禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

東京見物PARTⅡ(皇居編)

2022-11-29 07:40:29 | 旅行
 仕事で東京に通っていた頃は味もそっけもない殺伐とした大都会だと思っていたが、先日神宮外苑や上野界隈を訪れて、東京はいろいろな風土に恵まれた美しい街であることを再確認した。というわけで、東京見物に味をしめて、一昨日(11/27)は皇居へ行ってきました。今までに皇居前広場とか桜田門付近には何度も言ったことがあるけれど、天守台の辺りは一度も言ったことがなかったので、この際見に行ってみようと思い立ったのです。

街路樹の黄葉とモダンなオフィスビルが美しいお堀端。


 
 皇居前に来ると何やらすごい人だかりです。ちょうど乾通りの公開が行われているということで、大勢の人々が詰めかけていました。ということで、私も参加することにしました。
 
 
ここが宮内庁庁舎だそうです。

 
 皇居には様々な樹種の木々が植わっていて、紅葉のバリエーションも多彩で華やかです。
  
 
 冬咲の桜もあります。

 
 ここは道灌堀。江戸城を最初に築城した太田道灌の名前がここに残っている。

 
乾通りを通り抜けると、私は当初の目的の天守台跡をに向かいました。

東御苑の入り口の北桔橋(きたはねばし) からの眺めは、あらためて江戸城本丸の規模の壮大さを実感させてくれます。
 
 
北桔橋を渡るとすぐ目の前に天守台の石垣が見えてくる。ピタッと隙間なくはめ込まれた打込接(うちこみはぎ) の石垣は、他の追随を許さない天下一の天守閣にふさわしい壮麗な石垣である。しかし、この石垣は結局無駄になった。江戸城の天守閣は明暦の大火で焼け落ちた後、加賀前田家が総力を挙げてこの石垣を築き上げたのだが、その上に天守閣が築き上げられることはなかったからである。時は4代将軍家綱の時代であったが、当時の幕政を実質的に取り仕切っていた会津藩主保科正之が天守の再建を止めさせたのである。大災害に見舞われた後である。太平の世にもはや必要のない天守に莫大な労力と財を費やすことの愚を説いた保科は賢明であった。結局、江戸時代の大部分200年間、江戸城は天守閣なしの城だったのである。
 
 
 さて次は、天守台を後にして三の丸庭園を目指します。途中の雑木林の色づき具合が見事です。

 
これは二の丸庭園の「諏訪の茶屋」。明治時代に再建されたものらしい。美しい数寄屋造りの建物だが、現在は使用されていないとのこと。  
 
 三の丸庭園の松はどれも形が良い。いかにもザ・日本庭園という感じ。

 
ひときわ色鮮やかな紅葉が目を引きつける。
 
 
 庭園も良いが、周囲の自然はもっと素晴らしい。木々の葉裏を通してくる柔らかな光に包まれた子供連れの夫婦が、秋の日を満喫していた。平和である。
 
 
どうです。あなたも皇居に出かけてみませんか?
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久し振りの東京見物

2022-11-23 16:50:50 | 旅行
 昨日は急に東京国立博物館を見に行こうと思い立ち電車に乗り込んだ。この前に東京へ行ったのかいつか思い出せないほど久し振りのことである。この日は晴れのち曇りの天気予報でもあったので、博物館に行く前に神宮外苑の銀杏並木を見に行こうと思った。明るい陽光の中で見る黄葉は美しかろうと思ったのである。
 
 
 銀杏の黄葉は美しかった。ただし人も多かった。できれば光に満ちた静かな秋の日を満喫したかったが、それは贅沢というものだろう。外国から観光に来られた方も多いようだ。特に中国語らしい響きがあちこちで聞こえる。まだ中国からの来日は本格化していないようだが、それでもやはり中国のプレゼンスは大きいと感じる。
 
 

 昨日は日差しが強かった。陽の光と黄葉が戯れるというのはこういう様を言うのだろう。時折風が吹くたびにおびただしい葉っぱがひらひらと光を照り返しながら落ちてくる。
 
 
 
 道路沿いのカフェは超満員で店の外まで行列がはみ出ていた。でも、銀杏を眺めながら飲み物を飲む人たちの表情はみな満足そうに見えた。私もそれなりに満たされた気持ちになって上野に向かった。

 
 
 国立博物館に着いたのであるが、ここで私はとんでもない事実に気がついたのである。すでに「当日券は売り切れ」だというのである。「博物館なんていつでも行けば入れる」なんて思っていた私は、いつのまにか世の中から取り残された隠居じいさんになっていたようだ。 
気を取り直して、この日の目的を博物館見学から東京見物に切り替えることにした。 よく見れば上野公園の紅(黄)葉も相当きれいである。
 
 
 ひときわ鮮やかな紅葉もあった。
 
 
 ここでもカフェは繁盛していた。


 
 不忍池にはどれだけの蓮根が埋まっているのだろうか?



 アメ横は今日も賑わっていた。昔に比べて外国人経営の飲食店がずいぶん増えている。


 
 この後、南に向かって秋葉原を通り抜け神田駅に着く頃はちょっと薄暗くなってきた。もう少し探検したかったけれど、ラッシュに巻き込まれない内に帰路につきました。博物館には入れなかったけれど、充実した一日だった。
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「消費税上げるな」はワガママか?

2022-11-19 14:15:17 | 政治・社会
 ホリエモンこと堀江貴文さんが「消費税を下げろ」と言う人に対して次のように言ったらしい。

「消費税あげるな、富裕層が負担しろ、移民は嫌だ。中国怖いから防衛費は上げろ、予防とかしたくないけど病気になったら医療費は保険でカバーしろ、年金はちゃんとくれ、とかみんなワガママすぎるんだよな」yahooニュース
 
 「消費税を上げるな」という主張は本当にワガママだろうか? もともと税金というものは所得の再配分であるという考えに立つなら、消費税そのものが税金の趣旨に反しているという考えも成り立つ。堀江さんは若いから消費税が導入された経緯をたぶん御存じないのだろう。消費税が必要になったのは所得税と法人税の度重なる減税のせいであることを忘れてはならない。ちなみに昭和49年度の所得税の最高税率は75%で住民税と併せると93%もの高額負担となっていた。当時はまだ高度成長の途中だったので、個人も企業もその収入はかなりインフレ気味で年々重税感が増していた。だから減税そのものは免れないのだが、本来なら税率はそのままにしておいて税率テーブルの閾値をインフレ調整すれば良いところを、給与所得者の税負担軽減を理由に税率そのものを引き下げてしまったのだ。
 
 収入捕捉率の高い給与所得者を優遇したいなら、それなりの方法はいくらでもあると思うのだが、所得税率を引き下げることによって一番得をしたのは高額所得者である。消費税導入前にあるテレビの報道番組で、普段リベラルな意見を述べていた人が「消費税導入やむなし」と述べているのを見て驚いた。なんの事はないこの国の政策決定に参画している人のほとんどは高額所得者なのである。テレビで意見を述べているような人はほとんどが一般サラリーマンと比較すればはるかにリッチな人達であるということを思い知らされた。とにかく所得税率は度重なる減税でどんどん引き下げられていった、それとともに消費税率の引き上げが取りざたされることになった。将来的には消費税率が20%程度に上げられるのは当然視されているような事態である。
 
 堀江さんは「所得税率を高くすると金持ちが外国へ逃げていく」と言っている。私はそれでいいんじゃないのと思っている。金持ちの人は勝手にルクセンブルクでもバハマでも行って金満生活を謳歌していただければ結構。「貧しきを憂えず、等しからずを憂える。」という言葉もある。日本国内では貧乏人同士が仲良く暮らせばいいのだ。実際のところ資本の海外流出はやっかいな問題だが、対処する方法は必ずあると思う。
 
 消費税導入と歩調をそろえて法人減税も実施されていることを見逃すべきではない。(=>「法人税率の推移」) アベノミクスというのは結局法人税の軽減、財政の大盤振る舞いし、そして低金利で金融をだぶつかせれば経済活動は活発になる、という単純な発想に基づいている。税収の足りない分は国債発行で賄うから大丈夫、景気が良く成れば経済規模も大きくなり、インフレ効果で財政赤字も相対的に縮小するから問題ないという見込みだったのだろう。ところが、日本の人口は頭打ち、近視眼的な視点しか持たない日本の経営者は積極投資より利益確保の方に躍起となった。法人減税がその傾向に拍車をかけることになった。高度成長期には法人税率が高いこともあって、企業は利益を出して税金を取られるくらいなら設備投資したり社員にボーナスを出したりして、極力利益を圧縮しようしたものだが、最近の企業は設備投資や研究開発費をケチり、非正規社員を安くこき使って利益を上げることに血眼になっている。そのおかげで、企業は膨大な内部留保を蓄えることができた。その結果2021年度の企業の内部留保は、金融・保険業をのぞく全業種で500兆円を超えた。なんと国民一人当たりにすると、一人当たり400万円になる。まことに慶賀に堪えない。 

 しかし当たり前の話だが、企業がいくら内部留保を貯め込んでも日本の経済活動は活発にはならない。経営者の思考が内向きになっている間に日本は世界の趨勢から取り残されてしまった。かつて、半導体や液晶の技術は日本が世界の先端を走っていた。ところが、今や韓国や台湾の後塵を拝している。日本のサラリーマン経営者がちまちました利益確保に拘泥している間に、韓国や台湾の企業は研究開発や生産設備への大規模投資で世界市場を日本から奪い取ったのである。そういう観点から見れば、法人減税はすべきではなかった。むしろ法人税率を上げて、研究開発費や設備投資に対して経費一括計上などの税制優遇を検討すべきであったと思う。

 以上のような観点から、私は消費税の引き上げには断固反対である。消費税を上げるくらいなら所得税と法人税を上げるべきで、資産課税の強化を考えても良いと思う。

横浜公園から日本大通りを望む 
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歌の橋と実朝

2022-11-14 14:50:46 | 雑感
 先日、鎌倉の鶴岡八幡宮から杉本寺まで歩いていく途中で面白いなまえの橋を見つけた。下の写真を見て欲しい。

 
 
 「歌の橋」とある。なんの変哲もない橋だがなかなか優雅な名前の橋である。私はてっきり「歌」を唱歌のことだと思い、この近くに音楽関係の学校でもあったのだろうかと思ったのだが、このそばに立っている碑の由緒書きによればどうやらそれは和歌のことらしい。

 
 
「渋川刑部兼守謀殺の罪により誅せられんとせし時悲の餘り和歌十首を詠じて荏柄社頭に奉献せしに翌朝将軍実朝伝聞せられ御感ありて兼守の罪を赦されしによりその報賽として此の所に橋を造立し以て神徳を謝したりと伝えられこの名あり」とある。

 インターネットで調べたところ、この「謀殺の罪」というのは、頼家の子である千寿丸を鎌倉殿に擁立しようとした謀反「泉親衡の乱」に渋川兼守が加担していたということらしい。それで死罪を宣告された兼守がその悲しみを和歌にしたためて荏柄天神に奉納したところ、たまたま荏柄天神に参篭していた工藤祐高という御家人が その和歌を持ち帰り将軍実朝に見せたところ、実朝は大いに感動して兼盛を無罪放免とした。兼盛はその恩赦に感謝して荏柄天神参道近くの二階堂川の橋を架けたというわけである。

 工藤祐高がその和歌を持ち帰ったのが処刑の前日であるとか、ちょっとできすぎのようだし、当時の常識からすればそもそも和歌に感動したから無罪なんていうことはあり得ないような気がする。自分にとって都合の悪いものはたとえ親兄弟でも排除する、というのが鎌倉武士の流儀であり、実際に源頼朝や北条義時はそのように身を処してきたわけである。それにそれほどのいわくのある和歌の内容というものが伝わっていない。歴史上の本当の事情というものはなかなか分からないものである。

 実のところはどうであれ、おそらくそれに類した話はあったのかも知れない。このような話が現代にまで伝わっているのは、やはり源実朝が中世を代表する歌人であったことと武士としては特異とも言えるほど優しい性格であったということではなかろうか。少なくとも源頼朝や北条義時にはこのようなエピソードは生まれようがないような気がする。 

 実朝という人はとても気の毒な人のように思う。兄の頼家が征夷大将軍であり続けていれば、もしかしたら和歌の道に没頭して趣味人として生きる道もあったかもしれない。ところが北条氏の都合で頼家は謀殺されてしまい、自分が征夷大将軍に祭り上げられてしまう。自分の意志で将軍になったわけでもないのだから、傀儡に徹すれば平穏な日々を送ることも出来たはずである。ところが折に触れて将軍としての主体性を発揮したくなるのだが、義時に対抗して立ち回るだけの政治的センスもない。所詮ぼんぼんななのだ。
 実朝の政治的センスのなさは育王山を参拝するための渡宋計画に如実に現れている。膨大な費用と労力をつぎ込んだ渡宋船は結局材木座海岸で朽ち果てた。巨大な船が遠浅の浜から出航しようという計画に無理があることを誰も気がつかなかったのだろうか? 鎌倉武士が航海上の知識にいかに疎いとはいえ、もし幕府がこの計画に本気であったらこんなことはあり得ない。はじめから実朝が宋に渡ることなどできるはずもなかったのである。宋に渡るとなると少なくとも何か月もかかる。もしかしたら何年もかかるかも知れないと言うか帰って来れる保証がそもそもない。お飾りとはいえ実朝は征夷大将軍である。そして鎌倉政権による政令には実朝の花押が必要である。長期に鎌倉を留守にすることが実朝には許されるはずがないのである。義時には初めから実朝の渡宋を許すつもりなどなかったのである。そんな理屈も分からない、やはり実朝は武家の棟梁としての器ではなかった。
 初めから実現性のない渡宋計画を義時はなぜやめさせようとしなかったのだろう。頭ごなしに止めさせるにはやはり頼朝の血ということが重かった。鎌倉にはまだ頼朝に恩顧を感じる御家人が多かったはずである。義時は、膨大な費用と労力が無駄になることを分かっていながら、半ば苦々しく思いそして半ば冷笑しながら実朝の計画を見つめていたのだろう。
 すでにこのとき、中途半端な主体性を発揮する実朝を疎ましく思い出したのかも知れない。そのように考えると、公暁による実朝暗殺も非常に腑に落ちる。実朝がただ死んだだけでは、公暁が次の鎌倉殿になってしまい、その後見人である三浦が北条にとってかわる可能性がある。公暁が実朝を殺せば頼朝直系の男子はいなくなって、義時にとっては好都合である。あとは京都から親王を呼び寄せれば、純然たるお飾りの征夷大将軍に祭り上げることが出来る。そうなれば執権としての義時の立場は盤石のものとなる。そして、事実そうなったのである。

 実朝に政治的センスは無かったが、歌人でもある彼は感受性の高い人である。渡宋計画に情熱を燃やしながら、周囲の冷淡さを感じてもいたのではないだろうかと私は想像する。おそらくそのような種類の不安や焦燥を彼は将軍になったときから感じていたのではないかと思う。だからこそ彼は仏舎利信仰に傾倒し渡宋計画に懸けなければならなかったのだろう。渡宋計画が幻に終わった時、義時は実朝に何と言ったのだろうか? それ見た事かと言ったような気もするし、言わなかったような気もする。ともかく、義時から見れば、渡宋計画は実朝の一人芝居の喜劇であった。
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百丈野鴨子

2022-11-11 05:37:10 | 公案

 前々回と前回記事において実存的視点というものをとりあげたのだが、そういう観点から過去に取り上げたこともある禅宗の公案「百丈野鴨子」について再度検討してみたい。 

 公案というのはいわゆる禅問答のお題のことと思ってもらって差し支えない。禅問答というと一般には訳のわからないことを指す、確かにそのようにとられても仕方のないようなやり取りが多いのだが、禅はあくまで宗教であり学問ではない。論理的な正確さよりも、修行者を導くための実質的な効果を重視する。その為に意表を突くようなやり取りが多くなるのである。 しかし、そのような奇妙なやり取りの中にも、哲学的な普遍性があるということについて、できる限り論理的に説明したいと思う。 

 私たちはエッフェル塔の写真を見て、「あっ、パリだ。」と言う。自由の女神なら「ニューヨーク」である。しかしエッフェル塔はパリではなく、自由の女神はニューヨークではない。当たり前の話である。では、なにを指してパリであるというのだろうか。同じパリと言っても、キュリー夫人のように研究室と自宅を往復していた人と、現代日本から観光に訪れた人とでは、全然違うものを見ていたはずだ。お台場には自由の女神のレプリカがある。この写真を子供に見せて、「ここがニューヨークだよ」と教えると、子供は「ふーん、そうなんだ、と納得する。一方、大人にはマンハッタンを背景にした本物の自由の女神の写真をみせて、「ぼくがニューヨークに行った時の写真です。」と言う。写真を見せられた子供も大人もそれがニューヨークの写真であるということを了解するのであるが、もちろん子供に見せた方はニューヨークのものではない。しかし、両者の了解の仕方に本質的な違いはあるのだろうか? 禅者にとってはそれらに本質的違いはない。それどころかニューヨークやパリそのものにも本質的な違いはないと見るのである。パリやニューヨークと言っても、単に「ここ」で想起しているにすぎない。モンマルトルの丘もセントラルパークもただのイメージによる「記号」に過ぎないのである。 

 臨済禅ではその修業の第一歩において、「趙州無字」(狗子仏性)かまたは「隻手音声」の公案が与えられるのが通例である。趙州無字について言えば、先ず「無」字そのものになりきれと指導されるはずだ。論理的にはありえない話だが、とにかく師家を信じて、一日中「むーむー」言いながら過ごすことになる。で、ある時、「自分が無か無が自分か?」と言う状態になっていることに気がつく。その時同時に、あらゆる概念に本質的な差異がないことを「体感」するのである。それが空観である。一切皆空、パリもニューヨークも東京も、それらはすべて記号に過ぎない。本質的な実体はないのである。我々の思考・分別というものは単に記号を操作しているにすぎない、というのが禅の透徹したものの見方である。だから禅では、「ここ」しかないと言う。パリだニューヨークといっても、それは何処かにあるというものではない。ただいま「ここ」で想起しているにすぎないものなのだ。禅者にとっては「ここ」しかないのである。「ここ」というのは位置的場所のことではない。それは究極の主体とも言うべき、この世界の「開け」であり、いわゆる「無」のことである。 


 以上述べてきたことを前提に、碧眼録第五十三則「百丈野鴨子」を検討してみよう。これは唐代の名僧である、馬祖道一(ばそ・どういつ)とその弟子の百丈懐海(ひゃくじょう・えかい)の逸話である。ちなみに百丈は「一日作さざれば一日喰らわず。」の言葉で有名なあの人物である。

百丈和尚の修行時代のことである。馬祖大師のお供をして歩いている所へ鴨が飛んできた。そこで馬祖が百丈に訊ねた。

  馬 : 「あれは何だ」

  百 : 「あれは雁(野鴨子)でございます」

  馬 : 「雁はどこへ行った」

  百 : 「向こうへ飛んでいきました」

すると大師は百丈の鼻を思いきりひねりあげた。あまりの痛さに百丈が悲鳴をあげると大師が言った。

  馬 : 「ここに居るじゃないか」

  禅寺においては、すべての行為は自己究明につながるものでなくてはならない、と言うのが建前である。まじめな雲水は四六時中夢遊病者の如く公案に取り組んでおり、師家との会話も世間話と言うようなものであってはいけないというような事情がある。通常の会話としては百丈にまったく落ち度はないのだから、そのような前提を抜きにこの公案を論じてもそれは茶番になってしまう。

 臨済と並び称されるような大禅匠である百丈禅師にもこのような小僧の時代があったのである。「雁はどこへ行った」と問われて、うかつにも「向こうへ」と答えてしまった。問題は「向こう」が何であるかもわからずに答えてしまったことである。自究明のさなかにいる雲水ならば、「雁」だの「向こう」だの分別があるはずはないのだ。禅者には常に「ここ」しかないのである。

鼻をつままれた百丈は、その痛さに我に返った。「ここにいるじゃないか」と言われて、百丈はあらためて自己の本性を悟ったのである。

 (参考 ==> 「公案インデックス」


山下公園
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