禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

空観から中道思想へ(前回記事からの続き)

2023-10-29 15:41:09 | 哲学
 前回記事で「日本一低い山などというものも、恣意的視点を受け入れればいくらでも作り出せる。」と述べたが、なにもそれは「日本一低い山」に限ったことではなく、いかなる概念についても言えることである。正義や善についてもまた然りである。現に、世界中至るところで正義同士が悪辣なことをしでかしている例は枚挙にいとまないほどである。プラトンの言うように正義や善のイデア・本質というものがあるのであれば、こんなことはあり得ない。正義は一義的に決定しているはずである。 
 
 龍樹はなにごともそれ独自で存在するすることはなく、それは縁起によって生じるものであると言う。縁起と言うのは日常語においては、「時間的な継起・因果関係」のようなニュアンスがあるが、日本仏教学の権威である中村元博士は「龍樹がいう縁起とは相依性のことである」と述べている。相依性と言うのは、ものごとは単独で成立しているのではなく、悪があって正義があるというように、相対的な関係性によって成り立っているということである。しかし、言葉と論理には恣意的視点がつきまとわざるを得ないというのがこれまでの私の主張である。恣意的視点の選びようによっては正義と悪の相関関係もいかようにも変わりうるのは当然である。つまり、いくらでも自分を正当化することは可能である。堂々と正義の名をかざせばよい、言葉と論理による理屈は後から貨車で満載でついてくるはずである。
 
 今もパレスチナではイスラエルとハマスがお互いの正義を振りかざしながら殺し合いを繰り返している。お互いの言い分を聞けば、どちらにもそれなりの理由があるにはあるのである。しかし、そこで起きている現実はどうだ。ガザという狭い地域に押し込められた人々、その中にはこの争いには何らの責任も負わされるはずのない多くの子供達もいる。おびただしい子供たちが電気も水も食料もないなかで、極度の飢えと不安と恐怖にさらされているのだ。正義を振りかざしたたかう戦闘員は自分の命を犠牲にしてもそれなりに納得できるかもしれない。しかし、おびただしい数のなんの罪とがのないはずの子供たちが、爆弾によってその手足をもがれ引きちぎられて死んでいく、この現実をどのように受け止めれば良いのだろう。

 イスラエルを攻撃すれば、その何十倍もの報復でハマスの戦闘員だけでなく、それ以上の数のなんの責任もないパレスチナ人が殺される。それを承知で攻撃してくるのだから、すべてはハマスの責任であるとイスラエルは主張する。確かに、ガザの人びとをハマスは自分たちの人民の盾として利用している。そういう意味でガザの子供たちの犠牲に対してハマスは重大な責任を負っている。しかし、群衆の中から銃弾が飛んできたからと言って、そこの群衆を皆殺しにしてもよいなどという理屈が許されるはずもない。それにガザの住民は元々好き好んでそこに定住しているわけではない。彼らを底に押し込んで移動の自由を束縛しているのは他ならぬイスラエル自身なのである。そういうことは双方知っているはずなのに、あくまでも自分たちは正義であり悪いのはすべて相手側であると言って恥じない。いったいなにが彼らの信念を支えているのだろうか?
 
 彼らを支えているのはイデオロギーである。言葉と論理の信奉者であるロゴス中心主義者は自分を正当化するイデオロギーがあればそこに安住できるのである。イデオロギーというのは言葉と論理の集積である。ということは、どんなに複雑なイデオロギーも細分化してみれば、有か無か、真か偽か、Aか非Aかという二値選択の積み重ねに過ぎないことからその二値選択の基準が恣意的であれば、いくらでも都合のよい結論を引き出せるというのは当然のことである、親鸞聖人はこれを「有無の邪見」と呼んだ。イデオロギーというの間違っている可能性があるというより、つねに間違ってばかりいると言っても言い過ぎではないのである。そんないい加減なイデオロギーであっても、ロゴス中心主義者には力強い支えとなりうる。そうしてそこに強烈な信念対立が生まれることになる。

 なぜイデオロギーに対してそれ程の信頼性が生まれるのか、それには十分な理由が存在する。現実には形式論理というものが極めて精密かつ正確で、日常生活においては我々はほとんど裏切られることはないからである。人間と人間以外を区別する境界はないと言っても、それは極めて厳密なレベルのことを言っている訳で、日常的なレベルでこの人は人間かそれとも人間以外かで迷うような事例に出会うことはまずないと考えて良いだろう。だから人間という言葉は人間の本質を正確に指示していると仮定しても現実には不都合は生じないのである。言葉と論理で構成する抽象モデルは我々の行動決定するためには必要不可欠であり、現実的に言葉と論理なしでは人間は生きていけない。力強く生きていくためにはある程度のイデオロギーは必要であるとさえ言える。われわれがロゴス中心主義に魅かれていくのは当然なのである。

 しかし、本当に厳密なことを言えば、空観の主張するようにあらゆるものは自性をもたないないのである。言葉による概念もその指示対象となる自性即ち本質というものをもたないのである。それ故、生きていくうえでの重要問題について言葉と論理によるイデオロギーに頼ることは非常に危険なことであると言わざるを得ない。中道と言うのは左右の両極端な道ではなく真ん中の道を行けというようなニュアンスがあるが、そうではなく、イデオロギーに安住してはならないという教えである。イデオロギーに頼るのではなく、現前する現実を虚心坦懐に見つめ、自分と周りの人々がもっとも幸せになれるような道を常に模索し続けなければならないという教えである。それはとても難しいことである。本当に虚心坦懐になるためにはあるていどの修行が必要かもしれない。そのために人は坐禅したり、全てを放擲して阿弥陀仏に帰依したりするのだろう。計らいを捨てて、空襲を恐れる子供たちの顔を思い浮かべれば、ミサイルを発射するというような行為が出来る筈はないのである。

これもランタナ?

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