禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

明けましておめでとうございます

2018-01-01 14:01:41 | 日記

本年もよろしくお願いいたします。

コメント

クリスマス

2017-12-25 10:24:00 | 日記

昨日港南台バーズ(駅前のショッピングセンターです。)へ行ったら、たくさんの人でごった返していた。特に洋菓子屋さんや総菜屋さんの前には行列ができていた。クリスマスにはケーキや空揚げを食べるものらしい。 
私の子供の頃はクリスマスというのもそれほど盛んではなかった。田舎の町のことなので、パン屋さんでデコレーションケーキを売り出すようになったのは、私が小学校に上がってからのことだと記憶している。クリスマスプレゼントなどというものももらったことはないから、サンタクロースを信じたこともない。 
クリスチャンでなければ、私の同世代の人はみんなそんなものだと思う。まあでも、私は大の甘党なので、クリスマスにかこつけて、今日はなにかケーキを買って食べようと考えている。 

クリスマスと言えば、2年まえの今頃私たち夫婦はシアトルに住む息子夫婦の家にやっかいになっていた。それで、ちょうどクリスマスの日に妻と私は二人でダウンタウンに繰り出したのだけれど、ちょっと難儀な目に遭った、そのことを思い出しながら夫婦で笑いあっていたところだ。

その顛末は 
https://ameblo.jp/toorisugari-ossan/entry-12110647371.html 「クリスマス・デイの街角」 に記してあります。

シアトルからビュージェット湾越しに見るオリンピック半島の山並み

コメント

世界の哲学者に人生相談

2017-08-31 10:45:30 | 日記

先日、NHK-Eテレで「世界の哲学者に人生相談」という番組を見た。導入部で、ニーチェの名言によって人生に対する目を開かされたという女性の例が紹介された。

「あなたにとって最悪の敵はあなた自身である」 この言葉が、子育てに悩む中でまわりの人を敵視する女性の人生観を一変させたというのだ。

私個人は、人生相談は哲学者にするものではないという考え方の持ち主である。特にニーチェは人生相談の相手としてはもっとも適さない哲学者だと思う。哲学者はみなとびぬけて高い知性をもつが、決して人生の達人というわけではない。むしろ、その性格に偏波なものを抱えており、その鬱屈を合理化するために考え抜く、というタイプの人も多い。私の見るところニーチェはその最たる例である。

前出の女性の、周囲の人々をみな敵視するというその見方が変わるきっかけとなったのは、電車の中で出会った夫人から受けた親切な行為であったという。他人から受けた思いやりがうれしくて、心から感謝した時、ニーチェの言葉の中の「敵」、「あなた自身」という言葉を強く意識した。その時、敵は周囲にあるのではなく、自分自身であった、ということに気づいたというのだ。

彼女は、この「気づき」がニーチェによってもたらされたと思っているかもしれないが、それは違う。おそらくそれは子育てをする苦労の中で、彼女自身がなしえた成熟によって獲得したものだ。たぶんそれはニーチェとはなんの関係もないものである。

ニーチェの著書には、思いやりだの親切、そしてそれに対する感謝などというものを評価する言葉は一切出てこない。キリスト教的価値観への反発と怨念、自分自身の高い知性に対する選民的な誇り、ニーチェの思想はそれらからなっている。その言い分を真に受ければ、一般に通用している倫理とはかけ離れたものであり、人生の指針とするには非常に危険なものである。

番組の内容は、あまり「哲学的」とは感じなかったが、おそらく「哲学」という言葉は多義的に使用されているのだろう。私自身が「哲学」を学問的にとらえすぎているのかもしれない。

番組の終わりごろ、ソクラテスの「正しく哲学している人々は死ぬことを練習しているのだ」という言葉が紹介された。それを受けて、妻が「あなた、死ぬことを練習してる?」と私に問う。もちろん私は、「否」と答えた。

妻に、「ふーん。あなたって、正しく哲学してないのね。」と言われた。


コメント (1)

真理はないか?

2017-02-25 09:43:21 | 日記

「真理はない」などと軽々しく言うべきではないと思う。もともとないものであるなら「ない」とさえ言えない。少なくとも、「ない」と言えるためにはその対象が明確に定義されていなければならない。たいてい真理の存在有無を論じているところでは、「真理とは何か?」という問題が並行して行われているのが常である。それがなんであるかわからないものの存在について論じることは、空港へ名前も姿形も知らない人を迎えに行くのと同じである、その議論に出口はない。

もともとないものをないということの奇妙さというものを、もう少しわかりやすく説明してみよう。私があなたにいきなり、「ギカリメンテロチは存在しない」と言ったとする。あなたの反応は多分、「???」だろう。「ギカリメンテロチ」をあなたは実際に経験したことがない。そしてそれがどのようなものであるかも聞かされたことがない。「ギカリメンテロチは存在しない」という言表はあなたにとって何の意味もないのである。同様に、「真理」が何を意味するかも分からないまま、「真理はない」と言うなら、そして本当にそれがないのなら、その言表は意味を持たない。

以上のことを踏まえると、ウィリアム・ジェイムズの次の言葉が実に意義深いもののように私は感じる。

≪ずっと信じてきたもの、実際にそれに基づいて生きてきたのだが、それを表現することばを見つけることが出来なかったもの≫

哲学というのは、それを表現する言葉を模索し続ける行為なのだろう。

六国見山から横浜市街を望む

コメント

真理について、まどろみながら考えてみた

2017-01-13 06:44:01 | 日記

今朝寝床の中で、ウィリアム・ジェイムズの言葉を思い浮かべていた。

≪ずっと信じてきたもの、実際にそれに基づいて生きてきたのだが、それを表現することばを見つけることが出来なかったもの≫

それが「真理」であると、彼は言う。

ロマンチックだが、実に含蓄のある言葉だ。確かにぼくらはなにかを信じている。哲学をかじりかけた若者が「真理とか真実というものはない」とうそぶくことはままある。しかし、哲学をするということ自体が、何かを信じそれを求める営為でもある。信じているからこそ疑うのだ。

信じることがなければ疑うこともできないということを、あらためて実感した朝だ。

コメント