禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

禅的一元論 ( 観念論と実在論のつづきのつづき )

2017-01-28 09:34:43 | 哲学

前回は、すべてが観念であるとすると、その観念の位置づけが出来なくなる、というようなことを述べました。

へたくそで恐縮ですが、上図のような概念図となります。どうしてこのようになるかと言うと、二つの原因があります。ひとつは、認識というものについて、「主観が客体を認識している」という構図の上で考えているということ。二つ目の理由は、我々が世界を把握しようとするときの視点が実存視点と客観視点の二つがあるということです。実存視点とは生身の自分自身が世界を「見つめる」視点で、客観視点とは自分自身をも含めた世界を俯瞰する架空の視点のことです。学としての哲学は客観的でなくてはならないことから、この世界を客観視点から俯瞰しようとします。これらのことは、観念論と実在論の双方に共通しているのです。

ここで、観念論と実在論のどちらでもない禅的一元論ともいうべきものの見方をご紹介しましょう。まず、自分が見ている景色というものを思い出してみましょう。実際に私たちが見ている風景は下図のようなものです。

前出の図と違うのは、木を見ている私がこの図の中にはないということです。素朴に反省してみれば、客体を認識している主観というものがどこにもないということがよくわかります。あなたは、「そんなことはない。木を見ている「私」はちゃんとここにある。」と言うでしょうが、その「私」は実は他者としての「私」なのです。私たちは他者とコミュニケーションをとるうちに、他者の中に「私」と同型のものを見出します。そして、その他者が木を見ている光景を、自分が木を見ている場合にも適用してしまうのです。しかし、自分が木を見るときは、実は木しかそこにないのです。

道元禅師の正法眼蔵の中に次の有名な一節があります。

   仏道をならふといふは、自己をならふなり。
   自己をならふといふは、自己を忘るるなり。
   自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。

禅の目的は自己究明にありますが、それは自分が考えているような自己というものが、どこにもないということを知るということです。万法とは感官に触れるものすべて、つまり森羅万象のことです。最後の句は「森羅万象が私に悟らせてくれる」というような解釈が一般的ですが、私はもっと直接的な解釈がよいと思っています。「森羅万象を認識する自分は存在しない、森羅万象がそのまま自分でありそのまま悟りである。」と言った方がしっくりします。禅僧が、「山を見れば自分が山になる。木を見れば自分が木になる。」と言ったりするのも、このような文脈から見れば理解できます。

西田幾多郎の「善の研究」の第2編第2章のタイトルは「意識現象が唯一の実在である」となっています。

≪我々は意識現象と物体現象の二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。即ち意識現象あるのみである。物体現象というのはその中で各人に共通で普遍的関係を有する者を抽象したものに過ぎない。≫ (善の研究P.72)

「意識現象」というと、なんとなくそれはリアルではない一種の幻影のようなニュアンスがあります。少なくともそれは「実体」ではないというのが大方の受け止め方でしょうが、西田はそれこそが実在であるというのです。物体現象は「各人に共通で普遍的関係を有する者を抽象」、つまり論理的に各人にとって共通で整合性のあるモデルとして、構成した仮説であると言っているのです。 

意識現象は物体現象に対する言葉で、それぞれ「観念」と「物そのもの」に相当する。したがって、このままだと西田は観念論者とされてしまうところですが、西田は次のように断っています。

 ≪余がここに意識現象というのは或は誤解を生ずる恐がある。意識現象と言えば、物体と別れて精神のみ存するということに考えられるかもしれない。余の真意ではでは真実在とは意識現象とも物体現象とも名づけられない者である。またバークレーの有即知というのも余の真意に適しない。直接の実在は受動的でない。独立自全の活動である。有即活動とでもいった方がよい。≫ (P.73)

ここで西田は意識現象という言葉を「純粋経験」と言い直す。そしてそれは「受動的でない。独立自全の活動である。」といいます、つまり主観によって認識されるものではないと言っているのです。私の目の前にあるリンゴがあるとします。そのリンゴの『見え』が純粋経験ですが、それは私に認識されて見えているのではなく、まず『見え』そのものがある。そしてそのことから「私がリンゴを認識している」と推論されているのだということです。

つまり、リンゴの『見え』という純粋経験があって、「私」という認識主体があると想定されている、と言うのが本当である。そこのところが理解できれば、「 個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである。」という言葉も了解できます。

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観念論と実在論のつづき

2017-01-26 10:05:57 | 哲学

前回は、科学的実在論が必然的に観念論を導き出す過程について述べた。実在論は必然的に観念論を導き出すが、観念論から実在論には戻れない。科学的実在論によれば、我々に直接接するのがセンスデータだけだからである。我々の側から見れば、物そのものの前に感覚の壁が立ちはだかり、物そのものは仮説的推論によって存在すると推定するしかない。

矛盾のない仮説的推論というのは無限にある。例えば、「私は実は培養液に浸された脳であって、今見ている光景は電気的刺激を人為的に外から与えられることによって、見せられているビジョンなのだ」というような説を言い出す人も出てくるわけである。

ならば、実在性を観念そのものに与えて、観念以外のものはないのだ、ということにしてしまおうというのがバークリーの観念論だ。

しかし、このバークリーの考え方にも重大な問題がある。そもそも観念とは科学的実在論から生まれた概念だからである。観念論側から見れば、科学的実在論とは仮説的なものになるが、「観念」という概念そのものが、光、視神経や脳などと同様に仮説の部品であったものだということだ。

であるから、「観念」という言葉は暗黙の裡に『意識の内側にあるもの』というニュアンスを含意している。しかし、バークリーは意識の外側は何もないと言いながら「観念」という概念を使用しているのである。時々、哲学をかじったことのある人が、「山も川も自分の外側にあると思っているものも全部、自分の脳の中にあるんだ。」というようなことを言います。しかし、すべてが脳の中なら、その脳は一体どこにあるんだ、という問題が出てくる。

西田幾多郎はこの問題を『自覚に於る直観と反省』という論文の中で、「英国にいて英国の完全な地図を描く」と言う哲学的な問題として取り上げている。

ここで言う「英国の完全な地図」とは、あらゆる要素を一定の縮尺率で書きこんだものと言う意味である。例えば家一軒々々はおろか、もっと微細なものまですべてが記されているそんな地図である。もちろんそんなものは実現不可能であるが、あくまで思考実験として考えてみるのである。

この地図が例えばどこかの大きな広場で描かれていたとする。と、「英国にいて」とあるので、この広場自体も地図上に記載されていなければならない。ならば当然、この地図そのものもこの地図上に記載されねばならない。

勘のいい方はもうお分かりだと思うが、地図の中の地図にもこの地図が記載されていなくてはならない。というわけで、地図の中の地図の中の地図の中の地図の中の‥‥、というわけで無限に循環してしまう。

すべてが脳の中と言ってしまうと、その脳自体もその脳の中に位置づけしなくてはならなくなるのでこういう問題が生じるのである。

( まだまだつづく 

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観念論と実在論

2017-01-25 10:31:40 | 哲学

人は物心つけばたいていは素朴実在論を身に着けると言われている。目にした木や石やリンゴが(見えている)そこに、自分の外部に実在する、というようなものの見方である。通常の日常生活を送っている分には、素朴実在論は十全な理論であり、破たんすることはまずない。テーブルの上におやつがあって、それを弟と取り合いになったことはないだろうか? 自分に見えるおやつは弟にも見えているのである。このような経験、つまり他者とのコミュニケーションを通じての整合性の確認を繰り返して、眼にするものの実在を確信するようになる。

しかし、現代社会において人々はいろんな知識を身に着ける。そして、科学的知識を身に着けていくと、素朴実在論は維持できなくなるのである。

テーブルの上のリンゴは太陽光線を反射する。その反射光が人間の目に入り、網膜に像を結ぶ。網膜には視神経があって、その像が視神経を通じてセンスデータとして脳に送られ、脳でその像を認識する。というようなことを学校で学ぶわけである。

すると、我々の見ているものは、センスデータによって脳に生じたリンゴの観念であって、リンゴそのものではないということになる。ここで、物そのものvs観念という分裂が生じてくる。この段階を一応「科学的実在論」ということにする。(カントはこれを「超越論的実在論」と呼んでいる。)

科学的実在論では、我々が見ているものは観念であるが、実在するのは物そのものであると考える。そして、物そのものと対応する観念にはそれぞれ同型の構造を持つと考えられている。たまに、カントの物自体を「物そのもの」と同一視している人がいるが、全然別の概念である。物自体には観念との同型構造が想定されていないからである。

ここで一つ問題が生じてきた。物そのものの実在から我々が見ている観念については整合的に説明できるのだが、その逆はできないことに気がついたからである。よくよく考えてみれば、我々の意識の中には観念しかないのである。もし、物そのものが実在するものであれば、観念を逆にたどってものそのものに到達できなければならないのに、実はそれが出来ない。これが懐疑論のそもそもの発端であり、哲学者たちの膨大な知的エネルギーがつぎ込まれたが、いまだに最終的解決には至っていない問題でもある。

この問題に一つの解決を与えようとした人が、アイルランド生まれの哲学者ジョージ・バークリーです。「存在するとは知覚されることである。」と言って、実在としての物質を否定します。彼は観念と同型構造を持つ「物そのもの」について、「観念に似た『物そのもの』を想定してみても、実は観念に似た『観念』を想像しているに過ぎない。」というのです。これが本格的な観念論の始まりです。 
( つづく )

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純粋経験に関する異議

2017-01-14 19:22:08 | 哲学

「善の研究」を読んでいて当惑するのは、純粋経験が一体何を指しているのかがよくわからないということである。純粋経験というからには、当然純粋経験でない経験がなければならないはずだが、この本を読んでいると、純粋経験でない経験というものがあるのかという疑問が湧いてくる。

≪経験するといふのは事実其儘(そのまま)に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋といふのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫(ごう)も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいふのである。≫

上の文章は「善の研究」の本文、第一編第一章「純粋経験」の冒頭の部分である。純粋経験についての意味を簡潔明快に述べている。この言葉通りだと、純粋経験の世界というのは無念無想の世界ということになる。

そして、これほど明快に定義されているにもかかわらず、本文中には純粋経験に対する説明が何度も出現する。その説明の際に必ず伴うキーワードが「統一」という言葉である。例えば次のような表現がある。

≪それで、いかなる意識があっても、そが厳密なる統一の状態にある間は、いつでも純粋経験である、すなわち単に事実である。これに反し、この統一が破れた時、即ち他との関係に入った時、意味を生じ判断を生ずるのである。≫(P.24)

うどんを無心に食べているときに味わっているうどんの味は純粋経験である。しかし、「ここのうどんはうまいなぁ、ひょっとしたら河内屋のうどんよりうまいかも知れん。」と考えたりするのは純粋経験ではないと言っているように受け取れる。これだと思惟は明らかに純粋経験ではないことになる。しかしこの文のすぐ後に不可解な説明が続く。

≪しかしこの統一、不統一ということも、よく考えてみると畢竟程度の差である。全然統一せる意識もなければ、全然不統一なる意識もなかろうすべての意識は体系的発展である。瞬間的知識であっても種々の対立、変化を含蓄しているように、意味とか判断とかいう如き関係の背後には、この関係を成立せしむる統一的意識がなければならぬ。≫

先に「そが厳密なる統一の状態にある間は…」と言っておきながら、「統一、不統一ということも程度の差である」と言ってのけるのは、およそ哲学者らしくない言葉使いである。冒頭における純粋経験に対する定義が簡潔明快である分、このような微妙な言い回しには違和感がある。「統一」ということばを、最初は精神統一のような意味に、後には単なる統覚作用のように、というふうに多義的に使用している。要は曖昧なのである。

目の前をビキニの美女が通り過ぎたとする。思わずその豊満な胸元に見とれてしまった。その時私が感じていた感慨は純粋経験か否か? 西田が生きておれば直接聞いてみたいと思う。私はもちろん、それは純粋経験であると考える。経験を純粋か純粋でないかを区分することにはあまり意味がないように思うのである。

おそらく西田は、仏教における『あるがまま』世界を把握する視点というものを取り上げたかったのだと推測する。次の文章をもう少し検討してみたい。

≪これに反し、この統一が破れた時、即ち他との関係に入った時、意味を生じ判断を生ずるのである。≫

先にも行ったように、これだと思惟は純粋経験ではないということになるのだが、西田は、背後に潜在的統一作用が働いていれば思惟も純粋経験であるとのべている。しかし、この「潜在的統一作用」がなんであるかを西田はきちんと説明していない。それを統覚作用であると見るならば、潜在的統一作用は常に働いているのであって、経験はいつでも純粋経験である。意味を生じ判断を生ずるときも統一が破れることはない。

コペルニクスはいろんな観測結果を取りまとめ計算をしている時、コペルニクスは純粋経験のただなかにいる。そしてついに「地球が動いている」という結論に到達したとき、はたしてそれは統一が破れたというのだろうか? もちろん、「地球が動いている」というのは意味であり判断であるが、「地球が動いている」と考えていること自体は経験であり、コペルニクスは依然として純粋経験の中にいると見るべきだろう。

仏教における世界把握は「あるがまま」であり、言葉による再定義は仮のものである。ここで西田は勘違いしたのだと想像する。一切が空であるとすれば、どのような命題も仮のものに過ぎない。天動説も地動説も仏教哲が幕から見れば、同じことを別の言葉で表したに過ぎないものである。そういう意味で思惟の結果である命題を世界観として採用することはできないのである。なので、世界を再解釈するような思惟を純粋経験とはしたくなかったのだろう。

しかし、何を思惟しているかというその内容で、思惟を純粋経験かそうでないかを分けることが出来るのだろうか?

≪思惟には自ら思惟の法則があって自ら活動する。≫ (P.30)

のであれば、思惟は思惟であって、恣意的にその内容によって区別できないのは当然ではなかろうか。

私個人は西田の純粋経験の定義は破綻していると見るしかないと考えている。あなたはどう考えますか?

江の島大橋からの富士山

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真理について、まどろみながら考えてみた

2017-01-13 06:44:01 | 日記

今朝寝床の中で、ウィリアム・ジェイムズの言葉を思い浮かべていた。

≪ずっと信じてきたもの、実際にそれに基づいて生きてきたのだが、それを表現することばを見つけることが出来なかったもの≫

それが「真理」であると、彼は言う。

ロマンチックだが、実に含蓄のある言葉だ。確かにぼくらはなにかを信じている。哲学をかじりかけた若者が「真理とか真実というものはない」とうそぶくことはままある。しかし、哲学をするということ自体が、何かを信じそれを求める営為でもある。信じているからこそ疑うのだ。

信じることがなければ疑うこともできないということを、あらためて実感した朝だ。

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