表紙は詩人クラブ会員のお方の作品「大山千枚田」 闘病生活15年の後にご逝去されましたご主人様への思いを綴られました友人の作品。友人とは短歌教室でご一緒させて頂きました。
ご友人は千葉県詩人クラブ発行所として現在106名の会友のまとめ役としてご尽力されていらっしゃいます。
平成4年に夫が逝去後、当時のCSP千葉支社長のS様に会社にて迎えていただき、定年も延長して頂き61歳までお世話になることができました。
その当時ご一緒させて頂きましたお若い女性3名の皆様のご厚意を頂きこの度、支社長様を囲んでお食事会を開催して頂きました。
支社長様は今年90歳におなりと伺いましたが、とてもお元気に、美味しそうにグラスを傾けられながら昔懐かしく懇親を深め合う事ができました。
この度のお食事会開催は、8月16日の読売新聞に掲載されました私の記事を支社長様にお届けしました事と伺いました。
その後、支社長様は3名の女性の皆様に私の記事を送ってくださり、「久しぶりに会いましょう」と呼び掛けて下さったことをお伺いいたしました。
元経理の方は結婚されて渋谷区笹塚から、現在もCSPに勤務されているお方、お家の家業を継がれているお方のお三方様のおかげで
素敵なお店でのお食事会にあっという間に当時に戻り、思い出話に花が咲きました。
幸せなひと時を頂きましたことに改めて御礼を申し上げておりますところです。
下記の写真はお店のHPから拝借させて頂きました。
「波奈本店」はJR千葉駅から徒歩10分、和情緒に富んだ一軒家で、目の前で仕上げる鮮度抜群の鮨や和牛鉄板焼きに舌鼓。
全国各地から仕入れる新鮮な魚介や和牛を味わえる【波奈 本店】。
鮮魚で味わう鮨は、鮨職人の確かな技が光るにぎりや酒肴をご堪能いただけます。
漁港から直送された伊勢海老やヤリイカなどもおすすめです。
完全個室も備えた落ち着いた空間で、接待や会食、お顔合わせ、法要など、様々なシーンで大切な方と素敵なひとときをお過ごしください。
美味しかったランチの画像はお店のHPから頂きました 支社長様からは「備前名物 大手まんじゅう」他・ 皆様からも素敵な を頂きました。
支社長様から「晴れであれば宇宙ステーションを夜空に仰いでください」と頂きました。 あるお方の包装袋がクリスマス色でしたのでご紹介させて頂きました。
「きぼう」のある国際宇宙ステーション(以下ISSと呼びます)について簡単に説明します。(以下はネットより)
ISSは、地上から約400km上空に建設された有人実験施設です。
サッカーコートほどの巨大な施設が、1周約90分というスピードで地球の周りを回っています。
「国際宇宙ステーション千葉での見え方」(各地の見え方はネットで確認できます)
12 月 3 日(火)
17 時 16 分ごろ北西の低い空で見え始め、17 時 19 分ごろ北東の中ぐらいの空(51.9°)でいちばん高くなり、17 時 23 分ごろ東南東の低い空でみえなくなる。
12 月 4 日(水)
18 時 5 分ごろ西北西の低い空で見え始め、18 時 7 分ごろ南西の低い空(23.4°)でいちばん高くなり、18 時 10 分ごろ南の低い空でみえなくなる。
この度、亡き夫の親友の元駒澤大学教授・千葉県曹洞宗の寺院の代表を務めます河内 賢隆様から久しぶりにお手紙を頂きました。拝読しまして大変な宿題にビックリ!以下はそのお手紙です。
大変ご無沙汰しておりますが、その後、嘉子様をはじめご家族の皆様はお元気にお過ごしの事と案じております。
さて、少しややっこしいお話ですが現在、私の訳した「第二次世界大戦の捕虜日記」が国際的になっております。
ここに、その証拠写真や書類を同封いたしました。
つきましては、かって嘉子様に神谷町のオランダ大使館に御同行頂きましたことがありましたね。
お願いです!実は、その折の思い出を同封しましたはがきに3~4行で結構ですのでお書き願えないでしょうか。
実に、妙なご迷惑なお願いですが、是非ともよろしくお願い申し上げます。
2024年9月 吉 日
河内 賢隆拝
以上のお手紙に10年以上も前のことにどうしたものかと「お世話になりましたのにゴメンナサイ!」のお電話を申し上げましたが、
「あの時は暑かった夏でしたね」・「庭園での野外パーティの感想は?」などについてお願いします。に、しぶしぶお受けいたしました。
さあ~大変。ご招待の受賞時の本の名前は?頂いておりました本?などなどHPに調べましたら幸いにも記載事項に出会いました。
それは、河内 賢隆様が翻訳・出版されました『ビルマータイ鉄道建設捕虜収容所』で「日本翻訳文化賞」受賞の時のご招待でした。
お手紙を受領時は幸いにも書道月例作品の提出を済ませました午後でしたので、初めての貴重な経験の御礼を書くことができました。
河内 賢隆様
ご紹介の河内 賢隆様は夫の親友でした。
夫逝去後も何かとお心遣いを頂き、ある時、河内様が翻訳・出版されました『ビルマータイ鉄道建設捕虜収容所』で「日本翻訳文化賞」を
受賞されました折のご招待に神谷町のオランダ大使館に同行させて頂きました有り難い思い出がございます。
はじめて訪問させて頂きましたあの日、まだ日中の暑さの残りました夏のある日の事でございました。
オランダ大使館と言う建物、素晴らしい庭園等、見るもの、聞くこと全て初めての経験に、ただただ驚き、魅入るばかりでした。
そして夕刻から開催されました大勢の招待客によります素晴らしい庭園での野外パーティへの参加、涼風を背に感じながら杯を上げましたこと等々
美しい沢山のお花に彩られた素晴らしい庭園でのパーティなど、夏のあの日に驚嘆を覚えました記憶がよみがえって参りました。
その節は大切なご招待の席に同行させて頂きましたことに心から御礼を申し上げております。
未熟な思い出に失礼いたしました。整いませんが御礼まで申し述べさせていただきました。
2024年9月 吉 日 〇〇 嘉子拝
HPに栗原 万修様 (駒澤大学ドイツ語の先生と伺いました)から河内 賢隆様へのお言葉を拝見いたしました。
(前略)
河内 賢隆先生はいろいろな翻訳をされていますが、特記すべきは、先生が翻訳・出版された『ビルマ-タイ鉄道建設捕虜収容所』(1993年、而立書 房、共訳)で〔日本翻訳文化賞〕を受賞されたことでしょう。
これは医療将校 ロバーツ・ハーディ博士の実体験の日誌を訳したもので、第二次大戦中、日本 軍が強行建設したタイとビルマを結ぶ鉄道建設のためにイギリス兵をはじめ連 合軍の捕虜を各地の収容所から連行して、
過酷な条件の下で一日16時間も働かせ、ついに1万6千人をこえる犠牲者を出したことで、戦後大きな問題となった例の事件の記録です。
そしてこれもビルマ・タイ鉄道建設にかかわる記録ですが、その後さらに先生が翻訳出版された『ウェアリー・ダンロップの戦争 日記』(1997年、而立書房、分担共訳)も750頁を超える大冊で、前訳書と同 じ
ように社会的に評価された記念すべき出版であったと言ってよいでしょう。
その綿密な訳文に先生の几帳面なご性格がよく現れていると思います。
(以下略とさせていただきます。)
著書に関係されました皆様のご紹介 本文の厚さは3.5cm。最終ページの758頁のご紹介 河内様から頂いておりました大切なご本です
この度をご縁に、頂いておりました上記の本を一気に読みつくしました。今でも世界では戦争の悲劇が続いておりますが、戦争で得るものは皆無です。一日も早い戦争の終結を願いますと共に戦争が起こした
日本人の残酷なさまざまに心を痛めながら二度と戦争が起こりませんことを祈りながら『ウェアリー・ダンロップの戦争日記』の読書の時間を過ごしました。
この度、ちば文化資産 千葉県香取市佐原 國指定史跡「伊能忠敬旧宅」のご紹介に
素晴らしいブログを綴っていらっしゃいます縄文人様から「小江戸・千葉県・佐原の旅」のご紹介を
頂きましたので素晴らしい佐原の風景をご覧いただきたく転載させて頂きご紹介させて頂きました。
縄文人様のブログより
小江戸・千葉県・佐原での出来事
日記帳から拾い上げた"いい話"
お茶のご馳走・接待・小野川河岸のむかし話をわかり易く
およそ遡ること14年、小江戸・佐原の菖蒲祭に行った時のことです。
小野川河岸のお店の方から大変親切な接待を受けた話です。
現地到着がとっても早かったので、個人散策の時間を設けた。相棒のKとさんと散策に出かけた。
"お茶一杯、旅の話が"人の心をこんなにも熱くした。
旅先で、こんなにうれしいことはない。
店先で相棒Kとさんと、店先の商品を見ながら赤米・黒米の話をしていたら、店の奥の方で奥さんが「お父さん、お客さん~・・・」の呼び声に、障子を開けて土間に降りて現れた御主人。
「随分早いね・・・・。お泊りですか・・・」の声に、会話がはずんだ。・・・・・・・・
「まだ早いし、どうぞ中に入ってお茶でも・・・、小野川河岸の昔話でもしましょう」と、快く椅子を拡げて招き入れてくれた。
時間は、午前8時前であったであろうか?(山登メインの会でした。したがって5、50集合・出発の早発ちです。早出早帰りが原則でした)
裏話、予定変更 (リーダーの決断)
群馬県利根・吾妻耶山 ➡ 佐原・菖蒲祭に変更
昨晩(17日)の雨が土砂降りで決断したのだろう。
雨の中の山行、特に岩場の登攀は危険である。
吾妻耶山(あずまやまさん)1341m.は、岩場が多い山である。
一時晴れ間も見えたが、午後から降雨で賢明な選択でした。
山行き変更から佐原に早く到着。
小江戸・佐原を歩く
油久商店 玄関先のお花がありました。
歴史について耳を傾けていると、お茶と梅干が出てきた。
(心の中では、見ず知らずの人が入り込んで、これは済まないことをしてしまったかと内心では気をもんだ・・・・)
お茶と梅干
ご主人の話を聴いているうちに、油久商店さんの昔のイメージが浮かんできた。
そして、小野川周辺の歴史が大まかに分かった。
とっても話し上手で、肝心のところは微に入り細に話された。
アヤメも見ごろだし、伊能記念館辺はしっかり見学してください…と念を押された。
油久商店主、後方には肥料が一杯。
煙草をふかしながら、話す素振りは、とっても参考になった。
大変お世話になり、帰りには、野菜の人参までサービスしていただき、感謝の極みですした。
自宅に帰り、油久商店さんの話題が食卓にて盛り上がりました。
「人には親切、やさしく」と、佐原での出来事を孫に話して聞かせました。
旅先で、このような人情の機微に触れると本当にうれしいものです。
旅が楽しくなることはもちろん、再度足を運んでみようかという気持ちになりました。
散策はとても楽しく、何よりも油久商店さんから受けた親切な人情とお茶が、私の心を熱くした。
そんな幸先の良い旅の始まりで、潮来花嫁さん(嫁入り舟)まで見ることが出来ました。
忘れる事の出来ない思い出となりました。
有難う御座いました。
(葛ハイの書類を整理していたら、
日記帳から”良い話”がこぼれ落ちた。)
お世話に成った御礼の小冊子
潮来花嫁さん
お世話に成りました、油久商店主
伊能忠敬旧宅(寛政5年(1793)建築・国指定史跡)のほか県指定文化財も8件(13棟)が小野川沿いや香取街道沿いに軒をつらねています。
◎ 帰り来て、丁重なる礼状と、手作りの佐原観光1周のアルバムを添えて発送した。有難うございました。昔々の話でした。
縄文人様素晴らしい記録をありがとうございました。
懐かしい佐原の旅に想いを致しました。
夏の京都は「川床」で粋に。涼みながら美味しい食事や趣ある景色を堪能しよう!
宣伝文言にありますように友人ご夫妻様は夏の京都を楽しんで参りましたと沢山のお土産の を頂きました。
しかしながら「川床」でお料理を頂いたことがなく、とても羨ましいお話に耳を傾けさせていただきました。
久しぶりの「八ツ橋」に有り難くお茶の友に頂いております
包装袋の方が小さくなってしまいましたが素敵な包みの「京都限定販売」の美味しいお漬物に感謝しました
日々是好日・スローライフ様のブログよりご紹介させて頂きます
東京都内で最も大きな自然公園
東京都立水元公園は、東京都の東部、葛飾区に位置し、
埼玉県(三郷市)に接している都内最大の水郷公園です。
園内は、豊かな森林の趣と貴重な水生植物を擁する水郷風景 です。
とにかく広い、当時の石原都知事が公園を訪れて、東京にもこんなに広い公園が、
在ったのかと、時の新聞を賑わしたコメントが載りました。
水元公園に行く途中、東京理科大学前通り
水元公園です。
釣り糸を垂れて、のんびりと・・・・。
睡蓮と水郷公園~この先はさいたま三郷です。
菖蒲まつりが園内で行われていました、多くの人出です。
広い芝生と樹林帯です。
あちこちに水路が施してあります。
メタセコイヤの下の緑蔭で楽しむ家族・・・。
大木の樹林帯です。
東京都立水元公園の素晴らしい景観に魅せられております。
是非訪ねたい!と思いながらなかなか機会に恵まれませんので私のブログに転載させて頂きたくお願いを致しました。
縄文人様からのコメントです。
広い広い水元公園です。
どうぞご自由にお使いください。まだまだ続きます。
良い画像が、ありましたらそれをピックアップしてお使いください。
okoさんが編集を仕直してください。
ブログそのものずばり、全体丸ごとでは・・・と
頂きましたが編集はできませんので最初の「水元公園」のご紹介をさせていただきました。
「まだまだ続きます」↑ に 水元公園、その2 も素晴らしい画像が紹介されておりますので申し添えさせていただきます。
この度の大切な記録は大切なブログの友人・縄文人様の
日々是好日・スローライフ(寅さんの柴又から発信)
から頂き、ご紹介させて頂きました。
WBC/朗希「特別な日」に力投
栗山監督「野球の神様が朗希に頑張れ、とメッセージを送っている」
佐々木が3・11に先発する意義
先発した佐々木朗(ロッテ)は、
3回3/2を投げ2安打1失点(自責点0)8奪三振の見事な先発投手を飾った。
力投する佐々木朗選手の勇姿
「風化させたくない。発信していかなければ・・・!!」
佐々木朗投手は当時小学校3年生。岩手県陸前高田市に祖父母、両親と3兄弟で生活していた。
2011年3月11日午後2時46分、同市立高田小で授業を受けていると、突然激しい揺れに襲われた。
しばらくすると海から1キロ以上離れた学校にも津波が迫るのが見え、
慌てて高台に駆け上がって難を逃れたという。
しかし自宅は流された。父親と祖父母を亡くした。
TV・ハイライト(3月11日放映)
岩手県陸前高田市で被災しプロ野球・千葉ロッテ佐々木朗希選手を取り上げた。
放送終了後4時間~~、WBC日本代表選手の先発投手として先陣を飾った。








TV・ハイライト(こま写真)は、昨晩TVからカメラに収めて置きました。
頑張れ!!佐々木朗希と思いながら・・・。

佐々木選手に大きな拍手を贈りたいと思います。



天から見守っているでしょう。
君の雄飛に 先ずは乾杯 (縄)
縄文人様、大切な記録をありがとうございました。
縄文人様のおかげで多くの皆さんにお訪ね頂きましたので保存させて頂きました。
短歌教室でご一緒の91歳 の先輩です
下記の美味しいチョコレートは未歩の高校合格の に頂きました
未歩ちゃんに画像をラインに送信しましたら「頂きにいきま~す」と10分後にお出ましになりました
娘2人にねぎ2本、大根白・赤各1本、白菜1個 人参2本 かぶ2個、サトイモ少々ずつを したあとですが赤い大根は初めて頂きました
カボチャは22日の冬至にお料理をして子どもたちに届けたく思いますので助かりました
ただ残念!大根、かぶの葉が切り取られていたことですが、かさばりますので仕方なく思いました。
日々是好日・スローライフ(寅さんの柴又から発信)様の素敵なブログを紹介させて頂きます
編む・作る・工夫する
年金生活者・後期高齢者の暇つぶし
材料の藤蔓(葛)
以下材料良し悪しの説明➡丸く束になり、ややみどりがかったものは1年物。
手前の太い葛(藤蔓は)は2年物です。
1年物は柔らかく編みやすいですが、製品後出来上がって網目が空いたり、
乾燥して細くなりあまり材料としてよくない、やはり2年物がしっかり出来ます。
籠作り
花かご出来上がりです。
基本的な編み方で簡単です。
中に真竹で花器を作り、花活けに如何でしょうか…!❓
目下、真竹を探しています。
丸形底バスケット
編み底、編み始め
(編み始めが平らに成らないので、緑の針金で固定した)
丸形底バスケット出来上がり
網代網バスケット
リンクを使った模様バスケット
中にリンク(編み芯)が、7本入って編んであります。
単なる編んだと言っただけで、形や変形の部分があります。
暇つぶし、老人は如何にして時間をつぶすかこれが一苦労です。
手先を動かしていると無心になります。
私の「あけび」の記事をお訪ねいただき
果肉より私は蔓が欲しい成り
籠を編んだらいい味が出る(縄)
とお詠み下さいまして籠作りの記事を拝見させて頂きましたので素敵な芸術品の数々をご紹介させて頂きました。
泳いでいる様子が涼しげですね 病に伏しておられる男性の友人から「珍しい葉書ですのでお届けいたします」と
未歩ちゃんの快復を喜んでいただきました この度の切手は千葉県の「館山城」
葉書、切手などにいつもお心遣いを頂いております
「千葉市のHPより」
千葉市では新型コロナウイルス感染症により自宅で療養されることとなった方に対し、パルスオキシメーターの貸し出し、配食サービスを実施しております。
各サービスの利用を希望される方は、下記により、利用申し込みを行ってください。
パルスオキシメーター 食事セット(例)
「対 象」
新型コロナウイルス感染症の検査で陽性と診断され、ご自宅で療養されることとなった市内在住の方。
※濃厚接触者の方は対象外です。
なお、濃厚接触者の方には、原則として不要不急の外出は自粛していただきますが、食料品等、日用品の購入を目的とした最低限の外出は可能です。
「申し込期間」
自宅療養期間(自宅療養の開始日から解除日の前日まで)
「申込回数」
1回まで
※ただし、配食サービスについては、自宅療養期間が延長された場合、状況に応じサービスを利用することができますので、新型コロナウイルス健康観察センター
(電話番号はお送りしたショートメッセージサービス内に記載)までご連絡ください。
「申込個数(上限)」
【パルスオキシメーター】 1世帯1個 ※すでに同居のご家族等へパルスオキシメーターが貸し出されている場合は貸し出しを行いませんので、ご了承ください。
【配食サービス】 1人2セットまで
「配達日時」
指定はできません。
現在、お申込みが急増しており、お申込みから配達まで5日前後を要しています。(以上は千葉市のHPより転載)
千葉県の感染者数も毎日の報道に多く、千葉市においても他人ごとではないと万が一のために上記支援物資について調べてみました。
頂けます事はありがたいと思いますが、昨今の感染者の拡大に支援物資の配達は申し込みから5日前後と、仕方ないと思います。
発熱外来の受け付けも難しい状態に、改めてかかりつけ医の大切さは勿論ですが、外出自粛、解熱剤の確保、食料の保存などがとても大切に思いました。
写真 ↓ にご紹介の食品は友人がコロナに感染して、自宅療養者に届きました実際の支援物資です。
7月に頂きました支援物資の量の少なさにビックリ!しましたと 最初の家族感染時の6月の支援物資
早朝に頂きましたので遅い食後に早速頂きました
今年も何時もお世話になっております友人から過分なプレゼントを頂き、漢検合格のお祝いを頂きましたようにとても嬉しく拝受させて頂きました。
友人もブログを見て頂いておりますので、こちらで御礼を申し上げさせて頂きます。大切にご馳走になります。有り難うございました。
猛暑の折にご夫妻様のご健勝をお祈り申し上げます。
比企の丘様 の 2014-06-13 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと より転載させて頂きましたのでご紹介させて頂きます
69年前の沖縄・・・海軍司令官大田実の打った電文・・・沖縄県民 斯く戦えり
その世界でも最も美しいヤンバルの海(沖縄北部)が壊されようとしています。

今日は6月13日、今から69年前の6月13日、太平洋戦争の日本本土の唯一の地上戦といわれる沖縄戦争で日本海軍沖縄根拠地隊司令官大田実少将が、沖縄本島豊見城村の海軍壕の中で自決した日です。その10日後の6月23日朝、沖縄南部の摩文仁の丘の壕の中で日本帝国陸軍第32軍(沖縄方面)最高司令官牛島満中将が自決、沖縄戦は終結しました。
大田実少将は少将は自決の7日前の6月6日、豊見城の海軍壕から海軍省の海軍次官宛に電文を打ちました。

本職 県知事より依頼を受けたるに非ざれど現状を看過するに忍びず 之に代って緊急御通知申上ぐ
県民は青壮年の全部を防衛招集に捧げ残る老幼女子のみが相次ぐ砲爆撃に家屋と家財の全部を焼却せられ
僅かに身を以て軍の作戦に差し支えなき場所の小防空壕に避難若き婦人は率先 軍に身を捧げ 看護婦烹炊婦はもとより
砲弾運び 挺身切込み隊を申出るものありひたすら日本人としての御奉公の護を胸に抱きつつ一木一草焦土と化せん
糧食六月一杯を支えるのみなりと謂う
沖縄県民 斯く戦えり
県民に対し 後世
特別のご高配を賜らんことを

※この電文はいくつか存在するといわれています。モールス信号によって発信され、それを漢字とカタカナの軍隊調文語体でタイプに打たれたもの。
損傷して判読できない個所や誤字もあるため判読して書き起こしたもの。米軍が傍受して英訳したものも残っているそうです。
上記の電文は2013年8月7日のTBSドラマ「生きろ」より書き起こしました。
大田実海軍司令官が、何を思い、この電文を起草したか、いま私たちが解釈することはできません。海軍省への電文ですが海軍の軍事作戦的なことに触れていません。
訣別の文として常套の「天皇陛下万歳」「皇国の弥栄を祈る」という文言も「辞世の句」も入っていません。
ひたすらリアルに盟友沖縄県知事島田叡に代わって沖縄県民の実情を伝えています。世界の戦史に残る例のない電文といわれます。
特別のご高配を賜らんことを
どういう意味でしょうか。
沖縄県人の矜持、尊厳を大切に守ってほしいということでしょうか。
比企の丘様おかげさまで大切な事柄を学ぶことができました。この度も誠にありがとうございました。
比企の丘様に 初夏の信州塩田平・・・戦没画学生慰霊美術館「無言館」と102歳の画家野見山暁冶 のご紹介のご了解を頂きましたので
転載させて頂きました。いつも貴重なご紹介を頂いておりますので楽しみに拝見させて頂いております。
5月14日、藤の花の花見に近辺の散歩。
上田市前山・・・独鈷山中腹の林道・・・標高660mにある塩田平パノラマ展望台から。

戦没画学生慰霊美術館「無言館」

1977年NHK出版から「祈りの画集 戦没画学生の記録」という画集を出版。
取材にあたっていたのは洋画家の野見山暁冶ほか。信州上田で美術館「信濃デッサン館」を開いていた窪島誠一郎がそれを読んで感銘、1995年の「槐多忌」に野見山を講師に呼び、会食の際に
「祈りの画集」の話題が出て、窪島は戦没画学生の慰霊美術館の設立を決意。
野見山を口説いて、その年から戦没画学生の遺族を訪ねる旅が二人三脚ではじまります。野見山75歳です。
以下は・・・2022年1月30日テレビ東京放映・・・日系スペシャル「野見山暁冶 私の履歴書」から・・・

戦没画学生の遺族を訪ね遺作をお預かりする旅は大変だったようです・・・詐欺のように見られたり。

それを着せてくれたお母さんの手が、ずーっと背中を触ったきり離れないんですね。
「あぁぁぁ」と思いました。
その一瞬で・・・「もうこれは僕がやるより手がないな」と。
苦労の末、1997年開館の運びに。資金は全国からの個人浄財により。土地は上田市が提供。


親子、兄弟、友人、恋人・・・
「あぁ 絵というものはこんなものだ そのなかに感情を没入してる」
「絵」は画こうとする相手を 愛していなければ画けません・・・窪島誠一郎「私たちの無言館」より。

★野見山暁冶・・・1920年福岡県飯塚市に生まれる。洋画家、東京芸大教授、名誉教授。
中学生のときから肺疾患、東京美術学校卒業、応召。満州に。肺疾患で入院、内地に送還され敗戦を迎えます。
一緒にいた戦友はどうなったか。
仲間を見殺しにして敵前逃亡したのではないかと・・・その思いがきっかけとなり、当時の絵を志した画友たちの絵を捜し歩きます。
比企の丘様、「無言館」について度々詳しくご紹介を頂いておりますことに感謝を申し上げております。
一度お訪ねしたく思いながら比企の丘様のご紹介を拝見させて頂くのみにもう訪問は無理?とも思っております。
この度は有り難うございました。