駅や空港へ人を迎えに行くことはよくあることだが、迎えに行く人の名前を知らないなどということはまずありえない。ところが哲学的(?)議論の中では、誰を迎えるのか分からないまま行くようなことがままあるのだ。
例えばいわゆる「自分探し」。探す対象の「自分」がなんであるかを分からないまま探している。自分が探しているものがなにかわからずに探すことはできない、と若者に言ったら、「自分が何を探しているか、それを探している。」と答えが返ってきた。
「生きる目的を見つける」というのもこれによく似ている。我々は既に生きているというのに、あとづけでその目的を探さねばならないとは‥‥。個人的には、「充実感をもって生きるためには具体的にどうするべきだろう?」というふうに問い直せばよいだけのように思えるのだが、なぜか自分の人生に宗教的ミッションを負わせたがる人がままいるようだ。
さて、今日の本題として、自殺をとり上げたいと思う。自殺もまた「知らぬ人を迎えに行く」行為に似ていると言いたいのである。
ここでもし素朴に反省してみるなら、我々は自分の死というものを知ることができないことに気がつくはずだ。我々が知っている死はあくまでも他人の死、それは生物学的現象としての死に他ならない。現象としての死にまつわる情報をいくら集めても、自分の死を知ることには全然ならない。
釈尊は「死後のことについては無記である」と、孔子は「われ未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」と、妙心寺の関山国師は「わしのところに生死などない」と言ったのである。
かけがえのない「自分」に死が訪れる時一体何が起こるのか、それを知る途は根本的に閉ざされている。死は経験することのない概念である。
ゆえに、自ら死のうとする人は、自分が何をしようとしているかを知らないのである。言えることは、苦しい現状を変化させたがっているということだけである。
私には自殺が良いことなのか悪いことなのかはわからない。死がなんであるか分からない以上、それ以外に言いようがないのだ。しかし、なにをしようとしているのか分からずに行う行為というものに関しては大きな違和感を感じる。それは、誰を迎えに行くのかもわからないまま、成田へ人を迎えに行くのと同じことのように思える。
苦しい現状から逃れたい、この現状を変化させれば今よりましになるかも、という考えには楽観バイアスがかかっているような気がするのだがどうだろう。
水中にもぐっている時、息が苦しいからといって、息をしたらさらに悲惨なことになる。苦しまぎれの自殺はもしかしたら、水中で息をしてしまう行為と同じかもしれない、そんな気がするのだ。確かなことは何も言えない、もしかしたら明るい死後の世界が開けるのかもしれない。言いたいのは、苦しまぎれに意味のわからない行為をするのは、よくないような気がするということだけだ。なんとなくだが‥‥。
時々インターネット上で、若い人々が自殺について議論しているのを見かける。自分には十分時間があると思っているのだろう。明らかに自分と死は無縁のことのような感覚で、上滑りの空論に終始していることが多い。人生のことなどなにも分かっていないのに、軽々しく生き死にのことを語っている、そんな気分の悪い情景を見たので、私は今こんなお節介なことを書いている。