禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

柳は緑花は紅

2014-02-23 20:10:12 | 哲学

このブログの冒頭の「禅的直観と論理世界」という記事の中で、私は次のように述べた。

≪ 現実はあくまで現実であり、この「当たり前の世界」以外に我々が受け入れるべき世界は無い ≫

「柳は緑花は紅」というのは、この世界が当たり前であることを意味する。この当たり前の世界を受け入れることを「あるがまま」というのである。今回はこの「あるがまま」を抹香くさくなく、論理的に説明したい。

私たちは日常的なこの世界の中に、時として看過できない非日常性を見出す。常識的だとばかり思っていたこの世界が全然常識的でないことに気付く。あらためて、この世界の無根拠性に気がついて驚くのである。そういうところから哲学が生じてくるのだと思う。

だから哲学者というのは時々とてつもないことを言いだすのである。

   「この世界は過去の記憶とともに5分前に創られた。」
   「この世界はブラフマンの見ている夢である。」

もともと世界は無根拠(たとえ根拠があったとしても、我々には認識できない)であるから、矛盾のない理論はいくらでも作ることができる。

仏教においても、一旦はこの世界を否定する。それが「色即是空」ということである。この世界は無根拠であり、我らがすがるべき絶対性というものはどこにもないということである。

だから、「この世界は5分前に創られたんだよ」と言われても、我々は反論できない。

しかし、どうだろう。一切皆空というなら、五分前世界創造説もまた空でしかない。世界の無根拠性に対する不安もまた空であるはずだ。

 

世界の無根拠性に対する不安は「考える」ことから生まれるのである。本来我々の思考は、有りうべき現実に対処するためのものである。そもそも哲学にしても、本来はこのありありとした現実を説明するために思考を進めていったのではなかったのか? その結果、このありありとした現実を否定するような結果を導き出しているのなら、なにかが転倒していると言わざるを得ない。

ひょっとしたら、この世界は5分前につくられたものかもしれない。もしかしたら、この世界はブラフマンの見ている夢かもしれない。しかし、いずれにしろ我々はこの「現実」を生きるしか方途はないのである。

 

世界の無根拠性に気づいた時、我々のとるべき態度は三つある。

   ①そのことを忘れ、気がつかなかったことにする。
   ②そのことを儚く思い不安の中で暮らす。
   ③無根拠性の上に成立しているこの世界の奇跡性に感謝する。

③が仏教の選んだ道であり、この奇跡性を「妙」と呼ぶ。仏教は一旦この世界を否定はしても、最終的には肯定するのである。それが「あるがまま」を受け入れるということである。

「妙」はこの世界の積極的評価であるが、この世界はやはり無根拠なのである。仏教は、現実の中において我々は何らかの絶対性に守られているわけではない、とも教える。それが無常ということである。
だから、10秒後に富士山が大爆発して、日本全体が大津波に襲われて阿鼻叫喚地獄となったとしても、我々に文句を言う権利はない。我々はさながら無常の大海に漂う木の葉の上の蟻のような存在である。現実にはそのような理不尽もある。それでも現実は現実として積極的に受け入れていかなくてはならないのである。

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禅的時間論

2014-02-08 08:44:41 | 哲学

以前、「百丈野鴨子」と言う記事では、パリもニューヨークも実質をもたず単なる記号でしかなく、空間的位置概念は空であると述べた。今回は時間をとり上げたい。

まず、1憶年の時間というものを想いうかべてみよう。一億年前は恐竜の全盛期であることが知られているが、そういう知識抜きに一億年前あるいは一億年の時間の長さというものが想起できるだろうか?
次に、一万年ならどうだろう? もし、それらを想起したら比較してみよう。
比較できるだろうか? できないはずだ。歴史的知識がなければ一億年も一万年も空疎なものとなる。一億年は一万年の一万倍も長いのに等しく空疎である。

もし年表的知識というものを排除すれば、一億年も一万年も我々にとっては同じことであるということが理解していただけるだろうか。

一億年とか一万年というのは我々の経験を超越しているから想起できないが、一年とか一時間という経験内の時間なら想起できる、と言い分もありえると思う。

そうだろうか? 時間というのは主観的には早く過ぎ去ったり、異常に長く感じることがある。なぜだろう?

言えることは、なにか目安になるものがなければ我々は正確に時間の経過を決して知ることはできないということだ。

私は今までに全身麻酔の手術を2度経験している。笑気ガスのマスクをあてがわれると2、3秒で意識がなくなる。そして次の瞬間、手術台の照明が見えてきたときにはすでに手術が終わっていた。その間の時間の経過というものは全然分からなかった。

「時間は流れる」とはよく言われるが、我々が時間そのものを見ることはない。手術を終えた私が経過した時間を知るには時計を見るしかない。時間が流れた証跡は時計にしかないのである。つまり私は時間が流れた跡を直接見ることはできない、時計の動いた跡を見るのである。よくよく反省するならば、我々は時計の動きそのものを時間と称しているのである。

時間という概念が生じるのはおそらくいろんなプロセスが同期するからに違いない。一定の長さの振り子の振動を単位にすれば、あらゆるプロセスを時間という量的なものに換算できる。その意味で時間概念は有効であり、「時間」は存在すると言っても良いかもしれない。しかし、そこから純粋な時間を抽出しようとしても決してできない。結局我々は時計の運動そのものを時間と同一視することになってしまうのである。

あなたが亜光速のロケットに乗って宇宙旅行したとする。そして一年間経過して、地球に戻って来たときはウラシマ効果ですでに地球上では5年間経過していたならば、あなたはもとの世界から4年後の未来の世界に行ってしまった、と言えるだろうか?

あなたは決して未来の世界に行ったわけではない。亜光速で飛行しながらも、その間ずっとあなたは地球にいる私たちと同じ世界にいたのである。この間、私たちは同じ世界にいながら共通の時間流というものは存在しなかったということに注目したい。ただ、高速で飛行する宇宙船の中ではあらゆるプロセスがゆっくり進む。私たちはプロセス(例えば時計の運動)の進行そのものを時間とみなしているから、宇宙船の中の「時間は遅れる」と表現するのである。

どのように我々の周りを見回しても「時間」を見つけることはできない。結局、我々はいろいろなプロセスの結果を時間の証跡であると見做しているだけであるということが分かる。

過去はイベントの記憶の集積であり、未来は逆に起こり得るイベントの想像である。決して過去の世界や未来の世界は実在しない、すべては今ここで記憶や想像を想起しているだけのことである。

つまり、時間も過去も未来もすべて記号で成り立っているということなのだ。それゆえ、概念を弄ばない禅者にとって時間は空であり、過去や未来もまた空である。だから禅者は「今とここしかない」というのである。

物理的時間は「未来から過去に流れる」という見方と「過去から未来に流れる」という見方の2通りの説があるようだ。いずれにしても、幅の無い点である現在が過去と未来にはさまれている構造になっており、現在という点は過去から未来の方向に絶えず移動している。

ロケットを飛ばすための計算をするにはそれで十分であるが、我々の実感とは大きくかけ離れている。

数直線モデルの時間軸では、現在が現在である時間は0である。現在は「時間を経ないで」過去になってしまうのである。

私の好きなベートーベンの交響曲第5番は、誰もが知っているあの「ジャジャジャジャーン」で始まる。しかし時間が物理学的時間であると考えてしまうと名曲もじっくり聴いておれなくなる。時間が過去・現在・未来で成り立っているとすれば、2番目の「ジャ」がなっている時は既に最初の「ジャ」は過去の音になっている。つまり、この「ジャジャジャジャーン」という一連の音は私たちの記憶の中で鳴っているとしか考えられなくなってしまう。その記憶を想起するのだって時間の中で行うわけであるから、最初の「ジャ」を想起している時にはまだ2番目の「ジャ」は想起できないし、2番目の「ジャ」を想起している時には最初の「ジャ」の想起は過ぎ去ってしまう。

ここはひとつ、是非実際にレコードをかけて聴いてもらいたい。実際に聴いてみれば、「ジャジャジャジャーン」がそれは記憶などではないことがはっきりとわかるはずだ。この臨場ということが禅でいう「ただ今」ということである。

禅では「恁麼(いんも)」という言葉をよく使う。「このように」というような意味である。ものごとはすべて恁麼であるとしか言いようがないというのが結論である。つまり、見たとおり聴いたとおりだということである。「ジャジャジャジャーン」は畢竟「ジャジャジャジャーン」でしかない。それは実際に聞けばわかることであり、実は誰もが了解していることでもある。

何も説明になってないではないか? といわれればその通りである。禅ではこのようなことを説明したりはしない。既に了解済みのことであるからである。しかし、了解済みであることを自覚するのが難しい。そこで、禅的哲学では、説明が不要であることをくどくどと説明することになるのである。

 

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となふれば 仏もわれも なかりけり 

2014-02-01 22:53:22 | 哲学

私の郷里紀州に由良というところがあります。そこにはかつて関南第一禅林と称された興国寺という寺があります。現在は妙心寺派のお寺ですが、以前は臨済宗法燈派の大本山であり、虚無僧で知られる普化宗の本山でもありました。そのご開山が法燈国師(心地覚心禅師)という方です。無門関を著したことで有名な無門慧開について修業しその法を嗣いだのであります。信州松本市の近郊神林村出身の方で、無門関とともに味噌と醤油を日本に初めてもたらした人でもあります。法燈国師は宋の径山寺(きんざんじ)で修業したので、それにちなんで「金山寺味噌」と言うのがこの地方の名物になっております。そんなわけで、この興国寺こそが日本における味噌と醤油の発祥の地であります。

本日はその心地覚心禅師と一遍上人にまつわるエピソードを紹介します。一遍上人は歴史に詳しい方ならご存知と思います。踊念仏で有名な時宗の開祖であります。
その一遍がある時、心地覚心に参禅したのであります。そこで禅師に見解(けんげ)を問われた一遍は次の歌を提示しました。

  となふれば 仏もわれも なかりけり 南無阿弥陀仏の 声ばかりして

それを受けた禅師は、「まだ徹底が足りない」と、突き返しました。
それではと、今度は次の歌を提示しました。

  となふれば 仏もわれも なかりけり 南無阿弥陀仏 なむあみだ仏

今度は、禅師は善しとして、印可を授けたのだそうです。印可というのは免許皆伝の証みたいなものです。

私はこの話は後世の作り話であると考えています。理由はあまりにも単純で分かりやすいからであります。最初の歌の「声ばかりして」という文言は、その声を聞いている自分がいる、ということで「念仏と自分が分離している」らしいのです。
素人にもわかるような方便として、このような解説がされているのだとは思いますが。それを言うならば、「となふれば 仏もわれも なかりけり」という部分も結構問題にしなければならないはずです。唱える自分がいるし、「ない」と言っている「仏もわれ」も実は意識はしています。


素人が聞いて納得できるということは、素人でも考えれば二番目の歌は作りえるということです。その様に考えて作った歌を師家に提示したからと言って師家が認めてくれるはずもありません。重要なことは実際に当該の境涯に到達しているかどうかであります。到達していると師家が判断すれば最初の歌でもよしとされるはずです。

 

いずれにしろ、和歌という表面的な言葉一つでその境涯を推し量るというようなことを師家はしないのであります。密室で行われる参禅は両者の全人格のぶつかり合いであって、師家は弟子の一挙手一投足、一言一句、あらゆる徴候から弟子の境涯を探るのであって、歌一つで印可がもらえるなどということはあり得ないのです。

 

それに、上にあげられた二首の歌はいずれも三昧の境地をうたったものです。臨済禅においては、三昧の境地への到達はほんの入り口であります。必須ではあっても十分ではありません。印可をもらうにはそれから何年何十年の修行が必要です。「声ばかりして」を「なむあみだ仏」に変えただけで印可をもらったというのがいかにも安直であります。私はあり得ない話だと思います。

 

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