれないという親にとっては、あまり耳障りの言い言葉ではないだろう。

 子は親を選べない、当たり前である、なにをいまさらという気がする。親も子を選べないのだ。それ以前に、そもそもなぜこのような世界があるのかということが分からない。要するに、何もかもみんなガチャなのだ。なのに、自分の出自と他人のそれを比較することになんの意味があるだろう。鈴木君の両親は優しくて金持ちだからと言って、「鈴木君の家に生まれればよかった。」などというのはナンセンスである。もし鈴木さんの家に生まれていれば、あなたはあなたではなく鈴木君になっていた。ただそれだけのことである。

 誰もが唯一無二の現実の中を生きている。それは比較されるべき性質のものではない。私は私以外のなにものでもない。天上天下唯我独尊というのはそういうことである。決して「私は偉い」と威張っているわけではない。私の実存は比較を絶しているという意味で「唯我独尊」なのである。

どのような景色も無常の世界では、二度と同じものとしてよみがえることはない。唯一無二である。
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「海」 (長沢延子)

2021-09-20 05:01:02 | 読書感想文
 2,3カ月前の新聞の読書欄に、17歳で自死した天才詩人として長沢は紹介されていた。昭和24年6月に彼女は亡くなっている。私(御坊哲)が生まれたのはその年の10月である。生きていれば私をよく可愛がってくれた叔母と同い年である。なにか因縁めいたものを感じてこの本を読んでみる気になったのだが、正直に言うと、読み通すにはかなり苦痛が伴った。天才はなかなか理解しがたいものである。
 副題には「友よ私が死んだからとて」とある。彼女の書きためた詩と友人の高村瑛子さんに宛てた書簡を集めたものである。「私は死ぬために生まれてきた。」というように、彼女の文章のいたるところに死への意志がちりばめられている。形状のし難い「激しさ」と幼い理屈っぽさが同居していて、生硬さを感じさせる。文学者として未完成なのだろう、もっと長生きして成熟した作品を残して欲しかったと切に思う。

 私は生きていようと努力した。努力しながらいつもズルズルと死ぬことばかり考えていた。
 私が生きていられるために、私は私の魂を必然にしばりつけ、無形にしろ有形にしろ死への不可能性をを確実に私自身のものとしなければならなかった。そのためにはそのせいの必然、その死への不可能性を最も肉体的に具体的に生活そのものとして密接なものとしなければならなかったのだ。
 私こそこの激しいたたかいの中にあって誰よりも深く生を愛したのではないであろうか。しかし私という人間のこの弱みは生を愛すること以前のもので、到底この戦いは生きることのたたかいの範疇に入らないか。

 彼女の母親は彼女が4歳の時に亡くなっている。裕福な養家に引き取られ何不自由なく育てられたらしいが、このことが彼女の精神形成に影響を与えているのは間違いないだろう。それと、日本の敗戦は彼女が高等女学校3年生の時、彼女は15歳の時であった。もっとも多感な思春期と激動の時代が重なっている。このような状況が早熟な知性に安定もたらすはずがない。

 自分を規定する能力を持たぬ人間は、自己の生存をも否定しようとする正反対の必然性に足を取られるらしい。
              *
 死から離れようとしたたたかいの中では、死を自分と対等の立場に置くことによって強く死を意識しなければならない。
 
 理屈っぽく見える言葉遣いは実は全然論理的ではない。哲学的に言うなら、自分で自分を規定することなどできないし、「死を自分と対等の立場に置く」という表現は明らかにカテゴリーミスマッチだ。おそらく自分の中でうごめく情動を整理しきれていないのであろう。まだ17歳の少女であることに鑑みれば、それも仕方ないことだと思う。
しかし、次のような官能的な詩を書く女性でもある。

     乳 房
  白い乳房のひそやかにうずく
  初夏の胸寒い夜

  幼い指で若さをかぞえてみる
  ああ遠い荒原に足音がきこえ

  もたらされるものは
  甘いやさしい夢ではない
    (以下省略)
 
 正直言って、彼女の詩はあまり好きになれなかったが、彼女の作品の中で何度か出てくる、「お前めくらでぴっこの娘よ」というフレーズが、頭から離れなくなってしまった。もう少し長生きすれば大化けしたような気がする。

   (省略)
  敗走の群れは泉にかくれ
  私の水路を断ってしまったが
  ころがりまろびお前走り行く
  お前めくらでぴっこの娘

 一体彼女は何から逃れようとしていたのか、もし彼女が死なずに今生きていたとしたら、89歳の彼女にそのことを是非尋ねてみたいものだ。

彼女も歩いたであろう桐生の街角。この近辺に坂口安吾が住んでいたこともある。
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歌うヴァイオリン

2021-09-13 09:45:16 | 雑感
 毎週土曜日の朝8時から、BSテレビ東京で「音楽交差点」という番組が放送されています。進行役の春風亭小朝さんとヴァイオリニストの大谷康子さんが、毎回いろんなジャンルの演奏家を招いて大谷さんとコラボレートする、そういう番組です。大谷さんは本来クラシックの演奏家ですが、ジャズやカントリーだけでなく、世界中のどんなジャンルの音楽でも相手に合わせてヴァイオリンを演奏します。  
 毎回、小朝さんが軽妙な会話を引き出して、和やかな雰囲気の中で楽しい演奏が繰り広げられます。そして、大谷さんはさりげなく超絶技巧を織り交ぜながら、本当に楽しそうに演奏するのです。一度見れば、なぜ彼女が「歌うヴァイオリン」と呼ばれているかが分かります。「弾いて」いるのではなく「歌って」いるのです。まるでヴァイオリンが肉体の一部であるかのように自在に歌っている実に楽しそうに、そんな感じです。

 あなたが音楽好きの人なら、視聴することをお勧めします。きっと気に入る番組だと思います。
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あるようにあるとしか言いようがない

2021-09-06 12:09:04 | 哲学
 私達は言葉を使わなければ思考することが出来ない。なのでつい言葉によってあらゆることを表現できると思いがちである。言語の限界は思考の限界でもあるが、現実の具体性は言語の限界には収まり切れないのである。所詮、言葉というものは抽象化されたものだからである。先日、「多様性と無差別智」という記事でも取り上げた、はるな愛さんの言葉をもう一度振り返ってみよう。

  私は「トランスジェンダー」と呼ばれますが、その言葉に当てはめられるのはちょっと違うかなという感覚もあります。「LGBT」と呼ばれる人の中でもいろいろなタイプの人がいて、みんな違って当たり前です。4文字ではとても表しきれません。「LGBT」が表す性的少数者のことを、全部知ることは大変で、私もすべてをわかってはいないと思います。わからなくていいとも思っています。≫

 私達は何でも分類して一般化したがる、これは私たちの持つ理性の渇望である。「一般化して分類して整理する」、それが「理解する」ということなのだろう。人類はそういったことを積み重ねて高度な文明を作り上げてきた。しかし、はるな愛さんはそのような一般化をはっきりと拒否している。自分というものを真剣に見つめてきた当事者にとっては、LGBTというような一般化には収まり切れないものを見ているのだろう。
以前、テニスの大阪なおみさんはインタビューの中で、「ご自分のアイデンティティについてどのように思いますか?」と訊ねられたことがある。それに対して大阪さんは「うーん、あまり気にしない。私は私です。」と答えた。 周知のとおり、大阪選手のお父さんはハイチ系アメリカ人、お母さんは日本人、生まれは大阪で、3歳からはアメリカで育っている。 インタビュアーは、大坂さんがどの程度日本人の自覚を持っているかを、言葉によって確認したかったのかも知れないが、大坂さんにすればそう簡単に言葉に依って規定しきれるものではない。「私は私です。」という、それ以上の解答はありえなかっただろうと思う。

 私たちはみな、これ以上の具体性はない唯一無二の現実の中を生きている。それは決して一片の言葉で切り取ることは出来ない。「あるようにある」としか言いようがないものである。

乾徳山恵林寺の庭 本文記事とは無関係です。
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