禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

輪廻説が仏教にとって不必要なわけ

2018-06-04 08:15:22 | 仏教

前回記事で「仏典は指針ではあっても絶対ではない。仏教の原理になじまない教説は受け入れるべきではない」と述べたら、「此れはしかし同時に、仏教(仏説)であっても自分が共感する部分だけを受け容れたら良いといっているのと同じ事の様にみえます。」という方がおられたので、少し言い訳しておきたいと思います。

前にも述べたように、仏典は多くの人の手によるもので仔細に見れば矛盾もあります。しかし、仏教は学問ではなく宗教なのだから、人それぞれの解釈があってどれが正しいとかいう断定はするべきではない、ということは理解できます。そういう意味で前回記事の「仏教の原理になじまない教説は受け入れるべきではない」とまで断定するのは言い過ぎだったかもしれません。南直哉師も「輪廻説は間違っている」とは言っていません、「輪廻説は仏教には必要ない」と言っているだけです。一切皆空を標榜する仏弟子は断定を避けねばならないので、そういう表現になるのでしょう。

しかし、アマチュア哲学者たる私は、輪廻説のネガティブさというものをもう少し強く訴えたいと思います。

輪廻説は生まれる前と死んだ後のことについて言及しているわけですから、これはもうはっきりと無記ということと背反しています。早く言えば「いったい誰がそんなこと分かるの?」ということです。それと、南直哉師は「輪廻説は仏教には必要ない」といいますが、私は「輪廻説を信じられる人に仏教は必要ない」と言いたいと思います。

仏教の動機というのは無常ということしかないわけです。無常というのは一切のものが常に変化しているという意味ですが、文学的には「人の世がはかないこと」と解釈されています。そのような詠嘆的なとらえ方も間違ってはいないと思いますが、実存的な視点からとらえるとこれはものすごく恐ろしい意味をもちます。すべては偶然的で無根拠であることから、自分が今ここでこのように存在していることの意味がわからなくなる。禅宗でいうところの大疑団です。そのような切羽詰まった状況があるから仏教が必要になってくるわけです。

輪廻説を信じることができる人は、おそらく神様を信じることもできるし、天国を信じることもできる人だと思います。そういう人には仏教は必要ないでしょう。権威がありそうな人に「あなたは必ず天国に行けます。」と言ってもらうのが一番手っ取り早いような気がするのです。

それと、私が輪廻説が嫌なのには理由があります。宿業論と一体になって詐話師のネタになりやすいというということです。なんの罪とがもない人に、前世の業とかなんとか云って余計な罪悪感を負わせる、というのはかなり理不尽なことと思うのです。

尾瀬ヶ原


コメント (3)
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