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禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

死期が近づいている

2025-05-23 10:40:56 | どうでもいいこと
 二年前に腎臓を患って以来というものどうも体の調子が思わしくない。先月風邪をひいたらなんとか回復するまでに一か月ほどかかってしまった。それ以外にも何かと医者通いの回数が増えている。健康と体力には人一倍自身のあった私だが、年月にはどうしてもあらがえないものと思い知らされた。昭和24年生まれの私は現在75歳、いわゆる後期高齢者ということは正真正銘の老人である。同級生の訃報などもぽつぽつと耳にするようになった。それで、先日は風邪のせいで少し頭が疲れていたのだろう、漠然と「死期が近づいている」という言葉がふと脳裏に浮かんだ。

 この記事のタイトルを読んだ人は私が何か深刻なことを書くつもりではないかと想像したかもしれない。が、実はそうではない。「死期が近づいている」という言葉を思い浮かべたその時に、「あれっ、これってトートロジーじゃないか」と思ったのである。トートロジーとは日本語では恒真式とか恒真命題という、常に正しい言明のことである。例えば、「1=1」とか「私は今ここにいる」とか「素っ裸の人はシャツを着ていない」という風に常に正しいので恒に真であるという意味で恒真命題というのである。なあんだ当たり前のことじゃないかと言いたくなると思います。そうトートロジーというのは当たり前のことで、いささかの意義ある情報でもないのです。

 人間がいつか必ず死すべきものである限り、時間の経過とともに常に死期が近づいているのは当たり前のことであって、それは生まれたての赤ん坊であっても私のような老人であっても同じことです。つまり、とりたてて「死期が近づいている」ということにはなんの意味もないということに私は気づいて、その時私はちょっと愉快な気持ちになったのです。一般的(統計的)には老人の方が若い人より早く死ぬということは言えるかもしれない。しかし、個別の人の死期は誰にも分からない。言えるのは、誰もが常に「死期が近づいている」ということだけである。そう考えると気が楽になったのか、わたしの風邪もほどなく治りました。
 

日野中央公園のバラ(記事とは関係ありません)
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私、ボーッと生きてます。

2021-10-01 11:59:32 | どうでもいいこと
 人間はわりと迂闊なもので、ごく身近なことなのに何十年も気が付かないことがある。例えば、左右の鼻の穴はいつも同時に通じているわけではなく、大抵は何時間かおきに交替で働いている、というふうなあまり知っていても知らなくてもよいような知識を、この歳になって知ったりする。なんだかチコちゃんに叱られそうだが、あらためてそういうことを知ると、人間の盲点に気づいたような気がして、なんだか私は楽しくなるのである。

 「日本語はウラル・アルタイ語族に属する。」ということはよく言われていることで、知っている方も多いと思う。しかし、そもそもウラル・アルタイ語がどんなものかを知らないのだから知識としては余り有意義ではない。 それで今、言語学者の田中克彦先生の「ことばは国家を超える」という本を読み始めたのだが。それによると「アルタイ語には『ラ』行で始まる言葉がない」のだそうだ。現在の日本語にある「ラ」行で始まる単語は外国由来のもので、本来の大和言葉にはないというのだ。確かに、子どもの頃しりとりをしている時に、「り」で始まる言葉は「りす」と「りんご」くらいしかないなあ、という気はしていた。そう言えば、「栗鼠」も「林檎」ももともとは漢語である。試しに、国語辞典の「ら」の部分を引いてみる。「等」、「羅」、‥‥「雷雨」、「雷雲」、「来演」‥‥。なるほど、ざっと見たところ漢語をはじめとする外来語ばかり、本来の日本語である大和言葉は全然見当たらない。

 言われてみれば納得だが、毎日日本語をしゃべっていてもこれはなかなか気が付かないものである。現代の日本人にとっては、すでに「ラ」行から始まる言葉を発することには抵抗が亡くなっているように見えるが、江戸時代の人はロシアのことを「オロシア」と言っていたことから判断して、その頃の日本人はまだ「ラ」行から始まる言葉を口にすることには抵抗があったのだろう。おそらく、江戸末期から「ラ」行から始まる外来語がたくさん流入したことによって、我々はそれに慣れてきたのだろうと思う。

 今では、日本人自ら、新しい年号を「令和」と定める程になってしまった。「ラ」行で始まる年号に抵抗を感じる日本人はどれほどいるだろうか。田中先生は「『令和』という新しい元号が発表されたとき、私は、こんなラ音ではじまる本来の日本語にはなかった発音様式は「国粋的」ではない、困った名づけだと思った。」と述べている。私は、元々年号は中国由来のものであるから「国粋的」でない方が相応しいような気がする。むしろ、年号を「国粋的」と感じることに問題があるような気がしている。

 とにかく、私はもっとも身近な言語についてのトリビアを初めて知ってちょっぴり嬉しくなった。チコちゃんはこんなこと知っているだろうか?

新宿御苑 本文とは関係ありません。
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危険なビーナス(TBSドラマ)と素数分布の法則性とか‥

2020-12-17 05:12:41 | どうでもいいこと
 私はサスペンス・ドラマが好きでよく見るのだが、東野圭吾のものは筋道が入り組んでいて、かつ知的な要素を絡ませていて面白いと思う。このドラマのカギとなるのは、主人公である伯朗の亡き父が遺した絵「寛恕の網」に隠された秘密である。 この絵は「ウラムの螺旋」という素数を順番に螺旋状に並べた図形をより精巧にかつ緻密にしたものだという。つまり、この絵によって素数分布の法則性が分かるというすごい代物なのだ。
 現代数学における未解決の超難問は素数に関係したものが多い。もし 「寛恕の網」がその通りのものであるなら、それらの難問が一挙に解決できる可能性がある。数学者である主人公の義理の叔父は当然その絵の価値を知っていて、それを手に入れるために誤って主人公の母を殺してしまった、という意外な事実が最終回に明らかになる。
 
 果して素数の分布に法則性があるのかどうか。個人的にはそんなものないのではないかと考えている。素数同士というのは互いに素である。つまり、それらの関係性は「互いに関係がない」という関係なのだ、もし素数の分布に法則性があったとしても、それは「寛恕の網」という一枚の絵に表現できるほど単純なものではないような気がする。(あくまで気がするだけの素人判断である。)
 
 面白いドラマだったが、納得のいかない点が一つある。主人公の天敵とも言うべきディーン・フジオカ演じる勇磨 の行動である。彼は盗聴によって、楓が実は潜入捜査員であることを知り、秘密の財産(寛恕の網)を得ることと引き換えに、捜査陣に協力することになるのだが、公権力である警察がそんな約束するというのが納得いかない。そして、寛恕の網は結局火事で燃えてしまって、彼は得ることがなかったのだが、結末のどさくさでその辺が曖昧になっているような気がする。もしかしたら、私が見逃している点があるかも知れない。どなたか、ここのところ分かる人がいたら、教えてください。
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老いには逆らえない‥‥

2020-06-28 11:30:00 | どうでもいいこと
 誰でもそうかも知れないのだけれど、私は自分が老人であるという自覚がなかなか持てない。すでに70歳になっているのたから、客観的には老人以外のなにものでもないのだが、学校を卒業して社会人となったのがつい最近のように思えるのである。
 
 幸いにして体は割と頑丈にできていて、まだまだ公共交通のシルバーシートには座る気にはなれない。週に3回程度は一時間以上のジョギングもやっている。しかし、老化は頭の方からやってくるみたいで、とにかく物忘れがひどくなってきた。なにかを調べようとしてPCに向かっても、コンピューターが立ち上がるまでの間に、自分が何を調べようとしていたのかを忘れることが2回のうち一回ある。ドラマを見ても、俳優の名前が出てこない。私は仲間由紀恵をとてもひいきにしていて、彼女が出ているドラマはなるべく見逃さないようにしているのだけれど、ドラマを見ているうちに「この俳優の名前は何て言ったっけ?」という状態に度々なるのである。とにかく頭が悪くなっていることは間違いない。最近は図書館で借りた本が最後まで読み通せない。読み進めていくと前ページに書かれていたことを忘れてしまうので、話の流れがつかめなくなって前へ進めなくなってしまうからである。このように事実を並べてみると、私は老人であるどころかかなり痴呆に近づいていることを認めなくてはいけないような状態なのかもしれない。
 
 そんな私だが、まだまだ体力面では若い人に引けを取らないつもりだった。前述のように、私は常日頃からジョギングを続けており、一週間に20キロ以上は走っている。ところがこの数日はなんか胸が圧迫されるようで妙に苦しい、先日はとうとう途中で走るのを止め歩いて帰ってきた。そして、その足で行きつけのクリニックに行ったのだが、狭心症の疑いがあるということで、血管を拡張する薬と万一の時の為のニトロを処方された。ニトロですよ! ドラマなんかで老人が「ウゥッ」と言って倒れたときに舐めるやつです。
 
 もう、これで私は心身ともに一人前の老人であることを認めざるを得なくなったわけです。しかし、ちょっと変な話だけれど、なんとなく「私ニトロ持っているんです。」と不幸自慢したいような気持がある。もちろんニトロを持っていることは偉くもなんともない訳で、一ミリも自慢できるようなことではないのだけれど‥。はるか昔に読んだ北杜夫の「奇病連盟」という小説の一節が脳裏をよぎった。「病んでいるということは、人間の特権であり、栄光でもあるのだ」
なんか、とりとめのない話になってしまったけれど、まじめに読んで下さった方には「御免なさい」と謝っておきます。
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「世界」は仏教語

2020-04-23 16:41:27 | どうでもいいこと
 私達が日常で使っている言葉には仏教語が多いということは知っていたけれど、「世界」という言葉も仏教語だったということは全然知らなかった。もともと中国にもこの言葉は無かったらしく、インドから中国にもたらされた時につくられた翻訳語だったらしい。「世」が時間、「界」が空間の意味だという。言われてみれば、世は「世代」、「世紀」とか時間に関する熟語が多い。そして、「境界」、「電界」、「文学界」、‥、と、こちらの方は領域に関する熟語が多い。
 
 よく似た意味の言葉として「宇宙」があるが、こちらの方は「宇」が空間で、「宙」が時間だということらしい。どちらも、あらゆるものを含む概念であるが、少しニュアンスが違う。
 
「必ずしも人の存在を含まない『宇宙』に対して、『世界』は人をはじめとする生物の業によって生滅するものであり、人間を不可分の存在として含む。」 (「近世仏教論」p.329)
 
 天文学で扱うのは宇宙で、人文学で扱うのは世界ということになる。
 
 ところで、近世までの日本の庶民には「世界」はお経に出てくる文言程度の認識しかなかったのではないだろうか、時代劇で「世界」という言葉が出てくるのは江戸末期のものぐらいしか思い浮かばない。「世界」は出てこないが、代わりに「三国一の〇〇」というフレーズはよく出てくる。三国とは、インド、中国、日本のことである。昔の日本では、この三国が「世界」だったのだろう。
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