禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

脱構築と中庸

2022-08-27 17:25:16 | 哲学
 前回記事ではジャック・デリダという哲学者をとり上げたが、彼の哲学は脱構築であると言われている。一般に西洋思想は言語と論理により真理を究めようとするロゴス中心主義であると言われる。それは、真と偽や善と悪というような二項対立的な発想を積み重ねることによって成り立っているが,こういった発想に潜む自己矛盾を暴くことによって、それまでのロゴス中心主義を解体していこうとする、それが『脱構築』という試みである。 

 デリダの著作はとても難解で私にはハードルが高すぎるのだが、それでも魅力的に感じるのはその主張するところが仏教の空観や中庸に通じるような気がするからである。「ロゴス」というのはもともとギリシャ語の「言う」という動詞の名詞形で「言われたこと」を意味する。そこから「言葉」・「論理」を含む多義的なニュアンスを持つ言葉となっているのである。それで、ロゴス中心主義というのは言葉と論理によってものごとを見極めようとすることであると言っても良いだろう。

 一体それのどこがいけないのか? 「言葉と論理によってものごとを見極めようとする」それはつまり「考える」ということである。人類は考えることによって偉大な文明を築き上げてきたのである。実際に考えることを止めてしまったら、おそらく人は生きてはいけないだろう。問題はロゴス中心主義が言語と論理を絶対視するところにある。例えば三段論法のような、いわゆる形式論理というものは極めて明晰であるので、まともに考えていくと、私達にはそれを疑うことが出来ないというかそれは確かに正しいのであるが、そこには一つ問題がある。

 問題というのは、現実はとても複雑多様で単純な論理は適用できないということである。形式論理というのは数学のような抽象的な領域ではその威力をいかんなく発揮する。しかし現実社会というものはあまりにも複雑だし、その構成要素についても我々はすべて知っているとはとても言えない。

 「A=A」は同一律という重要な論理規則であるが、無常の世界においてはあらゆるものは動き変化し続けているのであるから(厳密には)“A“を“A“と同定することは不可能であると主張することにおいて、大乗仏教とデリダは一致している。つまり、現実には不可能な「A=A」という同定を仮定しなければ成立しないはずの単純な形式論理によって、複雑に流動している現実のものごとを割り切ることは危険だというのである。

 私の学生時代の頃は、大抵の若者は左翼思想に染まっていたと言ってもよいと思う。「少数の資本家が大多数の労働者から搾取している」ことは明らかであるよう思われていた。若者は性急である。「不公正であることがはっきりしているからには、すぐに変革すべきである。」となる。正義はわが方にありとして、暴力的な手段に訴える学生が少なからずいた。しかし、そのことごとくが結局は破綻してしまった。その極端な例が「あさま山荘事件」である。歴史上を振り返っても、いわゆる共産主義革命が結果的に成功したためしはない。極端な例を挙げれば、カンボジアでは1975年から1979年というたった4年間で、クメール・ルージュ政権によって200万人もの人びとが虐殺されてしまったと言われている。実に当時のカンボジア人口の4分の1もの人々が殺されてしまったのである。論理に頼る人は得てして自分の無謬性を疑うことをしない。どうしても他の意見に対する許容度が低くなってしまうのである。

 崇高な理念に向かって自己の犠牲を顧みずにまい進したが良い結果をもたらさない。なぜか? 人間の考える理屈は大雑把すぎて現実には当てはまらないことがままあるのである。どんなくだらない社会体制であったとしても、長い歴史を経てきたからにはさまざまな利害調整が積み重ねられてきた結果の上にそれはある。いろんな不条理や不公正があったとしても、その上に多くの人々の安寧が築かれていることを忘れてはいけないのである。イデオロギーは時としてその人々の日常のことを置き去りにしてしまう。「ものごとは理屈通りにはいかない。」とよく言う年寄りを若者は「保守的である」として否定的にとらえがちであるが、「保守」には中庸を保つという重要な意義もあるのである。
 
 
 
(千葉県香取市佐原にて)
 
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