前回記事についてコメントをいただいたので、もう少し空について論じてみたい。
ナーガルジュナ(龍樹)は「空とは縁起である」と言っている。縁起とは「縁によって生起する」という意味の漢語だが、中村元先生によれば、原典のサンスクリットは「相依性」の意味に解釈すべきだという。
相依性というのは相互の依存関係のことである。例えば、ここに山があったとする。その山はそれ自身で山として成立しているのではなく、ただ周りの平野に比べて土や岩が多めに集まっているだけのことで「山」と呼ばれているにすぎない。谷や平野があって初めて山が成立する。相依性というのはそういうような意味である。
山を構成している土や岩のどれをとっても山としての本質を持っているわけではない。経典的な表現を使えばね「山は無自性である。」ということになる。
このようなものの見方をすればすべてのものが相依性によって成立していることが分かる。人間だって、たんぱく質や水分で成り立っている物質に過ぎないということになる。しかもそれらは複雑なメカニズムを構成しながらも新陳代謝を繰り返しどんどん変容している。そこに固定的な人間といわれるものは実は存在しない、大局的に見れば川の流れの中にできる渦のようなものを我々は「人間」と呼んでいるのである。
如何なるものもそれ自身は無自性である、というのが一切皆空という意味である。我々は概念によって世界を把握しようとする。概念というのは言葉と言ってもよい。「山」という言葉は山と山以外を区別するものでしかない、つまり記号である。「色即是空」というのは概念という記号による世界把握を一旦停止しよう、ということである。
このように述べてくると、空観というのは唯物的弁証法に似ているかもしれない。あまり強調しすぎると「空」が「空しい」という意味に解釈する人も出てくるだろう。
かわいい赤ん坊を見て、「これはタンパク質と水の塊に過ぎない」などと考えるお母さんはいない。それは母親にとってかけがえのないのないリアリティをもつものである。もし子供が早死にしたら、その母親は悲しみに打ちひしがれる。仏教はその悲しみを否定するような非人情な思想ではない。母親は悲しんでしかるべきである。しかし同時に、その子供がタンパク質などで出来ているメカニズムであることも本当のことなのである。だから何かの拍子にそのメカニズムが停止してしまうこともありうる。だからその時は、どんな悲しいことであろうとその事実を受け入れなくてはならないと釈迦は言うのである。
一切は空であるから、固定観念に執着してはならない。自分の思い通りにならないことを受け入れることができないのは執着があるからである。世にいうストーカーなどというのはその典型であろう。この世は思い通りにいかないものである。子を亡くした親も悲しみを乗り越えて生きていかなくてはならない。それが無常を受け入れるという仏教的諦観である。
空は「空しい」という意味ではない。ただ無自性であるということを言っているだけであってニヒルなニュアンスは一切ないのである。空とは言ってもそれは現前せるリアルな実在であるということを忘れてはいけない。「空即是色」とはそういう意味であると私は解釈したいのである。あくまでこれは私の解釈である。短いお経の文言はいろいろな解釈が成り立つ、こうこうであるというふうに断言することはできない。その辺はお含みいただきたい。
いろいろとネガティブな面ばかり書いてきたが、空観を通して世界を見るということは「あるがままの」リアルな世界に生きる自分を再発見するという意味もある。そこに「妙」というものも生まれてくるのである。
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