禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

恋のハレルヤ

2021-01-30 05:16:27 | 雑感
 黛ジュンが「恋のハレルヤ」という歌でデビューしたのは私が高校生の頃であった。かなりパンチのある歌で街中のそこかしこから聞こえてきた、それほど流行った歌で、私自身も口ずさんだ記憶がある。
  
  〽ハレルヤ 花が散っても 
   ハレルヤ 風のせいじゃない 
   ハレルヤ 沈む夕陽は 
   ハレルヤ 止められない 
   愛されたくて 愛したんじゃない 
   もえる想いを あなたに ぶっつけただけなの.

 自分でも歌ってみたものの、少し引っかかるところがあった。それは、いきなり「ハレルヤー」と絶叫するところから入ることである。「なぜハレルヤなのか?」、それが西洋由来の宗教的な意味合いを持つ言葉であることだけは知っていた。しかし、意味不明な外国由来の言葉を思い切り声を張り上げて歌うところに、気恥ずかしさを感じるのである。この歌詞を作った人は恥ずかしくないのだろうか? という疑問と、しょせん流行歌とはそんなものかというような思いがないまぜになっていた。

 ところが先日テレビを見ていたら、当の作詞家であるなかにし礼さんの追悼番組で、本人がこの「ハレルヤ」について語っていたのである。それによるとこの歌は終戦後の引き揚げの歌であるというのだ。「?」。なかにしさんは満州生まれで、終戦時に難民となってしまった。.関東軍は民間人を残して引き揚げてしまった。(このことについては関東軍側にも言い分があるかも知れないが、多くの居留民が取り残されてしまったのは事実) そして、日本政府から在外公館に対し「居留民はできるかぎり現地に定着せしめ る方針を執る」という訓電が打たれたのが、終戦前日の昭和20年8月14日のことである。つまり、棄民である。翌年にGHQから日本政府に対し「引揚げに関する基本指令」 が出て、やっと引き揚げ事業が動き出したのである。

 なかにし礼さんの難民体験はとにかく過酷なものだったらしい。逃避行中にソ連機からの機銃掃射にさらされたこともあるという。目の前の人が血を流して死んでいく、7,8歳の少年がそのような修羅場を目にしたのである。その少年が船に乗って舞鶴港(※注)に着いた。その時の青い海と晴れ渡った空を見た時、はじめて命の危険から解放されたという感慨がわいてきた。その時の烈しい感情を表現する言葉として、「私はユダヤ教徒でもキリスト教徒でもないが、その時の気持ちを表すためには『アーメン』でも『南無阿弥陀仏』でもない。「ハレルヤ」という言葉が一番ふさわしい。」と彼自身が述懐していた。

 つまり、引き揚げ時の難民状態から解放された感動を恋に置き換えて歌ったというのである。すると、恋の相手は当然日本である。「愛されたくて 愛したんじゃない」とは、日本国から「居留民はできるかぎり現地に定着せしめ る方針を執る」とすげない態度をとられても、向かう先は祖国日本しかないという切ない心情を歌ったものと読めば合点がいく。あこがれ続けた祖国であるから念願かなって帰ってきた暁には、「もえる想いを あなたに ぶっつけただけなの」となる。
 
 引き上げ体験が恋の歌のベースであると聞いて意外だったが、やはり力のある歌を作るためには実際の感動をもとにしなければならないということなのだろう。説明を聞いて、「ハレルヤ」に対して永年抱いていた違和感も消えた。

※注) 「舞鶴港」と聞いたつもりだったが、Wikipediaの「恋のハレルヤ」の説明文では、「(日本への引き揚げ船が出る港がある)葫芦島の小高い丘からの景色(引き揚げ船、青い空と海)を見た時 の感動を歌ったもの」となっていたので、私の聞き間違いかも知れない。
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オリンピックなる雑念を払って、コロナ撲滅に専念すべし。

2021-01-26 17:25:48 | 政治・社会
 日本の政治家はとにかく楽観的だ。最悪の事態というものを想定したがらない。そして一旦福島第一原発のような事故が起これば「想定外」だったと言う。無責任な楽天性と言うしかない。コロナの深刻さを認識できないでGoToキャンペーンなどをぶち上げる、そんなノー天気さが結局医療崩壊を招いてしまった。
 東京都では既に8千人以上もの自宅療養者がいるという。8千人もの感染者が東京中にばらばらに点在している。各個人の状態は保健所の担当者が電話で確認しているのだという。なんと効率の悪いことをしているのだろう。それに自宅療養者が自宅でじっとしているという確証もない。感染者は一か所に収容した方が容態変化の管理も楽だし感染拡大のリスクも小さくなるはずだ。オリンピックの選手村に収容すればいいのではないか。それが出来ないのは「なにがなんでもオリンピックをやり遂げなくては」という心づもりがあるからだろう。不明朗な裏金まで使って誘致したオリンピック。福島第一原発の放射能は "Under control" などと嘘ついてまで誘致したオリンピック。なぜそこまでオリンピックが好きなのか?

  オリンピックを実施して、高揚したムードの中で総選挙をやりたいのか?

 オリンピックとコロナ対策、一体どちらが重要か? 考えるまでもない、すでに医療崩壊は始まっている。本来なら死ななくてもよい人が死んでいく事態が生じている。現場の医療関係者は疲弊しきっている。これは国難と言っても良い事態だ。遅きに失した感があるが、迷わずオリンピック中止を決定すべきだろう。そして、オリンピック担当の都職員はすべてコロナ対策に振り向けるべきである。
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この世界はなぜ不条理なのか?

2021-01-23 16:05:18 | 仏教
 ほとんどの人は失恋の1回や2回は経験していると思う。平和な社会に育った人にとって、失恋ほどつらい体験はそれほどあるものではない。悲嘆にくれ、自分を全否定されたほど落ち込んでしまい、生きる気力を無くしてしまいそうになる。そういう時に、自分が相手を好きになったほど相手も同じほど自分を好きになる、というふうな仕組みに世界がなっていたらどんなにか良かっただろう、と思ったことがある。現実はそうはなっていない。なぜか? 
 
  このことについて西洋では、世界は超越的な意志(つまり、神)によって創造されたという考えが主流である。だからこの世のすみずみまで神の理性(ロゴス)が行き渡っているとみる。一見この世界は不条理に見えても、すべてを神様が見ていて下さって必ず(あの世で)帳尻合わせをしてくれるのである。

 そういう考え方は東洋にもあって、死んだら閻魔大王の決裁によって極楽行きか地獄行きに振り分けられる、というようなことを子供の時分に教えられた人が多いと思う。しかし、それは本来の仏教的な考え方ではなく、いわゆる方便として伝えられたものである。仏教では超越的な神というものを考えない。たぶんこの世界は偶然できたものであるとする。「偶然」というのは、なんらかの意志によって意図的に計画されたものではないということである。だから、この世界は人間のご都合に合わせて設計されているわけではない、つまりこの世界が不条理であるのはある意味当然なのである。
 
 仏教における無常観というのもこの偶然というところから出てくるのである。キリスト教世界ではすべてが神さまの思し召しであるが、仏教においてはそのような超自然的な存在はないので、われわれの運命を差配するものは何もないのである。つまり、われわれの運命を保障するものは何もないということになる。そこに実存的な不安がある、それが無常観である。

 キリスト教を信じることが出来る人、それはそれで幸せである。神の意志に従って善根を積めば、必ず報われることが保証されているからそこには何の不安もない。信仰深い人は迷いのない力強い一生を過ごすことが出来る。では、神さまのいない仏教徒はどうすればよいのか?  せっかく良いことをしても神様が見てくれているわけではない。なんの報酬もなく働けと言われているようで、なんか損するような気がする。確か、仏教においても因果応報とか善因善果と言っていたのではないのか? 多分それは方便として言われているような気がする。残念ながら神さまがいない以上、仏教には契約関係における因果応報というようなものはありえない。将来的な見返りが有ろうとなかろうと、善いことをしなさいと言うのが釈尊の教えである。

 そういう意味では、仏教は性善説と言える。困っている人がいたら助けてあげたくなる、それが「慈悲」、現代語でいうところの「愛」である。助けてあげて、その人が幸せになったら自分まで幸せな気分になる。それが仏教本来の因果応報、善因善果である。将来の見返りを期待して善行を施すというのは、仏教的見地から言えば、単なるビジネスでしかない。私たちにはこの世界をあるがままに受け入れなくてはならない。「世界はかくあるべし」とこの世界に自分の恣意を押し付けることは出来ないのである。

 美しい女性を好きになったら、その人に自分を好きになって欲しいと願うのは当然のことである。なんとか自分のことを振り返ってもらうために、スポーツを一生懸命やって格好いいスタイルになるとか、勉強を一生懸命して一流大学に入るとか、一生懸命働いて大金持ちになるとか、そういう努力をするのもいいだろう。しかし、どんなに頑張ってみても、その人が自分以外の人を好きになってしまうということがある。どれほど好きであってもあきらめなければならないことと云うのはあるのである。人は現実を受け入れなくてはならない。「自分はこれほどあの人を好きなのだから絶対あきらめることはできない」というのは執着に他ならない。執着が煩悩を生むのである。

 「世界をあるがまま受け入れる」とは無常の理を知るということである。「この世界が不条理」であるのは自分の恣意的な価値観を世界に押し付けているからである。世界が無常であるということを骨の髄から理解した時、その不条理は解消され、この世界の絶妙さを理解することが出来るのである。考えてみれば、それほど人を好きになれることができたこと、そのこと自体が素晴らしいことに違いないのである。私たちはそういう世界に生きていることに気づくべきだと思う。
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アラーとゴッド

2021-01-21 11:11:03 | 哲学
 前回記事では、「金字塔」という言葉について、その内容が空疎であり言語というものはいいかげんなところがある、というようなことを述べた。このことについてもう少し突っ込んで考えてみたい。このブログを読んでいる方々は、私が「御坊哲」と名乗る人間であることをご存じだと思う。もしかしたら長きにわたって読み続けて下さっている方もおられるかもしれない。そういう人にとっては、最初に読み始めたころの御坊哲と現在の御坊哲の人物像は相当変化しているということは十分考えられる。しかし、それにもかかわらず、御坊哲は一貫して同じ一人の人物であると思い続けているはずである。最初に「御坊哲」という名前を目にした時、立ち上がった「御坊哲」の相貌はそのまま維持される。

 10年ほど前にマレーシアにおいて、キリスト教徒に「アラー」という言葉の使用をゆるすかどうかということが大問題になったことがあった。(==>「『アラー』使用認める判決にイスラム教徒反発」) 一神教になじみのない日本人には理解しにくい問題かもしれない。マレーシアはイスラム教徒の多い国である。それで「アラー」という言葉は神様を指す言葉として一般化していて、キリスト教徒も神様のことを「アラー」と呼んでいるのである。それで、2007年にマレーシア当局がキリスト教系新聞に対し「アラー」という言葉の使用禁止を通告したのだが、それに対しキリスト教側はさいばんをおこし、2009年末にクアラルンプール高裁が12月31日、キリスト者も神について「アラー」という呼称を使う憲法上の権利があるという判決を下したのである。

 理屈で考えると、こんな問題が起こること自体がおかしいのである。というのは、もともとイスラム教のアラーとキリスト教のゴッドは指示対象は同じものだからである。英語のゴッドがアラビア語のアラーなのである。イスラム教もキリスト教も同じ旧約聖書を聖典としているからには同じ神を信仰しているはずなのである。どちらもユダヤ教から派生してきた宗教だからである。歴史上の人物であるキリストは、自分をユダヤ教徒であると思っていただろうことは間違いない。もともとのユダヤ教側から見れば、キリストは異端である。また、後発のイスラム教においては、キリストは聖人の一人に列せられている。

 以上のようなことを鑑みれば、神の呼称でいがみ合うというのは愚かなことと思わざるを得ないのだが、イスラム教徒が「アラー」という言葉を口にするとき、アラーの相貌が立ち上がり、そしてそれが独り歩きする。その相貌は光を放ち荘厳さを伴い言葉以上のものになる。その尊い言葉は決して異教徒の穢れた口からは発せられてはならないと思うようになるのである。

 しかし、どう考えてみても言葉というものは空疎なのである。私たちは言葉の真意というものには到達できない。旧約聖書を隅から隅まで読みこんでも神というものを真に理解することは出来ない。御坊哲のブログをいくら読んでも、私の正体にたどり着けはしないのと同じである。人はいつの間にか言葉の相貌をその意味だと勘違いしてしまうのである。もし、旧約聖書を読んで「神」の意味を知ることが出来るなら、イスラム教もキリスト教も区別がなくなってしまうはずである。そうならないのは、ゴッドにもアラーにももともと真の意味などないからだ。イスラム教やキリスト教の知識の深浅は実は問題ではない。「私はイスラム教を信じている。」という言葉による認識をもっているものがイスラム教徒であり、「私はキリスト教を信じている。」という言葉による認識をもっているものがキリスト教徒なのである。つまり、「イスラム教徒である」とか「キリスト教徒である」とかいう言葉にも大した意味はないのである。ただ、「イスラム教徒である」とか「キリスト教徒である」とかいう相貌が独り歩きしているに過ぎない。

 言葉というものが本質を持たないということは、約1800年前に大乗仏教の始祖である龍樹が既に指摘している通りである。龍樹の「すべてを陽炎と看よ」という言葉はそういう意味ではないかと私は思っている。なので、仏教においては信念対立による争いも無意味なものとされるのである。
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金字塔を打ち立てる?

2021-01-16 20:55:56 | 哲学
 ある人が偉大な業績を残した時、「金字塔を打ち立てる」というふうに表現されるが、この「金字塔」がなにを意味するかご存じだろうか? おそらく、金色の文字でその人の功績をたたえるような碑のようなイメージを抽象化したようなものを思い浮かべるのではないだろうか? 私はそのように考えていた。 しかし、金字塔は中国語でピラミッドのことである。ピラミッドの形が「金」という文字の形に似ているので「金字塔」となったのであって、金色の文字は全然関係ない。 ピラミッドのように偉大で、何千年もの後世まで残るような業績を讃える言葉として、「金字塔を打ち立てる」はふさわしいと言える。しかし、ほとんどの日本人はピラミッドを意識することなくその言葉を使用しているのではないかと私は考えている。

 なにを言いたいか? 言葉なんていい加減なものだな、ということを言いたいのである。早い話が、「すごい業績を残す」=「金字塔を打ち立てる」なのである。しかし、金字塔がなんであるかを分かっていなければ、この表現の中身は空疎である、大した意味はないはずなのである。けれども、単に「すごい業績を残す」というよりも「金字塔を打ち立てる」と言った方が、何かを言い得たような気がすることも確かなのである。
 
 言霊という言葉があるが、私達が「金字塔」という言葉を自ら口にした途端、「金字塔」という言葉の相貌つまり言霊が立ち上がると考えられる。その時から「金字塔」という言葉は内容が空疎なまま独り歩きするのである。私はそれが必ずしも悪いと言いたいわけではないが、言語のそういう性質というものをわきまえておく必要があると思うのである。.
 

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