禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

ロゴス中心主義と仏教的無常観 (つづきのつづき)

2023-10-29 09:27:43 | 哲学
 もう少し無常ということについて考えてみよう。なぜ仏教では世界は無常であるというのだろうか。多分それは、そう考えるのが自然だからだと思う。無常でないとするならば、そこには収束点とか目標というようななんらかの固定的な規矩が存在するということになる。そこで例えば、もし人間のイデアというそのような固定的なものが本当に存在するのなら、それにはこういう形でこういう性質を持ったものが必要であるというような、超越的な意思(それを神と言うのだろう)がなくてはならなかったはずだ。
 
 キリスト教の新約聖書は「始めに言葉(logos)ありき」で始まっている。なにもかも神の理性から始まっているということがキリスト教の根本である。それに対し、仏教ではそのような超越的な意志は一切前提しない。釈尊はこの世があまりにも儚いことから、それを差配する超越的な意志など存在しないことに気づいたのである。仏教というのはこの世は無常であるという気づきから始まったのである。

 この世界を構成するあらゆるものが連続的に流動してとどまるということがない。目標も目的もなく、すべては過渡的で偶然的である。そのような状態では、A=Aという同一律における“A”を同定するタイミングが「厳密には」つかめないはずなのである。言葉も論理もその構成要素は、反復(同じ)と差異(違う)という2値からなるデジタルデータである。その反復(同じ)と差異(違う)の境界条件が少しでもずれていれば、膨大なデジタルデータの集積である思想というものが現実から大きく乖離したものになりうるということは留意しておかなければならない。
 
 大乗仏典の金剛般若経に次のような一説が出てくる。
 「仏説般若波羅密、即非般若波羅密、是名般若波羅密」 (仏の説き給う般若波羅密は即ち般若波羅密に非ず、是を般若波羅密と名づく。) これ以外にも「〇〇は即ち〇〇に非ず、是を〇〇と名づく。」というフレーズが繰り返し頻出する。〇〇を「山」という言葉に置き換えてみよう。
 「山は即ちに非ず、是をと名づく。」
これだとなんだかとても神秘的なことを言っているようだが、実は恣意的な視点がなければ「山」という概念は成立しないというごく単純な事実を述べているに過ぎないのである。日本一低い山をご存じだろうか? 国土地理院によれば、宮城県仙台市にある日和山というのが標高三メートルで日本一低い山ということになっているらしい。しかし、「近所の空き地の2メートルくらいの盛り土を子ども達は『カチカチ山』と呼んでいるが、これはどうして国土地理院は山として認めないんだ?」という疑問は起こってしかるべしである。日本中に日和山と同じような規模の「山」は無数にあるはずなのに、日和山より低いものは一つも山としては国土地理院に認められていない。そこに厳密な根拠があるかどうかは甚だ疑問である。要するに恣意的な視点を許せば、日本一低い山などいくらでも作れるのだ。富士山は誰が見ても立派な山に見えるが、モグラや蟻にしてみればそれを山だとはとても認識できないだろう。突き詰めてみれば、それだけで独立に山として存在できるような、絶対的な山あるいは山の本質、山のイデアなどというものはどこにも存在しないのである。あらゆる概念は恣意的な視点が伴わなければ成立しない、という徹底したものの見方を空観(くうがん)と言う。無常と空は地つづきである。

 次回記事では、空観から必然的に中道(中庸)思想が生まれてくるということについて説明したい。

最近のセイダカアワダチソウはちっとも背高ではないように見える。日本化してしまったということのだろうか?

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