禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

シアトル酋長の演説

2015-12-28 23:25:32 | 日記

12月15日より米国のシアトルに来ています。現在の環境では日本語入力が不如意で、はしょった表現が多くなりがちですがご了承ください。

シアトルのダウンタウンにパイオニア・スクエアという一角がある。そこに”Chief Seattle"というネイティブ・アメリカンの胸像が据えられている。そう、彼の名が現在のシアトル市の名の由来である。

シアトル酋長は合衆国政府に対して友好的で条約により、彼らの土地を引き渡したことになっている。などというのは白人側の勝手な言い分である。、圧倒的な合衆国側の武力に対して、無益な血を流すことを避けるという判断を下したたのだった。

彼がこの地をさるに当たって述べた演説が感動的であったため、いろんな人が内容をかなり歪曲して広めてしまったらしい。実際の内容は次に揚げるヘンリー・スミス博士による記録がもっとも近いと考えられる。

  クリック=>「シアトル酋長のスピーチ」

一般にネイティブ・アメリカンには雄弁家が多いことが知られている。文字を持たない彼らは口承により一族の叙事詩を紡いできた、そのことによって彼ら自身の文学的素養も鍛えられたのだろう。

演説には、横暴な白人に対する多少の揶揄もあるが、恨みがましくはのべていない。父祖の地を去る悲しみを湛えながら、粛然と無常を受け入れるそんな美しさがある。鈴木大拙流の表現をするなら、シアトル酋長こそ「アメリカ的霊性」に目覚めた人ではなかっただろうか。

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杉原千畝

2015-12-05 22:46:37 | 政治・社会

映画「杉原千畝」が本日より公開となった。彼のことは以前もこのブログで取り上げたことがある。彼の行為はいくら賞賛しても足りぬくらい立派なことであると思う。しかし忘れてはならないのは、このりっぱな行為はあくまで杉原氏個人のものであるということである。つい、「同じ日本人として誇りに思う。」と言いたくなるが、単に同じ日本人の行為だからという理由だけで、まるで自分自身の手柄であるかのような錯覚をするべきではない。

もし日本の国民が真に人道的な人ばかりであったならば、杉原の行為は特に称賛するには当たらない、普通の行為でしかなかったはずである。彼が称賛されるのは外務省の訓令に逆らってまで、ユダヤ人にビザを発行したからである。当時の外務省が人道的な人ばかりであったなら、彼は何の抵抗も感じることなくごく当たり前にビザを交付しただろうし、それは単なる事務処理以上のものではなかったはずだ。杉原の行為がりっぱであればあるほど、日本という国が卑小な国であることを我々は恥じねばならないのである。

もう一つここで注文をつけたい。カウナスで杉原のもとに押し寄せたユダヤ人は間違いなく同情すべき人々であった。しかし、日本を通り生き延びた人々は100%被害者であるとは言い難いのも現実である。イスラエルのパレスチナ人に対する陰湿な仕打ちはかつてのナチスとダブって見えると言ったら言い過ぎだろうか。かつて杉原がユダや人に対したと同じように、イスラエルもパレスチナ人に対し人道的であってほしい。そして杉原の業績を、決して日本におけるイスラエルのプロパガンダに利用させてはならないと思う。

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仏教的存在論(その2)

2015-12-04 06:31:07 | 哲学

仏教ではこの世界は常に流動していて、なにものも一定不変なものは存在しないとみる。一般に個物は確固としてそこに存在するとみなされがちだが、仏教的世界観では水の流れの中の渦のようなものとして見る。ダイナミックに変転する世界の中で比較的安定的なパターンとして出現するものを、我々は個物と呼んでいるのである。

たとえば一人の人間について考えてみよう。一見人間は世界から独立した一個の存在と見られがちだがそうではない。私は毎日口から食べ物を食べ、鼻から呼吸をし、外部から栄養とエネルギーを取り入れ、不要なものを排出しながら新陳代謝を繰り返している。もとはといえば、母親の胎内の一個の卵であったものが、自分以外のものを吸収しながらどんどん自分以外のものになりつつある存在である。死ぬときには最初の受精卵とはあらゆる面で別のものになっている。時間を早送りにしてその一生を俯瞰すれば、水流の中の渦のようなものであることが理解できるだろう。

なにものもそれだけで存在できる実体というものは無い、というのが仏教的世界観である。その見方は物体的なものだけではなく、抽象的観念についても同様である。善悪というのも元々ありはしない。人間が社会を形成して、そのなかの関係性の中から生まれてきたものである。プラトンは美しさそのものが存在するというが、龍樹はそれを認めない。美しい、醜い、高い、低い、右、左、全ては相対的であり、関係性の中から生まれるのである。

そこでこういう反論が出るかもしれない。「すべては関係性だというが、何もなかったら関係性もない。個物を渦に例えるなら、それを形作る水という実体があるではないか。」
もっともな言い分である。関係性を造り出す質料というものはある。しかし、その質料にしてからが実体とは言えないのだ。

西洋哲学の源流であるギリシャの哲学者は、個物を分割していけば「原子」という究極の実体に還元できると考えていた。しかし、現代物理においてもいまだ究極の粒子というものを見出していない。どんな粒子もそのまま安定するということはなく、別の粒子とエネルギーとして崩壊する。エネルギーはそれ自身では発現できない、粒子の運動量や粒子そのものとなって現れる。やはりどこまで行っても関係性の連鎖でしかないのである。

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仏教的存在論

2015-12-03 11:34:00 | 哲学

前回記事では、「大乗仏教の視点に立てば、本来的な健常者や障害者などというものは存在しない。」と述べたので、このことについて少し説明したい。

大乗仏教の始祖は約1800年前のインドの哲学者ナーガルジュナで、日本では龍樹菩薩と呼ばれている。浄土真宗では七高僧の第一に位置づけられており、親鸞作の高僧和讃の中においても次のように謳われている。

   南天竺に比丘あらん
     龍樹菩薩となづくべし
     有無の邪見を破すべしと
     世尊はかねてときたまふ
     ( 龍樹に関する10首中の2首目)

一般に龍樹は空の思想の完成者であると言われている。彼の主張するところは徹底していて、一切の個物だけではなくあらゆる概念も実体としてそれ自体では存在し得ないと説く。「有無の邪見」とは物事を実体視することを指している。すべては縁起によって生じる仮象であるというのである。縁起については諸説あるが、中村元博士によると相依性つまり関係性のことである。「すべては相対的である。」といってもいいかもしれない。

たとえば、我々が「山」と呼んでいるものも、他の場所に比べて岩や土が多く比較的盛り上がっている、そういうものにすぎない。土や石をひとかけらずつ取り除いていくと、いつか「山」とは呼ばれなくなる。そこで山と非山の境界はないことが分かる。実体としての山というものはもともとなかったのだ。

    山は山に非ずこれを山と名づく

山だけには限らない。人間についてもそうである。個物としての人間は、たまたまたんぱく質やカルシウムがうまいこと組み合わさって動いているだけと見ることもできる。概念としての人間iについて云えば、チンパンジーとの間のどこで境界を引けばよいのだろう? ネアンデルタール人は人間なのか? 龍樹は人間のイデアもまた空であると主張するのでプラトンのイデア論とは真っ向から対立する。

ここで留意しなくてはいけないことは、全ては空であると言っても、「空しい」と言っているわけではない。絶対視しないというだけのことである。目の前に山がある、あるいは恋人を好きだ、それらのことのリアリティを否定しているわけではない。ただ永遠に山が存在するとか恋人への愛情が永遠に続くということはない、というだけのことである。固定的な山、固定的な恋愛、そういうものはどこにもない。ものごとを固定的にとらえると執着や差別が生まれる。そのような妄執にとらわれてはならないというのが釈尊の教えである。

 (その2)に続く

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神仏を畏れぬ発言

2015-12-02 16:49:59 | 哲学

昨日は、「生きる資格」というものについて述べたのだが、これは個人的な生きづらさというようなものが、哲学的擬似問題となっているのだろうと私は考えてとりあげた。だから、「生きる資格」などという概念は空疎であり、その言葉に意味はないと訴えたかったのである。

ところが今、世間では「生きる資格」について公然と論議されていることを知って驚いている。茨城県の教育委員である長谷川智恵子氏が県内の特別支援学校を視察して、「妊娠初期にもっと(障害の有無が)わかるようにできないんでしょうか。4カ月以降になるとおろせないですから」と言ったというのだ。そして、「(特別支援学校では)ものすごい人数の方が従事している。県としてもあれは大変な予算だろうと思った」のだとも。

つまり、障害者の「生きる資格」というものに疑問を投げかけているわけだ。特別支援学校に金がかかるからというけちくさい理由でだ。

教育委員という立場から大所高所に立った提言をしたつもりなのだろうが、アマチュア哲学者としては、長谷川氏の「『生きる資格』について語る資格」を問題にしたいと思う。てっとり早く言うと「あんた何様のつもり」ということだ。他人の命を高みから見下ろしてどうのこうの言う、人間はそのような視点に立ちえない、あえて言うならそれは神の視点である。

この手の発言は出るたびに袋叩きにされてしばらくは鳴りを潜めるが、時を経ると必ず性懲りもなく繰り返される。障害者に対する差別が人々の心の中に抜きがたくあるからだろう。その底には「生物の遺伝構造を改良する事で人類の進歩を促そうとする科学的社会改良」を志向する優生学的思想が横たわっている。

優生学を初めて唱えたのは、チャールス・ダーウィンの従弟のフランシス・ゴルトンである。それはもちろん進化論の影響を受けてのことだろう。障害者を排除して、美しい民族美しい国を実現しようとする発想は西洋流即物主義の悪しき一面に違いない。

大乗仏教の視点に立てば、本来的な健常者や障害者などというものは存在しない。比べてみて、比較的健常であるか不自由かということでしかない。すべては空であり、縁起の中でたまたま健常者であったり障害者であったりするだけのことなのである。健常者と障害者の間に境界などない。誰もが健常者であり障害者でもあるのだ。障害者を切り捨てることは自分を切り捨てることでもある。

人間を人為的に淘汰すれば特別支援学校もなくなりさっぱりする、というような幻想はいい加減ふり払うべきである。無常の世界では、様々な困難がつきまとうことは避けられない。面倒くさがっておおざっぱな思考に流れてはいけないのである。あらゆるものに慈しみを持つというのが釈尊の教えである。

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