禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

庭前拍樹 ( 無門関 第三十七則 )

2017-04-18 06:07:59 | 公案

  趙州、因みに僧問う、「如何なるか是れ祖師西来の意」
  州曰く「庭前の柏樹子」

趙州とは唐代の大禅匠、趙州従諗のことである。ちなみに公案に出てくる回数は趙州が他を大きく引き離し第一位である。その趙州にある僧が、「如何なるか是れ祖師西来の意」と問うた。祖師とは禅の始祖達磨大師のことで、彼がはるばるインドからやってきたのは何のためか、つまり仏教の大意はなにかと聞いたのである。それに対し趙州は「庭の柏の木じゃ」と答えた。と、これだけである。禅問答とは意味不明な言葉のやり取りのことを言うが、そういう意味でこの公案は禅問答の最たるものだろう。まるでとりつくしまもない内容だが、何とかここから哲学的な意味をくみ取ってみたい。

「何ですか?」と問われて「これこれこうです。」と答える。そして、「ああ、なるほど」となるようなやりとりは、本来禅にはない。真理は教えられるものではなく自ら悟るものだからである。でも、問われれば親切に答える。で、趙州は「庭先の柏の木」と答えたのである。おそらくたまたま柏の木が目に入ったからそう答えたのだろう。答えは石でも犬でも何でもよかったはずである。そこから真理を見出せるか否かは問うた僧の側の問題である。

一般に科学的真理というのは現象の背後にあって、その現象を成り立たせている原因となるものを指すが、禅仏教においては現前するそのものを真理とするのである。それを「あるがまま」というのである。哲学者は「私はなぜ私であるのか?」と問う。そんなものいくら問うても分かるわけはない。すべては私が私であることから始まると見定めるのである。

目の前にある柏の木は一見何の変哲もないただの木である。しかしよくよく考えてみれば、「私がなぜ私であるのか?」という問い以上に不可解でもある。考えてもみて欲しい。その柏の木は誰が作ったのか、種をまいたら簡単に生えてくるというかもしれないが、その種を自力で作れる人などどこにもいない。考えてみれば何とも玄妙なことか。趙州は僧にその玄妙さを一挙に了解せよと要求しているのである。

若者はときに「私はなんのために生きているのか?」と問いかける。すでに生きている最中だというのにである。彼は問いながら、実は何を問うているか自分でもわからないのである。それはいくら頭で考えても分からない問いである。問う順序を間違えている。すべては今生きているということから始まるのである。それを知ることは同時にこの世界の玄妙さを知るということでもある。

この公案の原典である趙州録では、二人のやり取りは次のように続いている。

僧曰く「境をもって人に示すことなかれ」
州曰く「吾、境をもって人に示さず」
僧曰く「如何なるかな是れ祖師西来意」
州曰く「庭前の柏樹子」

「境」とは自分をとりまく外部の事物の意味である。つまり、心の問題を問うているのに心の外のもので説明している、と僧は抗議した。しかし、「心-境」という二項対立そのものがすでに科学的な世界観にとらわれている。そのような観点に立っていない趙州は、「吾、境をもって人に示さず」と答える。そして冒頭のやり取りが繰り返されることになる。

(参考 ==> 「公案インデックス」


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死に向かって生きる

2017-03-01 06:07:14 | 公案

「死に向かって生きる」なんて言うとハイデガーみたいですが、昨日聴いた南直哉さんの講演のタイトルです。南さんはご存知の方も多いと思います。青森県の恐山の院代(副住職)をなさっている、いまや曹洞宗きっての論客です。講演の出だしをちょっと復元してみます。一つ一つの言葉は覚えていないので、大体の感じです。

こんな演題で人が集まるのかと思ってましたが、たくさん見えておられますねぇ。(聴衆の顔を見渡して) なるほど、お迎えの近い方が多いようですねぇ。( どっと笑う )   あの男は ( 死んだらどうなるかを ) きっと知っているに違いない、と思ってきたのでしょうね。きっと私が恐山の院代なんかやっているからでしょうね。なにせ、あの霊場、「れ・い・じ・ょ・う」の恐山ですよ。そこの役員かなんかをやっているぐらいだから、あの男が知らないはずがないと思うのでしょうね。しかし、( ここで声のトーンを一段と上げる ) そんなことぁ、分かるわけがない! 

‥‥‥‥ (  中略 ) ‥‥‥‥

死んだら、どっかへ行くわけですけど、たいてい門番みたいなのがいて、生きてる間に何をやったかチェックされますな。いわゆる閻魔帳ってやつです。それで、あんたはこっち、あんたはあっちと振り分けられるわけです。でも、( ここでトーン上がる ) し・ん・ぱ・い なぁいです。どっちへ行っても大したことありませんっ! 天国なんて、あなた、なんか雲の上でふわふわと、そんなの (トーン上がる )  お・も・し・ろ・いわけがないっ! えっ、地獄が怖い? 大丈夫っ! 苦しいのはすぐ慣れます。私は永平寺で地獄を20年間経験しましたっ。針の山、大したことありません。全然大丈夫、ちょっと痛いだけです。そういうのは慣れてくるんです。経験した私が保証します。

とまぁこんな感じです。下手な噺家よりよっぽど面白いです。90分間で30回は笑かしてもらいました。もしかしたら笑い過ぎて、せっかくためになること言ってくれたのに、肝心なことを聞き漏らしたかもしれません。

講演は横浜駅構内のルミネであったので、臨港パークを散歩して桜木町から電車で帰りました。

フルーツ・ツリー ( 臨港パーク 横浜 )

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狗子仏性(趙州無字)

2016-12-02 11:07:03 | 公案

(この記事は過去にアップロードしたものに加筆訂正したものです。)

少しでも禅をかじったことのある人ならだれでも知っているでしょう、無門関の第一則です。臨済宗では「隻手音声」と並んで初関として与えられることの多い公案です。公案の内容はいたって簡単です。

趙州和尚、因みに僧問う、「狗子(くし)に環(かえ)って仏性有りや也(ま)た無しや。」州云く、「無。」

( ある僧が趙州和尚に「犬にも仏性がありますか?」と問うたところ、趙州は「無」と答えた。)

おそらく参禅者は「無」の一字に集中するよう指導される。そして日がな一日中むーむー言っていることになる。一生懸命やっていれば、そのうち自分が無か無が自分かという状態になる。いわゆる三昧です。そうなればそのうち「はっ」と気付く。思わず大声で「無ーだぁ!」と叫びたくなるかもしれない。いわゆる概念の崩壊である。あらゆるものの差別相がなくなり、いかなるものにも固定的な本質というものがないことを知ります。師家にもよりますが、たいていの場合その時点で見性を認められるでしょう。そこから初めて本格的な禅の世界へ足を踏み入れることになります。

禅問答というのは知識のやり取りではありません。これこれこうですと教えてもらって、ああそうかと納得するようなものではないのです。「犬に仏性がある」と言われて「犬に仏性がある」と知る、禅的にはそのような分かり方を「何かを知った」とは言わないのです。犬に仏性があるかどうかは、まず仏性がなんであるか見極めることが出来なければ言えないし、その上で自分が犬でなければ、あるともないとも言えないのが本当の道理というものでしょう。

趙州和尚の「無」は、そのような言葉のやり取りに対する拒否の意味も含まれているように受け取れます。無門慧開はこの「無」を有無を超越した「無」であるとしています。この公案を第一則に取り上げたのは、まず有無の邪見を排し中道を目指すための最初の関門という意味でしょう。そしてこの公案集を「無門関」と名付けたのは、無門和尚の名にちなんでということもあでしょうが、この「無字」の一関に「無門関」全体の性格を象徴させているということもあると思います。最終的には、「仏性」と「無」がぴったり重なるところまで工夫しなければならない深い意味を持つと思います。

参禅のことはひとまずさておいて、インターネットにはびこる当公案に対する解説に気になる点があるので、そのことについて少し注文をつけたいと思います。

大抵の解説は、僧が「犬に仏性がある」ということが仏教上の通念であることを前提として、趙州に問いを投げかけたということになっている。しかしどうだろう、そんなに簡単に「狗子に仏性有り。」としてしまって良いのでしょうか?

ちなみに「仏性」とは、コトバンクによると
≪仏教用語。覚性とも訳され,如来蔵の異名ともされる。完全な人格者,仏陀となるべき可能性をいう。われわれが仏陀の教えを聞き,その教えに従って修養努力して行くことによって,ついには完全な人格者となることができるのは,われわれのうちに真理を理解し,それを体得実現しうる可能性があるからで,この能力が仏性である。≫

となっています。えらく難しい。「仏性」が上記のとおりの意味であるならば、「仏陀」がどういうものであるか分からなければ、「仏性」の意味もまた分かりえないのではないでしょうか。つまり、悟っていなければ「仏性」について語ることもまたできないはずです。理屈を言えば、犬の仏性を問題にする前に、まず先に自分の仏性が問題になるはずなのです。先にも指摘したことですが、「一切衆生悉有仏性」などという言葉を聞いて分かったつもりになったとしても、それは単なるスローガンにしかなりません。

インターネット上の解説は、ほとんどその辺のことはすっ飛ばして、趙州の答えた「無」は有無を超越した「無」であるというようなことを、判で押したように述べているのですが、この辺は参禅など経験したことのないほとんどの読者にとってはきわめてわかりにくい。そういう人たちにとっては、「仏性があるのかないのか」について空疎なパズルを提供するだけのことになってしまい、ひいては禅に対して見当違いなイメージを持たせてしまうことにもなっているのではないでしょうか。

私の個人的な意見を言わせてもらえば、この「仏性」という仏教用語は「心」のことであるとすればどうかと思うのです。「犬に心はあるのか?」というのは一般の人にも哲学的課題として有意味であるようにも思えます。中には「心ってなんだろう?」と内観するうちに趙州の「無」に肉薄する人も出てくるかもしれません。

もう一つ公案に向かう場合には、禅には実存的な視点しかないないということをわきまえている必要があります。問題とされているのは、常にここと今しかなく、問われているのは自己についてであるということです。禅には己自究明以外の問題はないと考えるべきであります。したがって、ここで問われているのは、表面的には犬の仏性でありますが、本当に問われているのは自分の仏性についてであります。犬を外から眺めていてもなにも分かりません。自分がその犬になりきって公案に向かい合わなくてはならないのであります。

 

(参考 ==> 「公案インデックス」

 

朝日の当たる部屋

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公案に関する哲学的見解

2016-11-29 17:04:37 | 公案

公案名をクリックすると当該の記事にジャンプします。

 ① 非風非幡

 ② 久響龍潭

 ③ 百丈野鴨子

 ④ 倩女離魂 ( せいじょりこん )

 ⑤ 倶胝竪指(ぐていじゅし)

 ⑥ 婆子焼庵

 ⑦ 狗子仏性(趙州無字)

 ⑧ 庭前拍樹

   ⑨  百丈野狐(不落因果・不昧因果)

   隻手音声を聴け

 


 ※ あくまで私個人の哲学的見解です。参禅の為には参考にしない方が良いでしょう。

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