禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

本当にどうするのか? 政治家は説明責任を果たせ。

2021-04-28 15:14:07 | 政治・社会
 どんな政治家も万能ではない。時には失敗もする。しかし、政治家である限りどんな時も自分のしていることに対する説明責任があるはずだ。なのに、コロナについて、オリンピックについて、どのような見通しを持っているのかが全然伝わってこない。とりあえず、東京、大阪の緊急事態は来月の11日までということになっているが、どういう状況になれば解除するのかしないのかが明確でない。今までのところ、ただ状況に引きずられて宣言と解除を繰り返しているだけのように見える。要するに無定見なのだ。

 東京五輪・パラリンピック組織委員会が日本看護協会に大会の医療スタッフとして看護師500人の確保を依頼したらしいが、すでに医療スタッフは現状で不足しているのだ。現場では増大する重症患者に対応しきれずにトリアージが始まっているのに、500人もの看護師をオリンピックに回せという。以下は、井上篤史さんという方がツィッターに投稿した内容である。 

40度の高熱を出して、うなされている奥さんに、「今晩の俺の飯は?」と聞くような夫が実際にいるかどうか知らないけれど、まさにそれと同じような事態が繰り広げられているのである。 
 
 こんな非常事態の中で、丸川五輪担当大臣は東京都に対して、(東京五輪・パラリンピック実施中の医療体制について)「主催者としての責任、医療現場を預かる責任をどう果たすのか。国はどう支援すればいいのか非常に戸惑う」などと批判したらしいけれど、まるで他人事である。東京都の医療事情が逼迫しているのは周知の事実ではないのか。もし小池都知事が「東京都ではもうなんとも出来ません。国の方で何とかしてください。」と泣きついてきたら、 丸川大臣はなんとかできるのか? 当事者能力のないただのお飾り大臣が、ちょっと威張ってみたかっただけのように見える、といったら言い過ぎだろうか? 

 大阪では、新型コロナウイルス感染症患者の救急搬送に、受け入れ病院が見つからず、46時間53分もの時間を要した例が報告されている。今月12~18日では、救急車が現場に360分以上滞在した事例が計20件あったらしい。(==>「コロナ搬送に46時間53分」)助かる命も助からない事例が既に発生しているのである。人の命を犠牲にして成り立つオリンピックとは一体何なのか? 総理大臣も東京都知事もオリンピック担当大臣も、その問いに答える責任がある。
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緊急事態宣言には目標が必要

2021-04-23 09:54:55 | 政治・社会
 当たり前の話だが、どんな政策にも実現すべき目標がなければならない。こんなことを言うのは、日本政府のコロナ対策に納得できないからである。4都府県に本日発令される緊急事態宣言のことである。その期間は4月25日から5月11日までの17日間だという。期間が短すぎる。
 感染症は出来るだけ数を抑え込んでしまった方が、後の対処が楽になるというのは常識である。感染者数が少なければ少ないほど、感染経路のトレースを徹底することができるので、より少ない労力で感染の拡大を防ぐことができる。実際に、台湾やベトナムはそれを徹底することで、コロナの抑え込みに成功している。たった17日間で宣言解除してしまえば、また元通りに感染者数が増大するのは目に見えている。すでに東京と大阪の医療は限界を通り越している。医療施設がもともと貧弱な地方は少し感染者が増えただけで対応しきれなくなる。これ以上の状況の悪化があってはならない。
 今までの経緯からして、17日間だけでは劇的な効果は期待できないのではないだろうか。無知な政治家は今まで「今が正念場」とか「ここが勝負」とか言って、国民に我慢を強いてきたが、今後もそれを繰り返すつもりなのか。なぜ17日間なのか? 東京新聞によれば、IOCのバッハ会長が5月17日に来日するからではないかと見られている。緊急事態発令中にオリンピック関連のセレモニーをやるのはカッコ悪いということか。これは決してうがった見方ではない。初めての緊急事態宣言はオリンピックの延期が決定されるまでなかなか発令されなかった。二回目の宣言解除は聖火リレー開始前だった。明らかにコロナ対策がオリンピックの影響を受けている。こんなことがあって良いのか。
 私だって、水泳の池江璃花子選手やゴルフの松山英樹選手がオリンピックで活躍するところを見てみたい。どの選手も人生を賭けて精進していることを考えれば、その活躍の場を奪ってしまうのは忍びないことではあるが、この一年間というもの、燃え尽き症候群一歩手前で踏ん張ってくれている医療現場の人たちや、コロナのせいで職を失って苦しんでいる人たちのことを考えるなら、なにごとにも優先してコロナ対策に全力を傾注すべきだと思う。
 緊急事態宣言は事態の打開のために出すのでなければならない。ただ期限を決めて発出すればよいというものではない。政治家が自分の立場を守るために出す、宣言の為の宣言であってはならない。
 
コロナ禍でもツツじは鮮やかに咲く
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やっぱり、オリンピックやってる場合ではないのでは‥‥

2021-04-21 04:49:09 | 政治・社会
 昨日(4/20)の東京新聞の朝刊によれば、菅首相はバイデン大統領との共同記者会見の場で、記者の質問を無視したらしい。ロイター通信社の記者が、バイデン大統領にはイランの核濃縮問題、菅さんに対してはコロナ禍における五輪開催は「無責任ではないか」と訊ねた。まずバイデンが答え、次に菅首相に答えるよう促したところ、ロイターの質問には答えず、「それでは日本側から」といって共同通信社の記者を指名したというのだ。自分にとって都合の悪い質問は無視するという、官房長時代からの悪い癖がアメリカでも出てしまった。自分の政策について聞かれたことには答える、説明責任は政治家に要請される最低限の誠実さである。アメリカくんだりまで行って、とんだ日本の恥をさらしてくれたものである。
 二階幹事長の「東京オリンピック・パラリンピックの開催中止も選択肢になる」という発言が物議をかもし、本人もあわてて「とてもこれでは無理だと、誰もがそう判断することになった状況になったときのことを言っているわけです」と釈明した。なぜ釈明したのか? 「誰もが無理だと判断する」ようなら中止になるのは当たり前で、およそ釈明としては意味のある言葉ではない。「AはAである」と言っているのと同じだ。あえてそのように釈明しなければならないのは、実際には「五輪の開催中止が選択肢にはない」からではないのか。国民の税金を不明朗な賄賂として使ってまで、「福島原発はアンダー・コントロール」と嘘ついてまで、誘致したオリンピックをいまさらやめる訳にはいかない。なんだかんだ言っていても、いざオリンピックが始まれば国民の気分は高揚する。白血病を克服した池江璃花子さんがもしメダルを取ったりしたら、日本中は感動の嵐に包まれて、そのまま衆院選に突入すれば与党の大勝利は間違いなしという訳か。
 ここには最悪の事態を回避するという発想はない。敗戦必至の状態になりながら、「誰もがもう無理と判断する」ような事態に至るまで、降伏をなかなか決断できなかった、どこかの国に似ている。すでに大阪は医療崩壊状態で、東京もそれに近づいている。救急車はサイレンを流しながら、受け入れ病院を求めて街中をさまよい続ける。今、脳梗塞になったら手遅れになる確率が高くなっている。「不急の手術は先送り」だというが、不要不急の手術などと言うものは本来存在しないのではないのか。
 今から思えば、第一波を抑え込んだ昨年夏あたりで、オリンピックの中止を決断すべきだっただろう。そして全精力をコロナ対策に傾注すべきだった。感染者数をとにかく最小レベルにまで抑え込んで、発熱者はすべてPCR検査をするというくらいに検査体制を拡張し、感染者が出れば徹底的に接触者をトレースする。そうすれば、多人数の会食を禁止するくらいの対策で済んだような気がする。なのに、第一波が収まったときに、「PCR検査の対象を広げないで、焦点を絞ったやり方が正解だった」というような迷信を意図的に広めて、調子に乗ってGoToトラベルみたいなあほなことをやってしまった結果が今の惨状をまねいている。
 遅きに失したが、今からでもオリンピックを中止して、全精力をコロナ対策に傾注すべきであると考える。 医療現場はもう疲弊しきっている。コロナ患者が増大している中で、ワクチン接種にも人手が取られ、その上オリンピックのために医師と看護師を振り向ける余裕はない。 

 東京都知事が「東京には来ないでください。」と言っている。なのに、オリンピックは実行する。なぜ? オリンピックは人が集まることに意義があったのではなかったか。 オリンピックって一体なんなの?
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想像上の現実

2021-04-18 04:48:01 | 哲学
 「サピエンス全史」によれば、われわれホモ・サピエンスは約30万年前に誕生したらしい。その時点において、人類と呼ばれる種はわれわれ以外にもホモ・エレクトスやホモ・ネアンデルターレンシスなど色々いたらしい。われわれホモ・サピエンスは当初は他の種に比べて優越的な立場にいたわけではないらしい。むしろネアンデルタール人などと比べて劣位の時期もあったらしい。それが約7万年前ぐらい前にホモ・サピエンスに大きな変化があったらしく、その他の人類は淘汰されていく。ネアンデルタール人も約3万年前に絶滅したと考えられている。
 
 個体レベルではネアンデルタール人に比べて体力的に劣るわれわれが優位に立てたのは、やはり他の種に比べて際立った言語能力を持っていたからだと考えられる。簡単なコミュニケーションなら他の動物にもできる。しかし、物語を語れるのは人間だけである。ユヴァル・ノア・ハラリ氏は「同じ神話を信じていれば、他人同士大人数でも協力し合える。」と言う。みんなが同じ虚構を信じていれば、同じ規則に従うことができるというのである。自分で生み出した虚構を信じることができる、そのようなことができるのは、われわれサピエンスだけである。

 宗教が共通の神話に基づくものだということは当然であるが、ハラリ氏は国家や法律に関するものごとも虚構(物語)を信じることによって成り立っているという意味では同様だと言う。そう言われれば、「日本」そのものというものはどこにもない。人かそれとも国土を指すのだろうか? 日本人であっても国籍を変えればアメリカ人になり得るし、戦争があれば国境も変わるし、へたすれば国そのものが亡くなったりする。日本固有の領土などと言うものが本当にあれば、尖閣問題も竹島問題もあり得ない。国際紛争というものも、物語と物語すなわち虚構と虚構の衝突であると言える。

 物語のネットワークを通じて生み出されるものごとを、専門用語で「虚構」、「社会的構成概念」、「想像上の現実」と言うらしい。現実という言葉は虚妄に対する事実を言うのだが、想像上の現実は虚妄ではない。皆が信じているものを「想像上の現実」というのである。日本もお金も皆が信じているから「想像上の現実」なのである。誰も信じなかったら、もちろん日本もお金も実在しない。
 
ひたち海浜公園
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迷うのは人間だけ

2021-04-15 06:11:03 | 哲学
 今、歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏原案の「サピエンス全史」という漫画を読んでいる。それによると、人類が誕生してから200万年(ホモサピエンスは30万年)経つが、そのほとんどの期間が絶滅の危機すれすれの状態であったらしい。人類が食物連鎖の頂点に到達したのは今から約2万年前のことで、進化論的尺度で見ればつい最近のことだというのである。つまり、俗な言葉で言えば、我々人類は成り上がりものだというわけである。
 ハラリ氏によれば、人間以外の食物連鎖の頂点にある動物はみな堂々としていると言う。そういえば、ライオンや虎は確かに堂々としている。猛禽類が高い梢にとまって辺りを睥睨しているさまも威厳に満ちている。人間は彼らに比べると風格に欠けると言われても仕方がないように思う。いつも辺りをきょろきょろと見まわし、計算高く立ち回っていて落ち着きがないように見える。
 他の種は長い年月を経て現在のポジションを獲得したのに比べて、人間はその知恵のお陰で、本来は食物連鎖における中程度の位からいきなり頂点にのし上がったため、地に足がついていないとも言える。まだ自分の置かれた地位に慣れていないので、落ち着かないのだろう。そういう意味で人間という種は他の種に比べて完成度が低いとも言える。

 人間の種としての「完成度が低い」というのは、人間が他の動物に比べてアンビバレントな生き物であるという意味である。人間以外の動物はみな生死をかけて迷わず行動している。倫理と行動の間に寸分のすきもないのである。あなたは「人間以外の動物には倫理がなくて欲望だけだからだ。」と言うかもしれないが、倫理の源泉も実は欲望であると私は考える。人間の欲望が引き裂かれているのである。引き裂かれた欲望を煩悩と言うのだと私は思う。
 
 ともあれ、現にある状態を嘆いてばかりいても仕方がない。私たちは自分で自分を納得させるような生き方を、各自で模索していく他はないのである。

上目使いで私を見る猫ちゃん
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