禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

性同一障害とはなにか? そんなものが本当にあるのだろうか?

2023-11-01 16:19:56 | 哲学
 前回記事の手ごたえがいまいちで、あまり真意が伝わっていないような気がするので、もう少ししつこく説明させていただきたい。言葉と論理はわたしたちの日常生活には必要不可欠ではあるが、基本的に2値選択の組み合わせによって構成されているし、そこから出てくる結果も、真か偽か、有るか無いか、やるかやらないか、敵か味方かと言った2項対立でしかない。夕食のおかずはどうするかとか、子ども達の三角ベースのチーム分けをどうするかと言ったようなことなら、さほど問題はない。しかし、あまりにも微妙な要素が複雑に絡み合った、例えば倫理的要素の絡む問題などを単純な言葉と論理に当て嵌めると微妙なニュアンスがすべて捨象されてしまって、とんでもない結論に至ってしまうことが多いのである。中道とか中庸と言うのは、そのような二項対立に陥ることなく、ものごとの真相を見極めようとする態度のことである。

 イスラエルとパレスチナ人の対立にしても、本来彼らが対立するいわれはないのである。もともとパレスチナでは、イスラム教徒とユダヤ教徒それにキリスト教徒もともに仲良く平和の裡に暮らしていた。銃を手に激しく憎悪をたぎらせてにらみ合っている彼らは、別の出会い方をすれば親友になれたかもしれない人々なのだ。人を宗教、民族、国家という言葉によるカテゴリーで分断することが、本来は親友であったかもしれない人々を敵と味方に分断してしまうのである。二項対立のわなに陥ってしまうということにより、人間同士の日常的なデリケートな感情の交流などはすべて捨象されてしまう。このことがロゴス中心主義の最大の問題点である。

 ここで少し目先を変えてみよう。近頃よく耳にする言葉で「LGBTQ」というのがある。私たちが学生だった頃は、レズビアン(Lesbian)、ゲイ(Gay)だけだった。それがバイセクシュアル(Bisexual)、トランスジェンダー(Transgender)が加わりLGBTとなり、それだけでは終わらずに、いつのまにか"Q"まで付いている。クエスチョニング(Questioning) の略だそうである。性的嗜好ををいくらカテゴライズしようとしてもしきれない、性的志向などというものは厳密なことを言えば人間の数だけあるはずだ。なぜなら人類は進化の過程で偶然できたものに過ぎないからだ。もし人間のイデアという神様が描いた設計図に従ってできたものであれば、規格から外れたものは「不良品」とか「出来損ない」と呼ばれ得るだろう。しかし、人間は決して規格に従って造られたのではない。そのような規格を決定する超越的な存在者たる神もいない。無常の世界ではすべては過渡的で偶然的で常に変化している。人間の遺伝子も常に無計画に変化し続けているのである。「性同一性障害」というが、一体性的志向のどこがどう障害だというのだろう。

 以前も取り上げたことがあるが、朝日新聞の「子どもたちの人生を救うために はるな愛さんが考える多様性と五輪 」という記事の中で、はるな愛さんの言葉をもう一度ここで紹介してみたい。

≪ 私は「トランスジェンダー」と呼ばれますが、その言葉に当てはめられるのはちょっと違うかなという感覚もあります。「LGBT」と呼ばれる人の中でもいろいろなタイプの人がいて、みんな違って当たり前です。4文字ではとても表しきれません。
「LGBT」が表す性的少数者のことを、全部知ることは大変で、私もすべてをわかってはいないと思います。わからなくていいとも思っています。
わからないことをなくすよりも、自分の隣にいる人が、今どうして欲しいと思っているのかを聞ける方がいい。知らなかったり、間違えていたりしたら、それを素直に受け入れる気持ちが大事。一番知らなくてはいけないことは、人のことを決めつけることが、その人を生きづらくさせることだと思います。 ≫
 
 はるなさんは子どもの頃からおかまと呼ばれて差別を受け続けてきた。それはとてもつらいことだったに違いない。長い間その悩み苦しみと格闘し続けてきた。その結果、「そんなもの分からなくて良い」という気づきを得た。そんなことを分かるより、虚心坦懐に思いやりを持って人に接することが大事なのだということに気がついた。一見何でもないようなことだが、なかなか言えることではないと思う。真剣に生きている人の言葉だとも思い、とても強い感銘を受けた。

 龍樹に言わせれば、性同一障害も縁起によって生じるのだということになる。縁起と言うのは相依性のこと、なにごとも単独で成り立っているのではなく、他との相対的な関係性によって生じてくるのである。もし、われわれの社会には法律による結婚制度などなくて、他人の自由と人権を最大限に許容するような寛容な精神が行き渡っている。もしわれわれの社会がそのようなものであったなら、現在「性同一障害」などと呼ばれているものは存在しなかっただろう。『障害』も「障害者」も社会が作り出しているのである。
 

動物であれ植物であれ、生殖はどうしても過剰になりがちである。

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