禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

人間は所詮自分が信じられることしか信じない

2018-06-22 08:51:43 | 哲学

先日の記事、南師曰く、『仏教の要諦は、無常・無我・空・無記である』】 において、私は「仏典は指針ではあっても絶対ではない。仏教の原理になじまない教説は受け入れるべきではない」と述べたのであるが、それに対しあるところから、「あなたは自分に都合のいいところだけ信じるのか?」という問いかけを頂いた。

都合のいいところだけ」という言葉に多少引っ掛かるが、まあ大体その通りである。端的に言って、誰もがそうしている。「それは間違っている」と思いながら信じることなど誰にもできそうにない。仏教で重要な概念は「無常、無我、空、無記」である。その原理原則は仏典よりも優先されるべきであると私は考える。それに従えば輪廻思想は受け入れがたい、ただそれだけのことである。

仏典の全てをそのまま信じることなど到底できない、取捨選択があるから様々な宗派が生まれるわけである。日蓮ならば法華経、浄土系ならば浄土三部経を重要視するが、それ以外の経典はさほど重要視しない。親鸞聖人は自分の考えに沿って経典の(学者によれば、意図的な)誤読まで行っているとされている。

だからと言って、「親鸞の教えは仏教ではない」というようなことは言われない。彼ほど「無常、無我、空、無記」を理解している人はそういないからである。

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コメント (2)
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