禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

意識のハードプロブレム

2015-01-18 09:51:54 | 哲学

前回記事でとりあげたテーマは「意識のハードプロブレム」と呼ばれている。哲学者の間では最もホットな問題の一つである。ここで、現在の日本の代表的哲学者である中島義道先生の「心身問題」について述べている言葉を引用してみよう。

 今、眼の前に一定の光景が広がり、さまざまな音が聞こえ、足の裏や尻に床や椅子の感触がするということは何の不思議ないように思われます。しかし、ここにあまたの不思議がつまっているのです。大脳や神経系を含めて私の身体はすべて物質からなっております。網膜も鼓膜もすべてある種の物質です。なのに、なぜ私は「見える」のでしょうか。「聞こえる」のでしょうか。網膜から大脳に至る如何なる部分も物質の状態以外の部分はありません。との関係は考えれば考えるほど不思議なことです。 ≫(講談社文庫 「哲学の教科書」p.187)

この世界にあるのは物質ばかりである、それらは複雑に関係しあいながら力学的あるいは電気的に反応し合っている。しかし、そこで起こっていることはすべて物質的というか物理的な現象でしかない。なのにここでこうして私の意識(クォリア)が生じているのはなぜなのだろうかということであろう。

中島先生の主催する哲学塾に10箇月ばかり通った私は、先生の頭脳の素晴らしさはよく存じあげているつもりである。その学識に至っては私などと比較するのも失礼であるということは私自身が認めるところであるが、この件についてだけは注文をつけたい。この問題に関しては中島先生だけでなく、西洋哲学者のほとんどが考える順序を間違えていると言いたいのである。

物質的な現象の中からどうして意識現象が発生するのか? という発想自体が転倒しているのである。もともと、物質だとか物理現象などというものは存在しない。あるのは意識現象(クォリア)だけなのである。よくよく反省してみれば、この世界の中に意識現象(クォリア)以外のものなど唯一つとして存在しないということに気がつくはずである。このことは西田幾多郎が「善の研究」において既に100年前に指摘していることである。

        「意識現象が唯一の実在である」

≪我々は意識現象と物体現象の二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。即ち意識現象あるのみである。物体現象というのはその中で各人に共通で普遍的関係を有する者を抽象したものに過ぎない。≫ (善の研究P.72)

「物体現象は(意識現象の中から)各人に共通で普遍的関係を有する者を抽象したもの」であると述べている。つまり、意識現象(クォリア)から構成した構成物、一種の虚構に過ぎないと言っているのである。

 自然科学という仮説の集合は、我々の意識現象(クォリア)と矛盾なく構成されている。何々の波長の光は青色に感じるまたは赤色に感じる、というような説明は実にうまくできていて、我々はLEDなどで自在に好きな色を作り出せるようにまでなった。そういう意味において、自然科学は十二分にこの世界を説明しているのである。

 しかし、「何々の波長の光はなぜ青色に感じるのか?」という我々の意識の根源にかかわる疑問に対しては自然科学は無力である。なぜなら、もともと科学は我々のクォリアをもとにしてその上に構築された構成物だからである。我々のクォリアを自然現象に伴う「随伴現象」であるというようなことを言う哲学者もいるが、それはなんの説明にもなっていない。我々は緻密な考察を重ねて、「何々の波長の光は青色に感じる」ということを見出した。その上で、意識現象を随伴現象であるというのは、重ねて「何々の波長の光は青色に感じる」と言っているのと同じことに過ぎない。あらためて言うが、ここで問題にしているのは、「何々の波長の光はなぜ青色に感じるのか?」ということなのである。

ここに至って、賢明な読者は気付かれたはずだ。この「心身問題」についての問いの立て方そのものが倒錯的なものであることを。我々は何についても必然的因果関係の枠の中で解釈しようとする癖がある。つい何でも問うてしまうのだが、意識現象の根源を問うことはできないのだ。それはすでに現前しているものであり、我々にはそれを受け入れるしかない。それが「あるがまま」の世界を受け入れるということである。そのことを「あきらめ」と悲観的に受け止める必要はさらさらない。「柳は緑花は紅」または「眼横鼻直」とも言う、そのことを自覚することはむしろ新たな世界の発見でもある。

我々の眼前に広がる光景の究極的な根拠はない。因果関係を徹底的に追及する西洋的「必然の王国」にいてはこの「ハードプロブレム」を超えることはかなわない。そのことは極めてグロテスクなことに感じることだろう。サルトルの「嘔吐」という小説の主人公ロカンタンは、ある日この世界の無根拠性、偶然性に気付き吐き気を感じるようになった。この問題を知性的に解消しようとすると底なしの不条理のうずに巻き込まれていく。

東洋には昔から、この世界の無根拠性を「あたりまえ」のこととして受け止める思想的土壌があるのである。そこに「意識のハードプロブレム」は存在しない。眼の前に広がる光景、さまざまな音、足の裏や尻に感じる床や椅子の感触はすべて当たり前のことである。世界が「このようであること」はあたりまえだが実に不思議なことでもある。「当たり前だが不思議」というこの感覚を仏教では「妙」というのである。「柳は緑花は紅」とはこの当たり前の世界を再発見した時の「妙」を表現しているのである。「仏教的諦観」とよく言われるが、それは「あきらめる」ということではない、受け入れるべきものを受け入れる、哲学的に言うならば擬似問題を立てないということである。

もう少し述べておきたい。「意識現象が唯一の実在である」ならば、すなわちすべてが意識現象であるならば、「意識現象」という特定の言葉もまたその意味を失う。そこには素朴な実在論だけが残るのである。大悟徹底した禅僧は、「日々是好日」とか「平常心是道」というように、ことさら日常的な視点を重視する傾向が見受けられるのは、我々はリアルな日常の中に生きているという事情があるからである。グロテスクな世界観にとらわれたロカンタンの対極の例として、栂ノ尾の明恵上人のエピソードを挙げておこう。

栂ノ尾の明恵上人はある日、野に咲く一輪のすみれを見て落涙したと言われている。何の変哲もない一輪のすみれを見つけて、この世界の妙を感じ取ったのだ。この世界のあたりまえを再発見して、この小さなすみれの偉大さに彼は感動したのである。

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