禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

自分のだめさ加減を思い知らされる

2023-11-05 05:17:38 | 闘病日記
 9月28日の「難病に罹ってしまいました」という記事で、腎臓病はわたしに向いてるというようないかにも達観しているような趣旨のことを述べた。なにしろ普段から、空だ無だの一見偉そうなことを述べている私のことであるから、「さすがに御坊哲は悟っているんだろう」くらいに思った人もいるかもしれない。としたらそれは飛んだ見当違いなので、ここで読者の皆さんの誤解は解いておきたい。私はどちらかと言えばダメダメの落ちこぼれ老人で、ヒマにあかせて言いたいことをブログでぶちまけているだけ、という感じに受け止めてもらえば私も気が楽である。

 腎臓病が私に向いているというのはある程度本当のことである。常に体はだるいが、なんの気負いもなくだらだらと過ごしていれば別に苦しくとも何ともない。平地をただゆっくりと自分のペースで歩くにはなんの支障もない、ただ少しでも急がねばならないということになると急に動悸が激しくなり息切れもする。何かについてヤル気を出さねばならない状況になると、ちょっとしんどいだけのはずの病状が頑丈なワイヤーロープのように一変して全身を羽交い絞めにしてくるのである。生きているうちに何かを成し遂げなくてはならないというような使命感を持って生きているような人にとっては、腎臓病に罹るということはもしかしたら死ぬより辛いことかもしれない。

 そんなわけで、私のテキトーな性格はある程度は腎臓病向きとは言えるかもしれない。が、しかし病気は病気である、健康状態よりはいろいろ不都合があって当たり前である。肉体的しんどさは私にとって大したことはないのだが、この病気のお陰で私の精神面の弱さがもろに露呈されてしまう事態が起こってしまったのだ。というのは、この病気は体を動かすことだけがしんどいのではなく、頭を働かせることもしんどいのである。だから病気の調子が悪い時は人と会話するのもおっくうになる。会話と言っても入院中は看護師との事務的なやり取りやその場の他愛もない軽口程度なので何ということはないのだが、家に帰ってくると妻と二人きりである。妻は矢継ぎ早に私に問いただしに来る。私の今の状態や考えを知りたがっている訳で、あまりなおざりな生返事で済ますわけにはいかない。しかし、それがしんどいのだ。そのうちだんだん腹が立ってきた。いきなり私の口から怒声が飛び出してきたのである。「うるさいっ!もうええっ。黙ってやんかい。」という自分でもびっくりするくらいの大きな声で叫んでいたのである。(本当にこの時までは自分がこれほど気が短いとは知らなかったのである。)後悔先に立たず、その場ですぐ「ごめん」と言うべきであったが、彼女の顔を見れば涙目ながら相当怒っている。それも当然なのであるが、その顔を見ると素直に謝れなくなってしまった。近しい者への対抗意識というか甘えもあって素直になれなかった。

 74歳にもなって未熟なままの情けない老人のお粗末なお話しでした。お笑いください。
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