禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

「世界」は存在しない

2023-08-20 06:00:58 | 哲学
 マルクス・ガブリエルは「あらゆるものをその中に含んでいる一つの世界というものは存在しない。」と言う。少し注釈が必要だろう。彼は宇宙と世界という言葉を使い分けていて、宇宙の存在については否定していない。宇宙はすべての物質が自然法則に従って運動している場である。いわば客観的な世界と呼んでもいいかもしれない。しかし「世界」はもっと大きく、われわれの意識的な主観現象も含め、ありとあらゆるものを包摂すると考えられるからである。

 しかし、科学技術の発展に伴い科学万能主義がはびこると、人々は「宇宙=世界」だと錯覚するようになった。自然主義哲学というのは科学と哲学に境界を認めない考え方で、あらゆることが自然科学の対象となりうるという考え方である。痛みだとか美しい花の色だとか異性に引かれる切ない気持ちなどという、もろもろの意識現象もすべて脳内の神経組織の中で起こっている物理現象に還元されてしまう。つまりわれわれの主観の中の全てが、宇宙の中の小さな天体に住むさらに微小な人間の脳の中の神経の発火現象として片付けられてしまう。そういう図式だと確かにあらゆるものがこの一つの宇宙(=世界)の中に納まってしまう。

 ガブリエルは確かにそういう宇宙も実在するという、ただし「科学的世界観という意味の場において」という但し書き付きで。彼はあらゆるものはある意味の場(FOS = field of sence)において実在すると言う。だから、桃太郎も実在する、物語という意味の場において。幽霊だろうが幻だろうが、それぞれの意味の場においてなんでも実在すると言うのである。ただ、彼はあらゆるものがその中にあるという一つの世界というものを否定する。そして、われわれはいろんな意味の場の重なりの中で生きていると主張する。
 
     彼はなぜ「一つの世界」観を否定するのか?
 
 おそらく、それは「一つの世界」観にとらわれると実存的視点を見失いがちになるからだと思う。私たちは決して客観的世界の中に生きているわけではない。生々しい現実の中に生きているのである。私たちは決して「一つの宇宙=世界」に直接接しているわけではない。それは単に科学的推論の中で構成されたモデルのようなものでしかない。われわれに直接触れるものは、必ずそれぞれの意味として現れるのである。だから「一つの世界」というものもあくまで科学的(客観的)世界観という意味の場においてあらわれているに過ぎないのである。ガブリエルの言っていることは、現前するものを「あるがまま」に見る仏教的視点とも一致している。仏教的無常観というのは実存的世界観とは同じ意味である。ありありとした現実の中にさらされている生身の自分を意識した時に無常の世界が現れるのである。その時私たちは実存を意識している。

 なぜ実存を意識しなければならないのか? 実存を見失うと惰性で生きていくことになる。現実の中で我々は様々な決断を迫られるが、惰性で生きているとその決断を先延ばしにしてしまいがちである。例えば、温暖化の問題について考えてみよう。それが喫緊の門題であると今では誰もが認識しているにもかかわらず、一向に対策は進まない。近い将来必ず訪れる危機的状況に対する想像力が決定的に足りなさすぎる。無常の中に生きていることを忘れているのである。やがて自分の身に降りかかるであろう災厄をなにか他人事であるかのように錯覚している。やはり、私たちは実存を見失ってはならないと思う。

夏祭り
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一日作さざれば一日食らわず

2023-08-03 13:35:25 | 仏教
 百丈慧海禅師の有名な言葉である。とても有名な言葉なので、その言葉にまつわる故事は省略する。(その故事についての解説はこちらを参照してください==>「一日作さざれば一日食らわず」
 
 百丈禅師というのは唐代の大禅匠であるが、「百丈清規(しんぎ) 」という禅林の修道生活全般にわたる規範を取り決めた人である。残念ながら百丈清規はその後散逸してしまい、今となってはその全貌を伺うことは出来ないが、現在の僧堂の運用の基礎として残っている。禅林では修行者の日課とその役割が事細かく決められている。各々が自分の役割分担をそれぞれ果たすことによって、はじめて禅林は一個の有機的な集合体として機能するのである。百丈は自立した持続可能な禅林というものを目指していた、千年以上もの昔に今でいうところの「 SDGs 」を意識していたすごい人なのである。

 以上のことを踏まえて、「一日作さざれば一日食らわず」をもう一度考えてみよう。重要なことは「お互いに役割を果たす」というところにあるのではないか。つまり、それはお互いに必要とされているということを意味する。自分に必要とされている役割がある、つまりそれがその人の居場所である。「働かない自分が食事をするのは申し訳ない」という気持ちが百丈にあったのかもしれないが、それだけの解釈にとどまっては不十分だと思う。自分は老人であまり大きな働きはできないかもしれないが、まだまだ畑を耕すくらいのことはできる。老いたりと雖もまだまだ人の役に立ちたい、つまり「一日食らわず」というのは自分の役割を奪わないでほしいというハンガーストライキなのである。

 人は互いに必要とし必要とされる存在である。必要とされることを必要としているし、必要することを必要とされてもいるのである。そこに共感と安寧が生まれるのである。人々が応分の役割を果たせる社会、そういう社会が百丈の理想なのだと思う。残念ながら、資本主義というのは人々に役割を持たせる仕組みとしてはある程度の機能を果たしているが、どうしても利益というものを第一の動機としているため結果的に人間と労働を疎外してしまう。労働を苦役に対する対価としての賃金を得るためのものに貶めてしまった。「働かざるもの食うべからず」という解釈が生じるのはいかにも資本主義的である。

 私はときどき障碍者の方々が働いている食堂を利用することがある。そこでの業務の流れは必ずしも効率的ではないし、はたから見ていてぎこちない点がままある。しかし、私の主観かも知れないが、それぞれの人がやりがいをもって生き生きと働いているように思う。一生懸命作ってくれた料理を供されて、それを食べた私も満ち足りた気分になる。こうした事業は大抵赤字で補助金なしではとてもやって行けないし、業務そのものも健常者がやってしまった方が効率的にできるというのはその通りである。自立し持続可能な事業というにはほど遠いが、何とか改良工夫して続けていく努力はしなければならないと思う。人は誰もが必要とされその役割を全うすべき存在だからである。そういう社会が百丈禅師が目指す理想の社会ではないかと私は考えている。 

(参考 ==> 「公案インデックス」) 
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