無常とは「万物が生滅変化し,常住でないことをいう。」とある。虚心坦懐に世界を見つめればこれは当たり前のことである。それがなぜ恐ろしいか?
なんら固定的なものはないということは、何か形をとどめようという力というものが一切ないということである。すべては偶然であり過渡的かつ完成に向うということも無い。つまり、この世界を差配するものは何もない。それは実は当たり前のことなのだが、実存的な視点からその景色を見た時に恐ろしい様相を呈することになる。なんの根拠もない世界の中に、生身の身体を持ったこの私が存在することの恐ろしさである。
人は天罰を恐れると言うが、この世界が天罰の下るような世界であれば、実はそれほど恐ろしくない。天の意志に従って生きて行けばよいだけのことである。しかし、無常とは従うべき天の意志が存在しないということを意味している。ニーチェは「神は死んだ」と言ったが、仏教的世界には初めから神などいなかったのである。
哲学者の永井均さんが、「無常という概念は平板だ」というようなことを言っているらしいが、それはおそらく文学的無常観と言うべきものについて述べているのである。仏教的無常観は決して平板ではなく、底なしのニヒルとも言うべきものだ。
無常は決して明日の朝が来ることを保障しない。仏教者はそのことを諦観しなくてはならない。その諦観をえられた時、初めて朝の光の絶妙さを知るのである。
尾瀬ヶ原