禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

緒方貞子さんを悼む

2019-10-30 10:49:27 | 政治・社会
 緒方さんは元国連の偉い人として知られているが、彼女の功績を知る日本人は意外と少ないのではないかと思う。湾岸戦争後の混乱の中イラク国内のクルド人は非常に大きな困難に見舞われた。隣国に避難しようにもトルコからは入国拒否されている。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR) は難民に救うための組織であるが、当時は、国境を越えないと難民として認められない規定であった。しかし、緒方さんは「難儀をしている人に国内も国外もない。」と言い各方面に働きかけて、クルド人がUNHCRの援助を受けられるようにしたのである。いろんな思惑が交錯する国際関係の中で、緒方さんはただ一つの信念に従って行動していた。それは、困難に遭遇している人々のために、ひたすら外交努力を積み重ねるということである。そのことが、彼女が諸外国から多大な尊敬を集めている理由である。
 
 彼女は日本の大きな財産である。彼女の遺志を理解し模範として行けば、日本は世界中から尊敬される国になるだろう。だが、われわれ日本人自身がそのことを分かっていないようにも見受けられる。日本の難民申請の受理はわずか1%、しかし産業界の要請により労働者としての移民を大量に受け入れようとしている。このようなご都合主義は如何なものか。先だっての台風で、東京都のある区の避難所では路上生活者の受け入れを拒否したという。区民ではないということを理由に、「あなたは風雨にさらされていなさい。」と言ってのける冷酷さを、その職員自身が自覚しているだろうか。
人道主義の立場に立ち自分自身できちんと判断し、主体的に行動する。そういうことを緒方さんは身をもって我々に教えてくれているのである。

 緒方さんが偉大であればあるほど、日本という国の卑小さが際立っている。そう思えてならない。
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純粋経験と実在

2019-10-29 10:07:45 | 哲学
 NHKのEテレで「100分de名著」という番組で「善の研究」が取り上げられていたが、その3回目の放送(10月21日放送)のテーマが「純粋経験と実在」であった。そのビデオを見て、いろいろ思いついたことを述べてみたい。

 哲学愛好家の中にはとても奇妙な言葉遣いをする人がままある。ある人とテーブルをはさんで会話していた時、その人が唐突に「哲君、このテーブルの上にリンゴとバナナが置いてあるけれど、これらは実は僕たちの頭の中にあるんだよね。」と言い出した。リンゴとバナナは「そこにある」ように見えるけれど、太陽から出た光がリンゴやバナナから反射してぼくたちの目の中の網膜から視神経を通って脳で映像となっている、いう訳である。しかし、「全部が頭の中」と言ってしまうと、一体その「中」とは何であるのかが分からなくなる。あくまで「外」があっての「中」ではないのか? すべてが頭の中だと言うなら、果たして頭の外はどこにあるのか?

 禅的視点からいうと、そのような考え方はナンセンスである。リンゴとバナナはあくまでそこにある。「そのように見えている」ということが原事実であって、西田幾多郎はこれに純粋経験と名付けたのである。光と視覚の関係云々というのは後から考えたもの、西田によれば「思惟が直接経験の事実を系統的に組織するために起こった抽象的概念である。」(「善の研究」第2編第2章より)ということになる。

 私たちが考えて言葉にすることはたいてい間違えているのである。「この世界は無常であり不定形であり常に流動している」にもかかわらず、言葉は強引に世界を固定化しようとするからである。現代言語学においては、たとえば「赤」という言葉が特定する意味というものはなく、単に赤と赤以外を分節する機能しか持たないとされている。「リンゴ」という語はリンゴとリンゴ以外を区別するだけである。だとすると、いきおい言葉はデジタル的かつ抽象的であらざるを得ない。テーブルの上にあるリンゴは、よく見てみれば、赤と黄のグラデーションにしても、少しいびつな形の具合にしても、世界に二つとない固有のものである。にもかかわらず、「赤いリンゴ」と言ったとたん、それはなんの変哲もない抽象的なリンゴ、一般的・普遍的なリンゴに仕立て上げられてしまうのである。言語によってこの世界を正確に切り取ることはできないのである。そのことは約1800年前に、大乗仏教の祖である龍樹によって指摘されたことである。

 光と視覚の関係云々という時、私たちはいわゆる物理学というものを架空の領域に組み立てているのである。それは現実にあるものではなくあくまで私たちの思考の中の仮説、説明のための方便であり、一種の虚構である。実在するのは、あくまでそこにあるリンゴとバナナのありのままの姿、原事実としての純粋経験である。


朝もやの中から現れた穂高連峰は実在であるる
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悲しみは汚れない

2019-10-22 09:42:35 | 雑感
 今日、10月22日は中原中也の命日である。82年前に29歳の若さでこの世を去った天才詩人は悲しい人であった。ある種の傲慢ささえ感じるほど自分の才能を信じている人であったが、世に認められるいとまもない短い人生であったのは残念である。

  汚れつちまつた悲しみに
  今日も小雪の降りかかる
  汚れつちまつた悲しみに
  今日も風さへ吹きすぎる
 
  汚れつちまつた悲しみは
  たとへば狐の革裘かはごろも
  汚れつちまつた悲しみは
  小雪のかかつてちぢこまる
 
  汚れつちまつた悲しみは
  なにのぞむなくねがふなく
  汚れつちまつた悲しみは
  倦怠けだいのうちに死を夢む
 
  汚れつちまつた悲しみに
  いたいたしくも怖気おぢけづき
  汚れつちまつた悲しみに
  なすところもなく日は暮れる……

悲しみが汚れるというようなことがあるだろうか? 実際にそのようなことがあろうはずはない。
本当のところは、中也は自分が汚れていることを自ら揶揄しているのである。風が吹きすぎても、小雪がかかってちちこまっても、倦怠のうちに死を夢みようと、なすところなく日は暮れたとしても、悲しみは汚れはしない。中也がみじめになればなるだけ、悲しみのその純粋さと透明さが際立つ、この詩の美しさはそういうところにあるのだと思う。

鎌倉・寿福寺の境内にあった借家が中原の終の棲家となった。
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経験あって個人ある (2)

2019-10-20 11:24:22 | 哲学
 西田自身の述懐によると、「善の研究」における第1編と第2編は書かれた順序は逆であるという。その第2編では、「意識現象が唯一の実在である。」ということがテーマとなっている。この第2編第2章の冒頭の部分を引用してみよう。

「少しの仮定も置かない直接の知識に基づいてみれば、実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである。この外に実在というのは思惟の要求より出でたる仮定に過ぎない。」

 「意識現象」というのは「物体現象」に対する言葉である。我々は通常、「世界は物体で出来ている」と考えているが、西田はそうではないと主張しているのである。我々に直接触れているのはあくまで意識現象であって、物体というのはその意識現象を通してその存在が推論されているのだ、と言っている。哲学の素養のある人であれば、ここで言っている「意識現象」が前回記事における「経験」に相当するものであることがお分かりになったと思う。

 「意識現象」という言葉は、物体を中心とする客観的世界の中で意味をもつ言葉である。意識現象が唯一の実在、この世界のすべては意識現象であるならば、その言葉は適切であるとは言えない道理である。そこで西田はそれを「純粋経験」と言い換えたのである。経験は他に還元することのできない「原事実」である、という意味で純粋である、それで純粋経験というのである、と言うのは私の解釈である。「善の研究」における純粋経験の定義は少々あいまいで、まるで、経験の内に純粋経験と純粋でない経験があるかのように受け取れるような書き方をしている。しかし、あくまで「意識現象が唯一の実在」と言い切るならば、経験そのものはすべて純粋経験でなくてはならない。(このことについては、いつかまた項をあらためて述べたいと思う。)

 西田の「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである。」という言葉の次には、「個人的区別よりも経験が根本的であるという考えから独我論を脱することが出来た。」という言葉が続く。私が思うに、独我論を「脱した」 のではなく、神経症的な独我論から、前々回記事「私は私の世界である」で紹介したウィトゲンシュタインの独我論に変質したということではないかと考える。

 なるほど、主客未分の状態では、その経験は誰のものであるかということは問題にならない。しかし主客分化の状態では、もともと私以外の他者の意識現象など初めからないのである。他者に対する共感も実は私の意識の中にある。そういうことから鑑みれば、私の意識も他の人の意識も同じというようなニュアンスの表現はまずい。むしろ、「意識現象が唯一の実在」と言い切ったときから独我論に徹したのだと考えるとつじつまが合う。ここでまた「論理哲学論考」を参照してみよう。

(「論理哲学論考」 5.64より)
 「ここにおいて、独我論を徹底すると純粋な実在論に一致することが見てとれる。独我論の自我は広がりを欠いた点に収縮し、自我に対応していた実在だけが残される。 」

 この表現は極めて禅的であると思う。自我が没して、それに対応していた実在だけが残される。目の前に山があるとする。この山は私が見ているのではない。ただ山として立ち現れている純粋経験である。いかなる知識・先入観も排除されて、そこに山が純粋な実在として現れている。「柳は緑、花は紅」というのは、究極的に素朴な世界観を表現している。つまり「純粋な実在論」である。
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経験あって個人ある (1)

2019-10-19 05:13:29 | 哲学
 「個人あって経験あるにあらず,経験あって個人あるのである 。」というのは、「善の研究」における西田幾多郎の一節である。倉田百三はこの言葉に感涙したという。ここで言う「経験」は、日常的な意味の経験よりもっと広義で、感官すなわち眼耳鼻舌身意に触れるものすべてを指す。眼に見える山や川や机、テレビから聞こえてくる音曲、キーボードの感触、コーヒーの匂い、カレーライスの味、そしてあなたが思い描く想像まで、つまり、色声香味触法の全てを「経験」と言っているのである。

 普通は、個人が経験をするものだと考えられるが、西田は先ず経験があるというのである。このことは、自分が生まれたての赤ん坊である、と想定した方が分かりやすいかも知れない。窮屈な産道を通り抜けると、いきなり明るい光の中にひっぱりだされる。そこにあなたという個人はまだないはずだ。ひんやりした空気と周りの大人たちの喧騒、ただただ訳の分からない不安の中でギャーギャー泣いている実感だけがあるだけである。

 禅僧は山を見れば自分が山になるという、川のせせらぎを聞けば自分がそのせせらぎの音になるという。これはいわゆる主客未分ということを表現している。自分という主体が山を見ているのではない、ただそこに山の「見え」という経験があると言っているのである。前回記事における「思考し表象する主体なるものは存在しない。 」というウィトゲンシュタインの言葉と同じ趣旨である。そういう風に考えると、「個人」というのは経験の中から想念の中で構成される仮説にすぎないということになるのである。

 これはまた道元禅師の正法眼蔵に通じることでもある。

   仏道をならふといふは、自己をならふなり。
   自己をならふといふは、自己を忘るるなり。
   自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。

 ここにある「自己」を「個人」に、「万法」を「経験」と読めば、西田幾多郎、ウィトゲンシュタイン、道元が同じ趣旨のことを述べているのがわかる。

(次回記事につづく)
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