二年前に腎臓を患って以来というものどうも体の調子が思わしくない。先月風邪をひいたらなんとか回復するまでに一か月ほどかかってしまった。それ以外にも何かと医者通いの回数が増えている。健康と体力には人一倍自身のあった私だが、年月にはどうしてもあらがえないものと思い知らされた。昭和24年生まれの私は現在75歳、いわゆる後期高齢者ということは正真正銘の老人である。同級生の訃報などもぽつぽつと耳にするようになった。それで、先日は風邪のせいで少し頭が疲れていたのだろう、漠然と「死期が近づいている」という言葉がふと脳裏に浮かんだ。
この記事のタイトルを読んだ人は私が何か深刻なことを書くつもりではないかと想像したかもしれない。が、実はそうではない。「死期が近づいている」という言葉を思い浮かべたその時に、「あれっ、これってトートロジーじゃないか」と思ったのである。トートロジーとは日本語では恒真式とか恒真命題という、常に正しい言明のことである。例えば、「1=1」とか「私は今ここにいる」とか「素っ裸の人はシャツを着ていない」という風に常に正しいので恒に真であるという意味で恒真命題というのである。なあんだ当たり前のことじゃないかと言いたくなると思います。そうトートロジーというのは当たり前のことで、いささかの意義ある情報でもないのです。
人間がいつか必ず死すべきものである限り、時間の経過とともに常に死期が近づいているのは当たり前のことであって、それは生まれたての赤ん坊であっても私のような老人であっても同じことです。つまり、とりたてて「死期が近づいている」ということにはなんの意味もないということに私は気づいて、その時私はちょっと愉快な気持ちになったのです。一般的(統計的)には老人の方が若い人より早く死ぬということは言えるかもしれない。しかし、個別の人の死期は誰にも分からない。言えるのは、誰もが常に「死期が近づいている」ということだけである。そう考えると気が楽になったのか、わたしの風邪もほどなく治りました。

日野中央公園のバラ(記事とは関係ありません)