禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

私は世界で最高の選手の一人と闘っている、謙虚にならなければならない。

2019-01-28 08:41:36 | 大坂なおみ

全豪オープンの決勝戦、大阪なおみ選手は第2セットの第9ゲームでチャンピオンシップポイントを握った。ここでワンポイント取っていれば、彼女の快勝ということになっていただろう。が、その1ポイントがなかなか取れない。いわゆる「勝ちビビり」に取りつかれてしまった。結局クビトワの7ポイント連取を許し、そのセットを失ってしまった。その時点で彼女の負けを覚悟した人も多かったのではないだろうか。彼女は明らかにパニックに陥っていた。 

ここで彼女はトイレ休憩を申請する。トイレの中で彼女は(おそらく)泣いた。そして、すぐ自分を取り戻した。そしてその時の心境を次のように述懐する。 

「私は世界で最高の選手の一人と闘っている、謙虚にならなければならない。勝って当たり前などと考えてはならない。」 

彼女は直ぐにトイレを出て競技場に引き返した。大方の予想に反してたった2分間で引き返してきたのだ。誰もが彼女の表情の変化に気づいたはずだ。自分を取り戻した彼女はみごと第3セット目を獲得し、全豪チャンピオンとなった。見ごたえのある、胸が震えるような試合だった。

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禅的真理観について

2019-01-22 04:19:38 | 哲学

前回記事で、禅は「なんの媒介も無しに『一挙に世界を了解』してしまう」と述べた。このことについて少し説明したいと思う。一般に、真理というものは「見えているもの」の背後にあると考えられがちである。だから私たちは考える。しかし、禅仏教はこのような考え方を否定する。事実というものは「見えているもの」以外にはないのであるから、それこそが真実と受け止めるしかない。それが「真実は現前している」という言葉になる。

仏教経典には、「無」「不」「非」という否定を意味する字が多いので、なんとなく否定的で神秘的な思想であるかのように受け止められるが、否定するのは分別や懐疑であって、実はとことん現実肯定の思想なのである。そういう意味で、「デカルトの懐疑」に始まる西洋哲学とは対極にあると言える。

デカルトはすべてを疑って、ついには「考える私」つまり純粋な自己に到達した。しかし、仏教に言わせればそんなもの存在しない。デカルトは「考える私」が存在すると考えたが、そこには「考え」があるだけのことである。第一、仮に「考える私」があるとしても、依然としてその他のことは疑わしい「懐疑」のままであるしかない。

   仏道をならふといふは、自己をならふなり。
   自己をならふといふは、自己を忘るるなり。
   自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。

有名な「正法眼蔵」の一節である。 自己というものを突き詰めていけば、結局(純粋な)自己というものは存在しないということに行きつくのである。万法とは森羅万象のことつまり「見えているもの」のことである。ここで言う「見えているもの」とは、もちろん単に視覚だけではなく、眼耳鼻舌身意に触れるものすべてである。「万法に証せらる」は「森羅万象が私に悟らせてくれる」というふうに解説されていることが多いが、少しまだるっこしいように感じる。私は「万法即真実」とか「万法即自己」のようなニュアンスとして受け止めている。ものごとを突き詰めていけば、結局「見えているもの」しかないという「原事実」に立ち返るのである。

ここに至って、具体的事実の崇高さというものが見えてくる。「仏教の大意はなにか?」と問われて、ある人は「庭先の柏の木だ」(=>「庭前拍樹」)とか「麻三斤」とか答えたりする。またある時は、「雁はどちらに行ったか」と聞かれて「あちらへ」と答えたりすると、鼻を思い切りひねり上げられたりもする。(=>「百丈野鴨子」) 禅僧はやたら「喝」と怒鳴ったり、時には棒でたたいたりと、乱暴なことをしたりするが、すべて真実の現前性に気づかせようとの試みである。

キューポラのあった町 川口 2003年 ( 本文とは関係ありません )

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理性とは何だろう?

2019-01-19 06:54:37 | 哲学

あるところで「論理」について議論していたら、「理性にも『理知的な理性』と、『倫理的な理性』がある」という発言が出て来て少し戸惑ってしまった。おそらく、この人は人間の精神活動一般を「理性」という言葉で言い表しているのだと思う。 用語法が統一されていないと議論は難しい。素人の哲学談義のテーマが拡散しやすく、言いっぱなしになりがちなのもそういうところにある。

カントは人間精神を「理性」「知性(悟性)」「感性」と区別しているが、論理を働かせるのはもっぱら「知性(悟性)」の役割であるということになっている。日常語において「感情」と「理性」を対置する日本人にはなかなか理解しにくいことである。 

精神活動をその外形的な働きによって、「理性」と「知性」に分けるというのは、なんでも分析しようという西洋的な考え方だと思うが、心の働き方は複雑で明確にそのように分けることができるかどうか疑問である。東洋的な視点からとらえれば、すべては一つの心の働きに過ぎないということにもなる。 

主客を没してしまう禅においては、なんの媒介も無しに「一挙に世界を了解」してしまうので、理性の出番はまったくない。 


※訂正 「論理を働かせるのはもっぱら『知性(悟性)』の役割であるということになっている。」というのは間違いで、論理を運用するためには、理性と知性の双方が必要です。


建長寺唐門 (鎌倉市)

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ドラえもんのポケットに世界は入るか?

2019-01-11 21:43:23 | 哲学

前回記事では子ども達に相手にしてもらえなかった私ですが、当ブログの読者なら私がなにを言いたかったか分かるはずですね。そう、ドラえもん自身が世界の中に居るのだから、世界がドラえもんの中に入ってしまったら、ドラえもんももポケットの中に入ってしまうことになってしまいます。つまり、ドラえもん自身がドラえもんのポケットの中に入ってしまうことになります。だから、私は子供たちに、「その時ドラえもんは一体どこにいるの?」と訊ねたわけです。蛇が自分のしっぽから自分を丸呑みしてしまったらどうなる?というのに似ています。

ちょっと頭のいい子なら、「ドラえもん以外の全部が入るんだよ。」と言うかもしれません。それでもやはり、「その時ドラえもんはどこにいるのか?」という問題は生じます。ドラえもんが立っている地球そのものがポケットに入ってしまったら、ドラえもんは一体どこに立っているというのでしょう。地球がポケットに入るときには、やはりドラえもんも一緒に引きずり込まれそうです。

私達は矛盾したことを思い描くことはできません。蛇が自分自身を全部丸のみにしてしまうという様子を、最後まで想像できる人はいないはずです。ぼくが飴玉を1個もっていて太郎君が2個もっている時、二人の飴玉の合計は必ず3個であると私は認識します。私たちは本来は論理に逆らって考えることはできないのです。

論理に逆らって考えることができないのならば、なぜ私達は間違ってばかりいるのだろうということになります。それには二つの理由があると私は考えています。ひとつは正しい事実認識をもてないということ。これは能力の問題で、我々はいつでも錯覚とか勘違いをする可能性があります。もう一つは我々は言語を使って思考するということにあると思います。

例えば、「ドラえもんのポケットにはなんでも入るんだよ。」という時の、「なんでも」には我々が今までに経験をしたことがないものまでが含まれています。つまり、発言した当人は自分の知らないことについてまで言及しているわけです。実際には対象をとらえきれていないのに、言葉上では対象として把握しているかのように操作できてしまいます。

一般に「なんでも」、「すべて」、「世界」という言葉には問題がありそうです。「なんでも突き通す剣」と「どんな剣をも撥ね返す盾」というのは言葉では簡単に言えますが、実際には存在しえないものです。今売り出し中の哲学者マルクス・ガブリエルの著書に、「なぜ世界は存在しないのか」という奇妙なタイトルの本があります。私も最近それを読みました。しかし、あらゆるものがそこに存在するという、そういう意味の「世界」というものは存在しない、と言うのは当然のことでもあるわけです。

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パラドックス

2019-01-10 14:51:03 | 日記

昨日は久しぶりに区のスポーツセンターに行きました。ひと汗かいて更衣室に戻ってきたら、小学1,2年生くらいの男の子3人がぺちゃくちゃと楽しそうにおしゃべりしています。

「ねえねえ、割り算って知ってる?」  「2割る1は2とか?」、「6割る3は3とか」

ここで私は聞き逃すわけにはいかないと思い、「6割る3はなんだって?」と聞くと、「‥‥‥」視線をこちらへ向けようともしないで黙ったままです。なんかフレンドリーな雰囲気ではありません。しょうがなく私は、「6割る3は2じゃないかなぁ」というと、さらに私のことは無視して、話題を変えてドラえもんの話を始めました。 

「ドラえもんのポケットって何でも入るんだよ。家でも自動車でも」

「どんな大きなものも入るの?」

「そう、どんなものでも」

「じゃあ、世界も入るの?」

「そう、なんでも入るから、世界も入るよ。」 

ここまで来ると、アマチュア哲学者は黙っていられません。

「へえーっ、世界がドラえもんのポケットに入ってしまったら、その時のドラえもんはどこにいるの?」と聞きました。相変わらず私の方は振り向かずに、一人の子が答えます。「そんなの知らないよ。」

私は、「だって、ドラえもんは世界の中に居るんじゃなかったの? その世界がドラえもんの中に入ったら、ドラえもんは一体どこにいるんだい?」と言いました。

やはり一人の子がそっぽを向きながらいいました。「知らない人と口を聞いたらいけないんだぁー」 

おせっかいおじさんはさびしかったというお話しです。

吾妻山公園 ( 神奈川県二宮町 )

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