禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

去るものは去らず

2022-09-24 06:47:20 | 哲学

 「去るものは去らず」とは、古代インドの哲学者龍樹(ナーガルジュナ)の著書「中論」の中に出てくる文言です。龍樹は大乗仏教の祖ともいうべき人で、大乗仏教の広まった地域では第二の釈迦とも呼ばれています。龍樹の思想の特徴は、あらゆる固定的な概念規定を否定するほどに、空観を徹底していることです。親鸞は高僧和讃の中で龍樹を次のように称えています。

     南天竺に比丘あらん
     龍樹菩薩となづくべし
     有無の邪見を破すべしと
     世尊はかねてときたまふ
 ( 龍樹に関する10首中の2首目)

 龍樹は、あらゆるものは相依性によって成立すると説きます。相依性というのは、「善があって悪がある、また悪があって善がある。」というように、関係性によってものごとが成立しているということを指します。それはなにものもそのもの独自によって成立しているものはない、つまりあらゆるものには自性というものがないということです。

 龍樹の考え方は西洋のロゴス中心主義とは全く正反対と言っても良いでしょう。プラトンは人間には人間の本質(イデア)が備わっていると主張します。人間はそれぞれ皆違っているのに、それぞれの人が皆人間であるということが分かる。それは人間のイデアというものがあるからだというのです。しかし、人間はこの世界の誕生とともに存在していたわけではありません。ながい進化の過程を経て生まれてきたことが今では明らかになっています。だとすると、それまでなかったものがある時点で生じたわけですから、最初の人間がなくてはならないはずです。問題は最初の人間の親は人間ではないということです。そのように考えると、人間と人間以外の境界が客観的に存在するとは考えにくいことが分かります。龍樹は「人間の本質は存在しない。人間はあくまで恣意的な視点から生まれるのである。」というに違いありません。

 一木彫の仏像を見てあなたは有難がるが、それは実はどの木の中にも存在します。仏師がそれを作り出すわけではない。もともとそれはあったもののはずです。仏師が周りの木を削って、空気との新たな境界面ができることによって、それは姿を現したに過ぎない。いわば仏像は木質と空間との関係性において成立しているのです。また、どんなに見事に見える仏像であっても、それはたまたまそのような生活様式を持つ人間の視点から見ればそのように見えるということにすぎません。シロアリからみればそれは依然としてただの木でしかないのですから。

 あらゆるものに固定的な本質がない、つまり自性が無いということは、仏像のような空間的に存在する個物に限ることではありません。「歩く」という動作について考えてみましょう。「歩く」ということを厳密に定義できるでしょうか。例えば、「片足ずつ交互に前に出して前進すること」というふうにしましょう。それで例えば、そのとき足を各々1ミリずつ前に着地させた場合、その奇妙な動作をあなたは「歩いている」というふうにみるでしょうか。「歩く」というのも、人間の生活習慣の中の関係性によって成立している概念に過ぎないことが分かります。そもそも、その「歩く」の定義の中の「足」、「交互」、「出す」、「前」といった概念も関係性の中で成立しているものなのです。私たちの体にある無数の筋肉、それらが動く方向や緩急は無限のバリエーションがあるのであって、「歩く」や「走る」を厳密に定義することは不可能です。

 以上が前置きでこれからが本論です。

 「去るものは去らず」という言葉はいかにも不合理なことを言っているように思えます。そこには深淵で神秘的な真理が隠されているようなニュアンスを感じますが、そのような受け止め方は龍樹にとって本意ではないでしょう。このことを理解するには、「中論」が書かれた背景を知る必要があります。

 偉大な仏教学者である中村元博士は「『中論』は論争の書である。」と言います。当時の上座部仏教(いわゆる「小乗仏教」)の中の有力な学派である説一切有部の学説に対する反論の書であるということなのです。説一切有部の中では「去るもの」も「去る」ということもイデア的に実在すると考えられていたのです。イデア的というのは、具体的な「去るもの」は多種多様にありますが、それらのどれでもない「去るもの」そのものとしての範型が、空間や時間を超越して独自に実在するということです。一種のプラトニズムですね。

 龍樹がかみついたのは、「去るもの」や「去る」という概念が「独自に実在する」という部分です。龍樹にしてみればすべては関係性の中で成立しているものに過ぎません。固定的概念が実在するという想定は、すべては空であるという仏教の根本原理に反している、と龍樹は考えたのです。

 「去るもの」や「去る」が各々別個のものとして独立に存在するという前提を受け入れるなら、「去るもの」と「去る」を組み合わせて「去るものが去る」と言えるのはもちろんだが、「去るもの」と「去る」の否定を組み合わせて「去るものが去らない」ということも言えるのでなくてはならない、というのが龍樹の主張です。
つまり、龍樹は「去るものが去らない」と言いたいわけではなく、そんなことが言えてしまう説一切有部の学説が間違っていると言いたいのです。

 龍樹は「一切皆空」という立場をとっていますので、「一切皆空」もまた空であるということから、自分からは独自の立論をしないという建前を取っています。だから、彼自身の主張として「去るものが去らない」などというわけがないのです。あくまで説一切有部の言い分を認めるならこのような不合理が生じる、という自己矛盾を指摘しているのです。

 禅をかじった人の中には、「去るものは去らず」という言葉を自分の到達した境涯にすり合わせようとする人が居るかもしれない。それで禅境が進むのなら悪いことではないのかもしれないが、哲学的見地から見れば単なる勘違いに過ぎないことを指摘しておきたい。「去るものは去らず」というような神秘的な表現をまともな言説として口にするのは、あまりいい趣味とは言えないような気がします。

(この記事は約6年前の過去記事に加筆修正を加えたものです。)

信州 姥捨駅から善光寺平を望む
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