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禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

神様がいるのといないのとではどう違うのだろう?

2025-06-17 10:34:24 | 哲学
 日本人には無神論者が多いと言われるが、昔話に出てくる日本人は大抵信心深い人々がほとんどである。それは日本人だけではない人類に共通した普遍的な傾向である。それはわれわれの理性がそれを要求しているからだと考えられる。神を信じることは非理性的と考える人がいるかもしれないがそうではない、理性が無ければ神は必要ない。人間以外の野生動物はおそらく神などというものは信じていないはずである。
 理性は英語で reason と言う、日本語の理由もまた reason である。日本語に翻訳する場合は文脈によって判断しなければならない。とにかく理性は理由を求める、なにごとにも理由がなければ納得しないのである。「ものごとにはなんでも理由がある」と私たちは考える。人間理性のあくなき探究心は科学に目覚しい進歩をもたらし、現在の宇宙は138億年前のビッグ・バンにより生まれたというようなことまで分かっている。しかし、われらの理性はそれでよしとは言わない。なぜその時ビッグ・バンが生じたのかはまだ分からないからである。科学の解明に終了はない、理性はいくらでもその原因を遡及しようとするからである。いつまで経ってもこの宇宙が存在する根本的な理由は分からないのである。

 この世界の起源と並んでもう一つ大きな謎がある。それはその世界を眺めている私である。そもそも私はなぜ私として存在しているのか、それはいくら考えても分からない。その分からなさに対して折り合いをつけるために、あらゆるものの原因としての「神」というものが必要だったのだろう。言うなれば「神」というのは数学の方程式の中のⅩ(エックス)のようなものである。「神がこの世界を創造した」と「がこの世界を創造した」とは大した違いはない。

 話がこの段階にとどまるなら、無神論者と有神論者の世界認識には同じである。別の言葉を使いながら同じことを語っているにすぎないことになるからである。しかし、現実はそうはなっていない。「X」という記号ではなく「神」という言葉を使うことによってそれは言霊をもつようになるからである。言霊と言ってもその言葉自体が魂を持っているわけではなく、その言葉を口にする人間が勝手にその言葉に魂を吹き込むからである。本来、宇宙の創造者を「神」と名付けただけなら、神の性質は我々の想像を絶したものでありその具体的な性質は我々には何もわかっていないはずである。しかし、どの民族の神にも共通して人間的な価値観が投影されているのが現実である。だからたいていの神様は往々にして人間的な性格を帯びている。その性格というのも結局はそれを信じている人々の恣意的な考えが投影されているので、本来同じ神を信じているはずのキリスト教徒とイスラム教徒のあいだにも往々にして深刻な信念対立が生じるのである。宗教がたびたび大きな争いのもとになってきたことは歴史が証明している。神が単に「Ⅹがこの世界を創造した」というだけの関係代名詞「Ⅹ」であるだけならその内容は空疎である。ひとびとはそのようなニヒルな神にはとうてい満足できないで、無意識の内に自分の潜在的な要求を神に投影してしまうのだろう。たいていの神様は超越的でありながら人間性を帯びているのが普通である。

 神がいればそれを信じる人々はより心のどころができる。この世界統べるのは神であり、神の意志に沿うことが善であり美であり真理なのである。神の言葉を託された指導者にひたすら従っていけばよいということになる。

 では、神さまのいない場合はどうなるのだろうか? 次回記事でもう少し論じてみたい。

中田中央公園の花壇(記事内容とは無関係)
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