使い捨てと保身、という、いわばツノガキに、支えなくした社会、というタイトルである。それには、社会に支えがなくなったとき、正義もまた滅びる と主張する。筆者によれば、第1の敗戦はさきの大戦の、軍事的敗戦から、第2の敗戦はバブルの崩壊で、経済的敗戦があって、そしていま、安心と信頼の敗戦があって、それは第3の敗戦である、ようだ。大学の教壇に立って若者に向かって問いかける。人間は使い捨てか、それに半数が手を挙げた。政治家は使い捨てだと吐いたかつての小泉チルドレンのドン、その直後に、若者が我々だけではなかったと感じたという件があって、そのまた経済効率で人を計る社会が到来し、ふたたび、若者が答える、社会正義と内部告発の講義であった。それには、200人の学生がいて、名前を出して内部告発する、匿名で情報をリークする、何もしない、とのそれぞれの選択肢に、3人、15人、180人となって分かれた意見に、若者の社会正義についてのとらえ方に、保身を感じて愕然としたようである。 . . . 本文を読む
徘徊はうろうろとそこらを歩きまわることだ。散歩、散策を言い換えるような言葉だ。それが、認知症と徘徊となると言葉の意味が異なってくる。この徘徊をひとり歩きに言い換えようというものだ。徘徊往来のようすは眼にするままのことばだ。それが認知症の人のようすに当てはめると、どことなく意味もなく歩き回る問題行動の語となっていたらしい。かつて痴呆を認知と言い換えて10年になる。地方は英語のDementiaの訳語として明治末期あら使われてきた。痴呆にある語感が、その症状の実態に合わないということで、誤解を招くような言葉遣いにならないようにするため、痴呆症は認知症となり、普通の病気のひとつになった。いま徘徊を同じように言い換えてそのあらわすところを正しくしようという。ひとりあるき、外出、おでかけ、お散歩と、これはその歩き方にふさわしいのであろう。徘徊には、もとおる、さまよう、回るというように、それなりに風情のある言葉づかいであったのであるが、病気に対するみつめかたがかわるならば、言葉の影響はおおきい。。
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1107 浪江 未来開く児童の学び 伝統復興授業 世界に報告へ 名古屋「ESDユネスコ会議」特集 20141107
リードには、
古里の伝統文化を学ぶため太鼓の練習をする児童ら=福島県二本松市の浪江小で
東京電力福島第一原発事故で福島県浪江町から避難した子どもたちに、郷土の文化や伝統を伝える浪江小学校の授業が、今月十日から名古屋市で開幕する「持続可能な開発のための教育(ESD)に関するユネスコ世界会議」で紹介される、
とある。
トップ左の見出しに、JKビジネス補導対象 愛知県警検討 少女らに注意喚起 20141107
記事には、
女子高生がデートやマッサージなどのサービスを提供する「JKビジネス」に警鐘を鳴らすため、愛知県警はこれらの店で働く十八歳未満の少女を新たな補導対象とする検討を始めた、
とある。 . . . 本文を読む