禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

空即是色は間違い?

2015-05-23 13:54:18 | 哲学

 先日、「仏弟子の世間話」という本を読んだ。臨済宗僧侶で芥川賞作家でもある玄侑宗久氏と小乗仏教の大家であるスナマサーラ師の対談を本に起こしたものである。その中でスナマサーラ師が、般若心経の「空即是色」は間違いであると主張していることを知り、ははぁと思った。近頃インターネット上で「空即是色」が話題となっている。これがその源かと合点がいったのである。

非信仰者としての気楽な立場から言うと、スナマサーラ師の言っていることには説得力を感じた。おそらく指摘されていることは正しいような気がする。仏典はいろんな人の手を経ている。それぞれの書き手がみな素晴らしい見解の持ち主とはいかないだろうと思う。それらを哲学論文として読むならば、おそらく矛盾だらけということになるに違いない。

しかし、聖典としての仏典は、いろんな解釈が積み重ねられてきた歴史というものがある。般若心経にしてももしかしたら、原著者の意図を超えたものとして解釈されている可能性がある。各経典は実際に多様な解釈がなされてきたわけで、それが各宗各派に分かれるもとともなっている。スナマサーラ師の属する小乗仏教の立場から見れば、般若心経が間違っていると見るのは当然なのだろう。もっともスナマサーラ師は信仰としての大乗仏教を批判しているわけではない。あくまで学術的な立場から般若心経を解説している学者に対しての批判であることに留意すべきである。

禅宗などでは経典の意味を文献学的に追究しようという姿勢はもともとない。むしろ、自分の体得した境地に沿ってお経を解釈しようとする傾向が強い。そういう意味では聖典に間違いなどあるはずがないのである。

「色即是空」というのは、「あらゆるものごとは実体をもたない」という意味で、「だから、なにごとも執着してはならない」という。これは大乗であろうと小乗であろうと仏教であるならば、みな一致している。

「空即是色」については、もしかしたら本当に原著者は語呂が良いから並べただけかもしれない。(そして、スナマサーラ師はそのように指摘している。) しかし、ここで禅宗などは一歩踏み込んだ解釈をするわけである。

「色即是空」と言いっぱなしでは、「すべてはまぼろし」と解釈する向きも出てくるだろう。釈尊は「ものごとに執着するな」といったが、「無視するな」と言ったわけではない。炎の中に手をかざして、「熱くない」と言ったらそれは悟りであるどころか離人症であろう。あくまで我々は現実の中に生きる存在者なのである。

現実は現実として認識する。「柳は緑、花は紅」というのはあるがままの現実を受け入れるという意味である。禅宗ではこれを「空即是色」に結び付けているのである。(と、私は解釈している。) 色即是空と空即是色が同時に成立している、そこに中庸があるのである。

最後に一つだけ、スナマサーラ師に反論しておきたい。

師は、「人は皆死ぬものである」が「死ぬものはすべて人である」とは言えない。「空即是色」というのは「死ぬものはすべて人である」と言うのと同じだというのである。つまり、「色=空」を否定している。色は空であっても、空は色ではない。色<空ということであろう。
しかし、「色」というのはわれわれが認識しうるものすべてを意味するのである。であるから、空であって色でないものがあったとしても、我々には認識できない。認識しえないものについて我々は言及することはできない。「色=空」としても何の不都合も生じないというのが私の考えである。


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( 鎌倉 覚園寺 )

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寒熱の地獄に通う茶柄杓も心なければ苦しみもなし

2015-05-13 17:52:04 | 哲学

本日のタイトルに揚げた歌は千利休が詠んだものとされているが、俗に「無心になれば暑さ寒さも感じない。」というふうに解釈されているようだ。よく似たものに、甲斐国恵林寺の快川和尚の辞世の句がある。

  安禅は必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火自ら涼し

修行も極まれば、本当にそのような境地に至るのかもしれない。が、しかし、仏道修行の目標というものは決してそういうものではないような気がする。修行にはある程度の厳しさはつきもので、「暑いの寒いの」などと言っている場合ではないというのは分かる。しかし、熱湯を浴びせられても熱くないと言ったり、火であぶられても涼しい顔をしているというのはどうか。それは悟りの境地などというものではなく、私に言わせれば、むしろ神経伝達上の障害とみるべきではないかと思うのである。

インターネット上の解説を散見すると、利休の詠んだ「茶柄杓」を人間の肉体とみなしているかのような解釈が目立つが、それには異論を唱えたいと思う。そのような解説をしている当人に、「ライターの火で手をあぶられたら、あなた熱くありませんか?」と問うてみたくなる。

禅的視点に立つならば、この「茶柄杓」が人間の肉体であるはずがないのである。肉体には感覚器官が備わっており、熱いものは熱い冷たいものは冷たいと感じるのが当然だからである。
もしこの歌を公案に見立てるとすれば、茶柄杓は本来の真面目に決まっている。公案にはそれ以外のテーマはないのである。本来の真面目とは「私」の究極の主体性、いかなる属性も帯びていない純粋の「私」のことである。そのことを指して「無」というのである。

いかなる属性も帯びていないということは、もちろん熱さや寒さとは無縁のものである。今さら、「心なければ」などとことわるのも不自然な感じがする。本来の真面目は、その人が悟っているか否かなどということは関係なく、誰もについてもある。見性とは自分の中にそれを見出すことを言うのである。

「無」とは認識の対象となるものがそこには無いという意味に他ならない。主体は認識の対象ではないのである。カント流にいうならば「それは無であることによってあらゆる経験が可能」なのである。

つい最近私は2週間ほど入院していたのだが、私の病室は私以外は自力でトイレにも行けないような高齢の患者ばかりの大部屋だった。認知障害の患者も多く、非常に手のかかる病人ばかりだったが、そこの若い看護師さんたちの働きは実に献身的で見事なものだった。痴呆がかった老人は誠に扱いにくいが、丁寧に感情的にならず実に根気よく接していた。

毎日何度となく汚物処理もこなしていた。そのたびにかなりの臭気が部屋中に漂い、傍観者たる私たちはそれに悩まされるのであるが、それを処理する彼女たちは平然とプロフェッショナルに仕事をこなす。たとえ汚物にまみれたとしても、汚れることのない主体性がそこにはあるのである。


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