インターネットのSNS上で「空」について議論しているところがあったので、のぞいてみると次のような文言が目に留まった。
≪ あるとないとは同じことだと、仏教は言います。論理的には同じだと。だから、はじめから空なのだと。≫
この人にはこの人の言いたいことがあるのだろうが、「論理的」には明らかに間違っている。論理というものはあるとないの区別があるところに基盤があるのであって、その区別がないのなら論理の依って立つところはないのである。” 1=0 "を矛盾と言う。矛盾を一つでも許せば、その論理体系は無意味なものとなってしまう。
一部の人々は仏教を神秘的に語りたがる傾向がある。「あるとないとは同じ」というのは味噌も糞も同じと言うに等しい。あまりに大胆な物言いは、仏教を情緒的に解釈しているからではないだろうか、宗教が情緒的であっては良くないという意味ではないが、仏教における哲理というものはアバウトに語るような性質ではないと考える。一切皆空を「すべては空しい」というようなニュアンスで語るのもいかがなものかと思う。「すべてはまぼろしのようなものだから執着する必要はない。」というのもどうだろう? 「執着しない」ということは重要であるが、ありありとした現実を認識しながら、それをまぼろしであるかのごとく語るのはどう考えてもおかしい。
仏教はごまかしの宗教ではない。この世界はリアルである。悲しいものは悲しい、苦しいものは苦しい。それでも執着してはならないと説くのが仏教ではないかと思う。喜びも悲しみもうつろなものと受け止めるのは単なる病気、離人症かもしれない。
大船撮影所跡 (鎌倉市)