禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

なぜ、『なぜ?』と問う?

2016-01-30 12:22:41 | 哲学

前回記事で私は、「この世界の成り立ちに関する、本当に根源的なことには因果関係は及ばない」と述べた。このことについてもう少し説明したいと思う。

根源的な問題とは「なぜこの世界があるのか?」というような問題であると思っていただければよい。近年は科学の進歩により、この宇宙が138億年前にビッグ・バンによって誕生したということが分かっているらしい。今後も研究の進歩とともに、宇宙誕生の詳細ないきさつが明らかにされることだろう。しかし、どれだけ科学が進歩しても、ビッグ・バンがなぜ起こったのかという問題が依然として残る。つまり、「なぜこの世界があるのか?」という問題は手つかずのままである。

もうひとつ「根源的な問題」の例を挙げるなら「脳内で起きている物理現象からどうして意識が生じるのか。」ということがある。いわゆる「意識のハードプロブレム」というやつである。「なぜ空が青く見えるのか?」と言い換えてもよい。科学は、波長が450nmの光が目に入ると「青色」が見えるということを教えてくれる。しかし、波長が450nmの光がなぜ青色に見えるのかということは教えてくれないのである。

いわゆる科学というものは、この世界のさまざまな現象からその秩序を抽出して法則を見出すものでしかない。現にあるこの世界がどのような秩序に支配されているかを探るものである。「なぜ世界がこのようであるのか?」ということと科学は初めから無縁なのである。ところがわれわれ人間には、なにごとも因果の枠組みの中でとらえたいという欲求がある。だから、つい「なぜ?」と問うてしまうのである。しかし、このような問いは問いを発した本人が、実は何を問うたかわからないのである。どのような答えがあれば満足なのかも見当がつかないこのような問題は擬似問題である可能性がある。

情報さえあればすべては因果関係の図式に還元できるという思い込みは特に西洋思想の方が強いようである。おそらくそれは一神教の影響だろう。神の主催するこの世界には隅々まで神の意思が行き渡っている。すべて神の目的に沿う必然のシナリオに従っているはずだ、西洋思想にはそのような刷り込みがあるのだろう。

そのように考えると、サルトルの「嘔吐」の主人公であるロカンタンがこの世界の偶然性に戸惑い吐き気を覚えた、ということも理解できるのである。必然の王国の囚人である彼には、自分自身が今そこにあることの「偶然性」からくる不安に耐えきれなかったのである。

この世界を必然だと思い込むと、現実に対して不可避的に「なぜ?」と問うてしまう。どうしても偶然に対する不安や不条理に対する執着が避けられないのである。そこで仏教は、この世は所詮無常であると説く。無常というのは神による差配がない、つまり偶然ということである。したがって神による保証もない。そのような無根拠の世界を受け入れよと釈迦は説く。それが仏教的諦観である。

「この世界がこのようであること」に理由などない。特に禅仏教では、現前する世界そのものが究極の真実である、と説く。「空が青い」ということに理由はない。すでに「空が青く」見えている、そのことを疑うべきではない。そこに隠された真実というものもまたない。すべては現前しているままである。「あるがまま」を受け入れよということはそのようなことである。


にほんブログ村

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

強いものが勝つのではない、勝った者が強いのである。

2016-01-29 14:18:38 | 哲学

禅的ものの見方はプラグマティックである、とはよく言われることである。では、プラグマティックな視点というのはどのようなものだろうか。ウィリアム・ジェームスによれば、「最初のもの、原理、「範疇」、仮想的必然性から顔をそむけて、最後のもの、結実、帰結、事実に向かおうとする態度である。」ということである。

早く言えば「結果重視」ということになる。それで、ともすれば「プラグマティズムとは表面的な結果ばかりに目を奪われる浅薄な哲学」と受け取られる向きもあるが、ジェームスの言いたいのは事実と言うのは結果にしかないということなのである。

我々は通常、「原因がなければ結果は生じない。」と考えがちである。しかし、我々の思考を如実にたどっていくと「まず結果があって、その結果から原因を推論」しているということに行きつくのである。

「強いものが勝つのではない、勝った者が強いのである。」とはよくいわれることである。一見これは逆説であるかのように思える。我々は、まず「強さ」というものがあって、その「強さ」が勝負に勝たせるのだと思いがちである。しかし、「強さ」そのものというものはそれ独自では存在しない。よくよく考えれば、「強さ」は勝つことを通してしか見えてこないのである。

本当は強いのだけれど負けた、というのはけいこ場では勝つけれど負けた、と言うくらいの意味でしかない。けいこ場でも負けてばかりなのに、本当は強いということはあり得ないのである。特に、真剣による勝負ならば一回負ければ終わりである。(負けても)「本当は強い」ということは検証しようもない、負けたという単純な事実しか残らないからである。

もう一つ、今度は「力」について考えてみよう。「力」と言うものも我々は直接見ることができない。力は物体の運動や手で物を押したときに感じる圧迫感として現れる。言い換えれば、運動や圧迫感の背後にあるものとして、「力」と言う概念を導入しているのである。
「万有引力」はニュートン以前には「存在」しなかった。それまでは、ただ物は高いところから落ちるだけのことだったのである。足の裏に大地からの圧迫を受けながら、誰も地球に引っ張られている力には気付かなかった。

しかし現在では、誰もが「自分は地球に引っ張られている。」と感じている。ニュートン以前には『見えなかった』引力が『見える』ようになったのである。ニュートン以前と以後で世界が変わったわけではない。人々の現実に対する認識が変わったわけでもない。変わったのは現実の背後にある構造に対する認識である。

今では、誰もが「万有引力があるからリンゴが落ちる。」というように考えるようになってしまった。もちろん自然科学的にはそれは正しい表現であると言ってもよいだろう。しかし、哲学的な厳密さで言うとそれは必ずしも正しくはない。正確には、「リンゴが落ちるから、我々は万有引力があると想定する」と言うべきである。万有引力は仮想的必然性の要求からくる「仮説」にすぎないのである。それを真実であると思い込むことが憶見となる。

我々は何についても因果関係の枠組みを通してものを見ようとする傾向がある。それがいわゆる「自然的態度」である。「自然科学的態度」と言ってもよいだろう。それは人間が生きていくために必要な本能でもある。しかし、それにとらわれすぎると「なんでも理屈で割り切れる」という、必然の王国のとらわれ人になってしまう。どれだけ科学が進歩したとしても、「空が青く見える」ということは説明できないのである。この世界の成り立ちに関する、本当に根源的なことには因果関係は及ばないからである。


にほんブログ村
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

魂とは何か?

2016-01-24 12:28:05 | 哲学

キリスト教においては、魂は永遠不滅の人間の本質であるとされているようだが、なかなか明確な定義というものは見当たらない。肉体を超越した「実体」であるとみなされていることは間違いないようである。

もちろん唯物論者ならばこのような正体不明の概念を認めたりはしないだろう。彼らは脳というメカニズムがあれば精神活動は生まれるものだと考える。あえて非物質的な「魂」なる概念を持ち込むことは必要ないと主張するのである。

なるほど、唯物論者の言うように我々の精神活動も、すべて物質的な物理現象に還元されるのかもしれない。しかし我々はそれでも「魂」の概念には普遍性があると感じるのである。

もしこの世界が唯物的なものであれば、私と私の友人の鈴木君は同等であり、この世界は「私の世界」としては開けていることの根拠がなくなってしまうのではないかと考えられるのである。

私にとって、この世界は「私の世界」としては開けている。友人の鈴木君はあくまで「私の世界」の中の一点景として存在する。この世界の中で私と鈴木君は同等ではない。あくまで私は「比類なき私」としてこの世界の主催者である。唯物論ではこの「比類なき私」についての説明ができないのである。そこで、私には私の魂が、鈴木君には鈴木君の魂が存在するのではないかと考えられる。鈴木君の魂から見れば世界は「鈴木君の世界」として開けており、その中での私(御坊哲)は一点景にすぎないと推測される。

魂の概念を導入すれば一応「〈私〉の比類なさ」を説明することができる。しかし、それが永遠不滅の実体であるかはなかなか判然とはしない問題である。我々が直感できるのは「この世界は『私の世界』としては開けている」という実感だけである。この実感がある種の絶対性を帯びているために「永遠不滅」、「実体」という概念が忍び込みやすいのだろう。

仏教では一切皆空であるとしていかなる実体をも認めない立場をとるので、魂についても永遠不滅の実体と見るわけにはいかないはずなのだが、私見では魂だけは例外としているように見受けられる。

禅仏教では本当の自己を「本来の真面目」と言うが、臨済はこれを「赤肉団上の一無位の真人」と称する。赤肉団と言うのは肉体のことである。一無位の真人というのは何の性質も帯びていない本当の自分と言う意味であろう。いかなる性質を帯びていないにもかかわらず私を私たらしめている、それが本当の自分であるというのである。別の言葉では「父母未生前の我」とも言う。父母が生まれる前に自分が生まれるわけはないが、本来の真面目は時間や空間を超越しているというのである。

ここで本来の真面目を魂と呼び換えてみよう。ならば、魂は永遠不滅の実体と言ってもよいのではないだろうか。いかなる性質・属性を持たない、いわば『無』であるがゆえにそれは時間・空間を超越する。永遠の過去から未来を貫くような絶対性を帯びている。だから西田はそれを「絶対無」と呼んだのだろう。

既に私は戯論の中に足を踏み入れているように感じているのだが、哲学と言うならこのような問題についてもう少し明晰に言語化できないものかと煩悶している。

 


にほんブログ村

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

シアトルは美しい街です

2016-01-12 08:05:21 | 旅行

シアトル滞在もはや4週間となりました。1月15日に帰国の予定です。本格的なブログの更新はそれ以降になりますが、その前に少しシアトルのご紹介をしたいと思います.

シアトル周辺の地形は陸と海が非常に複雑に入りくんでおり、しかも西はオリンピック半島、東はカスケード山脈の峻険な山々に囲まれ、天候さえよければとても風光明媚な町です。

上記の写真はシアトルの中心部をクィーン・アン・ヒルという高台から眺めたものです。(写真をクリックして拡大してみてください。)中央左の高い建物はスペース・ニードルといって、1962年の万国博の際に建てられたアメリカ北西部の代表的なランドマークです。テレビドラマ「ダークエンジェル」を見た人ならご存知だと思います。そのドラマでは毎回主人公が、スペースニードルに立って電磁波戦争で荒廃したシアトルの街を見下ろすシーンが挿入されていたので。(ダークエンジェルはジェームス・キャメロンの作品の中でもっとも面白い。見ていない方には是非DVDで見ることをお勧めします。)

シアトルは日本の北海道よりも北にありますが、海流の関係で北海道よりは気候は温暖です。西岸海洋性の気候であるため夏は冷涼な晴天が続きしかも高緯度なので極端に日が長い、観光に訪れるなら是非夏に来ることをお勧めします。

すごしよい夏とは逆に、冬は曇天続きでしかも日が極端に短い、人々は屋内でコーヒーでも飲んでいるしかない。そんなわけで、スターバックスもタリーズもこの地で生まれたというわけです。いまでは「シアトル系コーヒー」などという言葉もあるようです。

上の写真の中央にはうっすらと富士山に似た山が写っていますが、当地の日系人からは「タコマ富士」と呼ばれているレーニエ山です。森永乳業の「マウントレーニエ カフェ・ラッテ」の商標にもなっています。

上はタコマ空港付近から見たレーニエ山。

シアトルのウォーターフロント

ウォーターフロントから見たオリンピック半島の山脈

アルカイビーチからピュージェット・サウンド越しに見るダウンタウン

パイク・プレイスにあるファーマーズマーケット

ブルース・リーの眠るレイク・ビュウ墓地

トム・ハンクスとメグ・ライアンの「夢で逢えたら」の舞台となったレイク・ユニオン。

 

どうです、あなたも一度シアトルに来てみませんか?

コメント
この記事をはてなブックマークに追加