禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

言葉ははたして通じているのか?

2018-06-17 10:22:16 | 哲学

「鳥が飛んでいる」と言ってみると、何かが言えたような気がする。聞いた方も確かになんらかの意味を受け取ったような気がする。しかし、言った本人は、トンビが螺旋を描きながら高く舞い上がっている光景を見ていたのだが、それを聞いた人は雀が枝から枝へ飛んでいる様子を思い浮かべていたのだ。

龍樹は、「一般的な鳥というものは存在しない」し「一般的な飛び方というものも存在しない」と言う。だったら、言語が通じていると思うのは一種の錯覚だろう。

受け手は聞いた言葉から自分の経験を想起しているのだが、それは発語者の意図と受けて自身の想起は全く無関係である。受け手はその言葉から独自に自分自身の経験からイメージを想起するのである。発語と受け手の解釈は明らかに断絶している。

私の観ている赤色は実はあなたの緑色かもしれないというようなことはよく言われることである。しかし、最近の言語哲学ではそんなことを言うのは無意味であるということになっている。

夕日を恋人と眺めながら、あなたは「夕日が赤いね」と言う。恋人は答えて、「そうね本当に赤いわね」と答える。素朴に考えて、この時二人は同じ「赤」を見ていたのである。「赤」という言葉の意味はそういうことだったはずだ。「赤」という言葉に関する二人の振る舞いを見ているかぎりいかなる齟齬も見られない。二人の間に「赤」の同一性を疑わせる要因はどこにもない。

現代言語学では、「赤」という言葉には赤と赤以外を区別する機能しかないという。つまり、「赤」はこの世界を赤と赤以外に分節する。言葉の内容そのものは問題にされていない。あなたと彼女の「赤」の同一性の根拠となるのは、あなたと彼女が持つ、それぞれの分節された言語空間の同型性にしかないのである。ここでは、あなたの意識の中にある赤のクォリアというものは全然問題にされていない。

ここで、私は言いたくなるのである。あなたが「赤」という時、「あなただけが感じることのできる赤の感覚を指示」しているのではないだろうか? また彼女も「赤」という言葉を聞いた時、「彼女だけが感じることのできる赤の感覚を想起」しているのではなかろうか? 実は言葉は通じていない。言語空間の同型性から奇跡的に現象的には通じているように見える、ということもできそうな気がするのである。

「言語というのはすべて私的言語しかない」という言い方はできないだろうか?

このアジサイの映像を言葉で切り取ることができるか?

コメント (4)
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