禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

考えるということはどういうことか (抽象、論理、言語)

2022-12-31 06:40:31 | 哲学
 あるテレビ番組を見ている時、数学とは何かということについて「数学とは違うものを同じと見なす学問である。」という説明がされていた。言われてみてなるほどと思った。3個の大福と3個のミカンは全然別のものだが同じと見なす。3個という性質以外はすべて無視するのである。そうすると「3」という数としての抽象概念が成立する。同様にして「1」や「2」をつくっていくと自然数というものが出来上がる。現代数学の重要な一分野に位相幾何学(トポロジー)というのがあるが、これは粘土をちぎったりくっつけたりしないで変形できる形をすべて同じと見なす学問である。だから位相幾何学ではドーナツとティーカップは同じ、鉄アレイと湯飲み茶わんは同じものと見なされる。
 
 数学においてどのような関係を「同じ」とみるかは極めて自由である。以下の三つの条件さえ備えておればそれらは同じである(同値関係にある)と見なしても良い。
 ・反射律: a = a.
 ・対称律: a = b ならば b = a.
 ・推移律: a = b かつ b = c ならば a = c.
この同値関係というものを適用することによって私たちはものごとを抽象・分類しているのである。ものごとが「分かる」というのは、同じかそれとも違うかという区別がつくということと密接につながっている。

 以上のことを整理してみると、数学というのはものごとを抽象・一般化した概念や記号に対して論理を働かせる学問であると言うことが出来ると思う。ここで言う「論理」とは同じか同じでないかあるいは矛盾するかしないかを判別したり前提から結論を推論する操作のことである。よくよく考えてみれば、同じことは数学に限らず他の学問についても言えることである。物理学で言えば、万有引力は大谷のホームランボールの軌跡を説明することもできるし、地球や月の運行を説明することもできる。抽出した条件を整えさえすれば同じ法則を違う場面にも適用できる汎用性がある、それが科学である。
 
 「はじめにことばありき」というのは有名な聖書の言葉だが、その意味は「すべての根源は(神の)ことば」であるというような意味らしい。その「ことば」の部分は古典ギリシア語の λόγος (ロゴス)の翻訳らしい。興味深いのはそのロゴスが言葉と論理という意味を併せもっていることである。英語における論理を意味する言葉である「ロジック」(logic)もロゴスから派生してきたものである。 論理と言葉には密接な関係がある。論理はその対象としての固定された概念かまたは記号が必要だからである。つまり論理の運用である思考は言語によって行われる、我々は言葉で思考するのである。

 思考が言葉によってなされる以上、そこには必ず抽象化ということが伴っている。次回記事は来年になるが、その事についてもう少し論じてみたい。では、よいお年をお迎えください。

サンタモニカ・ピア (記事内容とは関係ありません。)
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自然の妙

2022-12-27 09:50:50 | 雑感
 下の写真がなんであるかお分かりだろうか? おそらくこれを見ただけでそれが何だか分かる人はいないと思う。


 
 妻には、「自転車置き場の間のくぼ地にたまった水たまりの写真」というふうに、言葉で説明したのだが全然理解できないようだった。水色の部分は空が映っており、その他の部分は水の中の草と落ち葉と土である。なんでもない水たまりだが、とても美しい。思わず心惹かれて写真に撮った。
 
 家に戻って私は考えた。「なぜこの変哲もない光景が私の心をこれほどとらえるのだろうか?」 よくよく考えてみれば、この写真の中には私たちに必要なものの全てが映っていると気がついた。透き通ったきれいな水、鮮やかな緑の草、黒い土、それと水色の空(つまり光)、それらはわたしたちの命を支えるすべてのものの象徴である。美しいのも道理であると合点した。
 
下の写真は別の日に同じ場所を少し遠くから撮影したものである。 

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来年の目標 「目指せ3千万歩」

2022-12-26 21:01:37 | 日記
 2015年から今まで約7年半の間「よこはまウォーキングポイント」というのに参加していて、12月25日現在で 27,418,192歩 に達しています。歩くと頭の血流が良くなるような気がして、いつも歩きながら考えています。あと260万歩ほどで3千万歩の大台に乗るので、これを来年度中に達成させようと思っています。最近は体力の衰えから少しペースが落ちていますが、割と楽に達成できそうです。目標と言うより単なる区切りという感じかな。 
 
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ジョニィへの伝言

2022-12-23 22:28:26 | 日記
 作詞家の阿久悠さんが、自分の作った歌出一番気に入っているのはどれかを尋ねられて、それは「ジョニィへの伝言」であると答えたらしい。それを聞いて私はとても腑に落ちた。私も彼の作品の中でそれが一番好きだったからである。 私が高橋真梨子さんの大ファンであるということもあるのかも知れないが、歌謡曲の歌詞にしてはわりとまじめに作っているという気がする。

 ♪ ジョニィが来たなら伝えてよ 二時間待ってたと
 ♪ わりと元気よく出て行ったよと お酒のついでに話してよ
 ♪ 友だちならそこのところ うまく伝えて

 ♪ ジョニィが来たなら伝えてよ わたしは大丈夫
 ♪ もとの踊り子でまた稼げるわ 根っから陽気にできてるの
 ♪ 友だちならそこのところ うまく伝えて
 
 明らかにこの歌詞の主人公はまだジョニィに未練があるのだろう。それで、二時間「も」待っていたと伝えて欲しいと言っている。二時間も待ったのだから、普通に考えれば相手の人に大きな思い入れがあるはずなのに、「わりと元気よく出て行った」と相反するようなことを、それもお酒のついでに話してとかなり細かい注文を付けている。要するに、相手の男に思いを残していることを伝えて欲しいのだが、決してみじめったらしくなく軽く伝えてと言っているのだ。

 阿久さん自身この歌詞には思い入れがあるらしく、この歌詞を英訳して世界に発信したいと考えてさる筋に相談した。しかし、結局その話は流れてしまったらしい。というのは、「友だちならそこのところうまく伝えて」が翻訳できないと言われたというのだ。なるほど言われてみればこれは日本独特のいわゆる「忖度」というやつだ。友達やったらそんなん言わんでも分かるやろというのはアメリカ人には通用しない。「そこのところうまく」ではなく、なにをどのように伝えて欲しいのか具体的に説明せんとあかんらしい。

 しかし、ここでふと思ったのはこの歌の舞台はどこなのだろうということだ、たぶん姉妹編「五番街のマリーへ」とともに外国の話だと思っていたのだが、「ジョニィへの伝言」は日本以外ではありえないとなると実は本牧あたりの話なのかもしれない。天国の阿久さんに訊ねてみたいものだ。

横浜 本牧
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不殺生戒について考えてみた

2022-12-20 17:13:29 | 仏教
 一般に宗教は神秘的なものと考えられている。人間の生死に関わることや世界の成り立ちに関わることを扱うからだろう。仏教においても、葬式を執り行ったり加持祈祷をしたりするので、なにか神秘的なことに通じているのではないかという印象を持っている人も多いのではないかと思う。しかし、私の知る限りでは(というより、「私の考えている仏教では」と言うべきかもしれないが)、釈尊が説かれたことの中には神秘的なことはなに一つない。釈尊は、生まれる前と死んだあとそれからこの世界の成り立ちについてはなにも言及しておられない。そのような形而上のことがらについてはすべて無記なのである。

 思うに、釈尊の唱えられた教えというものはシャーマニズムの支配する当時においては余りにもラジカル過ぎたのかも知れない。人々はどうしても宗教に神秘的な力を求めているので、布教する側としてはそういう期待に方便として迎合したのではないか、と私は想像している。例えば六道輪廻ということについて考えてみよう。六道とは衆生がその業の結果として輪廻転生する6種の世界のこととされている。そして、自分が今このような境遇であるのは前世の行いの結果であると説くのであるが、これは釈尊が前世と死後のことは無記とされたこととは明らかに背反している。 辞書によると、「六道輪廻」は仏教用語ということになってはいるが、もともとは古代インド人が持っていた世界観で、釈尊以後の人が仏教の教説として取り入れたと考えられる。

 「自分の今ある境遇は前世の報いである」という説明は、諸悪莫作衆善奉行を推奨する宗教にとって分かりやすくて都合のいい教えかもしれない。しかし、報いがあるから悪いことはしないで良いことをするというのは仏教の原理ではありえない。それだと単なる損得勘定に従って行動しているのと何にも変わらない。損得勘定抜きで善いことをしなさいと言うのが仏教である。仏教における倫理の源泉というものは自分自身にしかない、決して他からは与えられないのである。

 「一切皆空」というのはものごとに恣意的な意味を与えないということである。計らいを捨て自然(じねん)に従う、そこに慈悲というものがあるというのが仏教の原理である。慈悲というのは現代語でいうところの愛である。そういう意味で仏教は究極の性善説と言える。非常にシンプルな教えであるが、シンプル過ぎて難しいという面もある。というのは、すべてが空ならそこには一切差別というものがなくなるはずである。したがって、人種や宗教によって人を差別するというようなことがあってはならないということになる。ここまでは誰でも理解できる。しかし、ゴキブリはどうだろうか? 仏教の原理をどこまでも押し通すなら、当然のことゴキブリにも慈悲を施さねばならない。不殺生戒というのはどんな宗教にもあるが、一般的には「人間を殺してはならない」という内容であることがほとんどである。ところが仏教では「一切衆生悉有仏性」である。つまりその対象はすべての生き物に及ぶのである。現に東南アジアの上座部仏教の僧侶は虫一匹殺してはいけないことになっている。それで裸足で生活している、小さな虫を踏み殺さない為である。
 
 シンプルな原理に基づく仏教はとてもラディカルなものを内包している。修行を徹底すれば、ゴキブリや蚊にも慈悲が湧いてくるというのは理解できないことではないが、現実に生きていくためには衛生的かつ快適な生活が必要だし、生き物を殺して食べるということも避けがたい。現実には原理原則でひとくくりにはできない面がどうしてもある。仏教には方便が多いというのもその辺に理由があると考えられる。現代の日本では、浄土系の僧侶などはほとんどが肉や魚を食べている。「かけがえのない命を頂いているのだから、粗末にしないで有難く頂戴する。」と言っているが、食べられる牛や豚の側からすれば、「粗末にしようがしまいがとにかく殺さないでくれ」と言うかもしれない。

 私は子どもの頃一時的に菜食主義者になろうとしたことがある。牛の屠畜についての話を聞いた時、その作業の冷酷さに身震いした。殺される牛の側に感情移入した時の恐怖から肉を食べることが出来なくなった。その時は、今後一切牛や豚の肉を食べるのは止そうと思ったのである。しかしそんな期間は長くは続かなかった。私は食べ物の中で牛肉が一番の好物なのである。罪悪感を感じながらも牛肉を食べることを止めることは出来なかった。それ以来私は自分が宗教的な人間にも倫理的な人間にもなれないということを思い知った。
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