禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

笠置シヅ子に見る一流の矜持

2023-11-12 09:42:37 | 雑感
 私は昭和24年生まれの団塊の世代である。で、昨今の朝ドラで話題になっている笠置シヅ子さんのことは小学生の時分から知っていた。と言っても、歌手としてではなくあくまで俳優としてである。私の知っている笠置シヅ子は、お笑いドラマの三枚目的なわき役として起用されることが多かったように記憶している。そんなわけで、漠然と彼女のことを松竹新喜劇出身の人かなぐらいに思っていた。彼女が歌手であったこと、それも一世を風靡した大スターであった、ということを私が知ったのはずっとのちのことである。彼女が歌手を引退したのは昭和31年のこと、私が小学1年生の時である。まだ日本ではそれほどテレビも一般には普及していなかったし、私が彼女が歌手の現役である時代を知らなかったのも当然のことであった。が、私は俳優としての彼女を憶えているほどにはちょくちょくとテレビに出ていた。それほどの大スターならその辺の事情についてもう少し知っていても良さそうなものだが全然知らなかった。歌手の引退以後は公私にわたって鼻歌一つ歌うことはなかったと言われている。おそらく一流歌手としての彼女の誇りがそうさせたのであろう。

 歌手引退後の彼女は新たに俳優業を生業として生きていくことになるが、そのけじめとして各テレビ局や映画会社、興行会社を自ら訪れて次のように自ら申し出ている。(以下、太字部分はWikipediaより引用)
 「私はこれから一人で娘を育てていかなければならないのです。これまでの『スター・笠置シヅ子』のギャラでは皆さんに使ってもらえないから、どうぞ、ギャラを下げて下さい」
自らギャラの降格を申し出る芸能人がいるだろうか? これからは歌手「笠置シズ子」ではなく俳優「笠置シヅ子」として生きていくというけじめなのだろう。潔い処世であると思う。

 彼女と同時代に活躍した歌手として淡谷のり子も有名である。東洋音楽学校の声楽科を首席で卒業し「10年に一度のソプラノ」 と称されたほどの逸材である。朝ドラでは茨田りつ子 役となって、スズ子のステージを見て「とんでもなく下品ね」とだけつぶやき去っていく役どころである。淡谷はクラシック出身で笠置はジャズと芸風が全く正反対であるにもかかわらず、当時の軍国主義的な国家体制には双方ともに全く馴染まないという点で共通している所が興味深い。しかし、私はそんな淡谷の反体制的な芸風を大いに評価はするが、その一方で歌手淡谷のり子は全然評価する気にはなれないのである。

 というのは、私の彼女に対する印象は「歌のへたくそなただの威張ったおばさん」でしかないからである。若い頃はどれほどうまかったのかも知れないが、私がテレビを通じて彼女の歌を聞いた限りでは、全然声が出ていなかった。声量のない歌手はもはや歌手とは言えない。声帯も筋肉である以上、歳をとれば衰える。人によって個人差はあるが、50歳を越えれば筋肉の衰えは加速する。遅くとも60歳になるまでにはプロ歌手の看板は下ろすべきだと思う。歳をとっても昔を知っているファンにとっては、昔の歌声を重ねて聴くので懐メロ歌手としては通用するが、若い世代には通用しない。現在では五木ひろしや八代亜紀のように60どころか70歳を超えても現役を続けている歌手がいるが、年配ファンにとっては「年をとってもそれなりに味がある。さすがだ。」という風に聴けるかも知れないが、若い世代から見れば意味不明なしらける話でしかない。昨今の歌謡番組が盛り上がらないのはそういうところに原因があると私は見ている。そういう点から見ても笠置シヅ子の出処進退は見事なものだと思う。正真正銘の一流の証である。 
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分けると分かる

2023-11-07 06:27:04 | 哲学
 先月は、「論理とはなにか? 」に始まる八回のシリーズで、ロゴス中心主義とそのアンチテーゼとしての仏教的中道思想について解説したつもりだったが、中心テーマになる後半になると閲覧回数が激減してしまった。自分ではかなり力を注いだつもりだったが、もしかしたら独りよがりで稚拙な解説をしてしまったかもしれない。少し未練が残るので、もう一度簡単にまとめてみたい。

 「分かるとは分けることだ」という言葉がある。もともと「分かる」の語源は「分ける」からきているらしい。まさにこれは核心をつく言葉だと思う。ロゴス中心主義においては「分かる」と「分ける」はほぼ同義と言ってもよい。「ソクラテスは人間である」と言った時、ソクラテスを人間と人間以外に分別しているのである。もちろんいろんな分け方がある。それは男か女か、ギリシャ人であるかどうか、哲学者であるかないか、とより細かく分けていけばいくほどそれが何ものであるかを分かった、つまり理解したことになる。

 もちろんこのように分けて理解するということは必要なことである。それがなければ科学も進歩しないし、日常生活の段取りもうまくいかない。龍樹もロゴス中心主義の全てを否定しているわけではない。ただ一点、絶対的な分類の基準は存在しないということだけは忘れてはならないというのである。前にも述べたが、人間と人間以外を区別する客観的な境界というものは存在しない。繰り返して言うが、人間そのものという本質は存在しない。なにものもそれだけで独立して存在しているものはない、あくまで人間以外のものとの関係性においてはじめて人間という概念が成立するのである。絶対的な基準がない以上、そこにはどうしても恣意というものが入らざるを得ない。それ故、分けるということはあくまで便宜上の方便であって、絶対的なものではないことを忘れてはならないのである。
 
 ところが人は往々にして、便宜上の分類を絶対的なものと思い込むことがある。ヒットラーは「アーリア人たるドイツ人こそ最優秀な民族で、ユダヤ人は劣等民族である。」と考えていたらしいが、彼自身がアーリア人がなんであるかを分かっていたかどうか極めて疑わしい。(「アーリア人」というのは元々は学術用語で、インド‐ヨーロッパ語族の諸言語を用いる人種の総称であったはず。) 彼の考えている「アーリア人」の本質などというものはもともとどこにも存在しないのだ。ところがヒトラーにとっては、アーリア人とユダヤ人の区別は絶対的なものである。その行き着いた先がホロコーストである。区別がイデオロギーを生みだし、それが深刻な信念対立となりうることを忘れてはならない。

 現在パレスチナでは、イスラエル軍がガザに侵攻している。イスラエルはハマスとの戦争であるとしているが、現時点ではイスラエル軍が圧倒的な軍事力でもって一方的な殺戮行為を行っているとしか見えない。しかも殺されていく人の約半数が子どもだという。一人のテロリストを殺すためにその何倍もの非戦闘員を平然と殺戮する。そんなことが許されて良いわけがない。イスラエルもヒトラーがかつて行った反ユダヤ主義と同じことをやっているのである。イスラエルではユダヤ人とアラブ人の区別は絶対的である。イスラエルではアラブ人は二級市民に過ぎない。ユダヤ人には子供を沢山産むことを奨励している一方で、アラブ人には産児制限を課す。そういう不平等を公的に課しているのである。そういうあからさまな不条理を公的法制度に持ち込まなければ維持して行けないような国家に果たして存在価値があるのかどうか疑問である。
 
 全ては人と人を区別することから始まっている。言葉と論理による区別がイデオロギーを生み出し、それが人々の分断を正当化するのである。言葉によるイデオロギーを信用しすぎてはならないというのが仏教の中道思想である。
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自分のだめさ加減を思い知らされる

2023-11-05 05:17:38 | 闘病日記
 9月28日の「難病に罹ってしまいました」という記事で、腎臓病はわたしに向いてるというようないかにも達観しているような趣旨のことを述べた。なにしろ普段から、空だ無だの一見偉そうなことを述べている私のことであるから、「さすがに御坊哲は悟っているんだろう」くらいに思った人もいるかもしれない。としたらそれは飛んだ見当違いなので、ここで読者の皆さんの誤解は解いておきたい。私はどちらかと言えばダメダメの落ちこぼれ老人で、ヒマにあかせて言いたいことをブログでぶちまけているだけ、という感じに受け止めてもらえば私も気が楽である。

 腎臓病が私に向いているというのはある程度本当のことである。常に体はだるいが、なんの気負いもなくだらだらと過ごしていれば別に苦しくとも何ともない。平地をただゆっくりと自分のペースで歩くにはなんの支障もない、ただ少しでも急がねばならないということになると急に動悸が激しくなり息切れもする。何かについてヤル気を出さねばならない状況になると、ちょっとしんどいだけのはずの病状が頑丈なワイヤーロープのように一変して全身を羽交い絞めにしてくるのである。生きているうちに何かを成し遂げなくてはならないというような使命感を持って生きているような人にとっては、腎臓病に罹るということはもしかしたら死ぬより辛いことかもしれない。

 そんなわけで、私のテキトーな性格はある程度は腎臓病向きとは言えるかもしれない。が、しかし病気は病気である、健康状態よりはいろいろ不都合があって当たり前である。肉体的しんどさは私にとって大したことはないのだが、この病気のお陰で私の精神面の弱さがもろに露呈されてしまう事態が起こってしまったのだ。というのは、この病気は体を動かすことだけがしんどいのではなく、頭を働かせることもしんどいのである。だから病気の調子が悪い時は人と会話するのもおっくうになる。会話と言っても入院中は看護師との事務的なやり取りやその場の他愛もない軽口程度なので何ということはないのだが、家に帰ってくると妻と二人きりである。妻は矢継ぎ早に私に問いただしに来る。私の今の状態や考えを知りたがっている訳で、あまりなおざりな生返事で済ますわけにはいかない。しかし、それがしんどいのだ。そのうちだんだん腹が立ってきた。いきなり私の口から怒声が飛び出してきたのである。「うるさいっ!もうええっ。黙ってやんかい。」という自分でもびっくりするくらいの大きな声で叫んでいたのである。(本当にこの時までは自分がこれほど気が短いとは知らなかったのである。)後悔先に立たず、その場ですぐ「ごめん」と言うべきであったが、彼女の顔を見れば涙目ながら相当怒っている。それも当然なのであるが、その顔を見ると素直に謝れなくなってしまった。近しい者への対抗意識というか甘えもあって素直になれなかった。

 74歳にもなって未熟なままの情けない老人のお粗末なお話しでした。お笑いください。
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性同一障害とはなにか? そんなものが本当にあるのだろうか?

2023-11-01 16:19:56 | 哲学
 前回記事の手ごたえがいまいちで、あまり真意が伝わっていないような気がするので、もう少ししつこく説明させていただきたい。言葉と論理はわたしたちの日常生活には必要不可欠ではあるが、基本的に2値選択の組み合わせによって構成されているし、そこから出てくる結果も、真か偽か、有るか無いか、やるかやらないか、敵か味方かと言った2項対立でしかない。夕食のおかずはどうするかとか、子ども達の三角ベースのチーム分けをどうするかと言ったようなことなら、さほど問題はない。しかし、あまりにも微妙な要素が複雑に絡み合った、例えば倫理的要素の絡む問題などを単純な言葉と論理に当て嵌めると微妙なニュアンスがすべて捨象されてしまって、とんでもない結論に至ってしまうことが多いのである。中道とか中庸と言うのは、そのような二項対立に陥ることなく、ものごとの真相を見極めようとする態度のことである。

 イスラエルとパレスチナ人の対立にしても、本来彼らが対立するいわれはないのである。もともとパレスチナでは、イスラム教徒とユダヤ教徒それにキリスト教徒もともに仲良く平和の裡に暮らしていた。銃を手に激しく憎悪をたぎらせてにらみ合っている彼らは、別の出会い方をすれば親友になれたかもしれない人々なのだ。人を宗教、民族、国家という言葉によるカテゴリーで分断することが、本来は親友であったかもしれない人々を敵と味方に分断してしまうのである。二項対立のわなに陥ってしまうということにより、人間同士の日常的なデリケートな感情の交流などはすべて捨象されてしまう。このことがロゴス中心主義の最大の問題点である。

 ここで少し目先を変えてみよう。近頃よく耳にする言葉で「LGBTQ」というのがある。私たちが学生だった頃は、レズビアン(Lesbian)、ゲイ(Gay)だけだった。それがバイセクシュアル(Bisexual)、トランスジェンダー(Transgender)が加わりLGBTとなり、それだけでは終わらずに、いつのまにか"Q"まで付いている。クエスチョニング(Questioning) の略だそうである。性的嗜好ををいくらカテゴライズしようとしてもしきれない、性的志向などというものは厳密なことを言えば人間の数だけあるはずだ。なぜなら人類は進化の過程で偶然できたものに過ぎないからだ。もし人間のイデアという神様が描いた設計図に従ってできたものであれば、規格から外れたものは「不良品」とか「出来損ない」と呼ばれ得るだろう。しかし、人間は決して規格に従って造られたのではない。そのような規格を決定する超越的な存在者たる神もいない。無常の世界ではすべては過渡的で偶然的で常に変化している。人間の遺伝子も常に無計画に変化し続けているのである。「性同一性障害」というが、一体性的志向のどこがどう障害だというのだろう。

 以前も取り上げたことがあるが、朝日新聞の「子どもたちの人生を救うために はるな愛さんが考える多様性と五輪 」という記事の中で、はるな愛さんの言葉をもう一度ここで紹介してみたい。

≪ 私は「トランスジェンダー」と呼ばれますが、その言葉に当てはめられるのはちょっと違うかなという感覚もあります。「LGBT」と呼ばれる人の中でもいろいろなタイプの人がいて、みんな違って当たり前です。4文字ではとても表しきれません。
「LGBT」が表す性的少数者のことを、全部知ることは大変で、私もすべてをわかってはいないと思います。わからなくていいとも思っています。
わからないことをなくすよりも、自分の隣にいる人が、今どうして欲しいと思っているのかを聞ける方がいい。知らなかったり、間違えていたりしたら、それを素直に受け入れる気持ちが大事。一番知らなくてはいけないことは、人のことを決めつけることが、その人を生きづらくさせることだと思います。 ≫
 
 はるなさんは子どもの頃からおかまと呼ばれて差別を受け続けてきた。それはとてもつらいことだったに違いない。長い間その悩み苦しみと格闘し続けてきた。その結果、「そんなもの分からなくて良い」という気づきを得た。そんなことを分かるより、虚心坦懐に思いやりを持って人に接することが大事なのだということに気がついた。一見何でもないようなことだが、なかなか言えることではないと思う。真剣に生きている人の言葉だとも思い、とても強い感銘を受けた。

 龍樹に言わせれば、性同一障害も縁起によって生じるのだということになる。縁起と言うのは相依性のこと、なにごとも単独で成り立っているのではなく、他との相対的な関係性によって生じてくるのである。もし、われわれの社会には法律による結婚制度などなくて、他人の自由と人権を最大限に許容するような寛容な精神が行き渡っている。もしわれわれの社会がそのようなものであったなら、現在「性同一障害」などと呼ばれているものは存在しなかっただろう。『障害』も「障害者」も社会が作り出しているのである。
 

動物であれ植物であれ、生殖はどうしても過剰になりがちである。
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