日 程 2011年(平成23年)3月5日(土) ~ 16日(水)(11泊12日)
参加者 44都道府県から 363名 (内千葉県参加者14名)
戦没者遺児が亡き父の戦没地を慰霊訪問したいとの切なる思いから、平成3年に実施して後、平成23年は20周年を迎えました。
これを記念して初めて 「洋上慰霊」 が実施され、千葉県代表として参加の機会を頂きました。
3月5日神戸港に集合して 「ふじ丸」 に乗船、「結団式」 を行い、正午に出航しました。
各地域で延べ13回の慰霊祭を行い、途中上陸したフィリピンでは友好親善の一環として小学校や病院を訪問して学用品や車イスを寄贈致しました。
3月11日 「東日本大地震発生」 時は 「サマール島北方洋上慰霊祭」 が行われております時と終了後に艦内放送で知ることとなりました。
艦内放送が頻繁にされるも、海上ではテレビ、電話すべてが不可、被災地の皆様は、不安を隠しきれずに掲示物を真剣に見入っておりました。
3月15日には最後の 「伊豆諸島近海洋上慰霊祭」 を行い、夕刻からは解団式及び懇親会を行い16日午前8時無事神戸港に帰港しました。
しかし、宮城県を初め、同乗された遺児の自宅が、家族が、被災されました事の情報に、新たな悲しみの慰霊の旅となりました。
下船しても東北地方は新幹線も走らず帰宅もできませんでした遺児の皆様に慰めの言葉も在りませんほどに被災された皆様に心が痛みました。
「洋上慰霊」 7474.7kmに及ぶ運行航路 お世話になりました 「ふじ丸」
44都道府県から遺児参加者363名 団長様を囲んで千葉県遺児参加者14名
千葉県より十四名の遺児われら面識無くも縁を思ふ 嘉子
3月11日 (金) 「東日本大地震発生」 については 「サマール島北方洋上慰霊祭」 が終了後に艦内放送により知る事となりました。
夕刻5時頃より船も大分揺れはじめ、廊下を歩くことがとても困難だったことが思い出されます。海上では、電話、携帯、テレビ 全て不可。
被災地の皆様の連絡には特別の配慮があったようですが、私たちはラジオから聞こえるアナウンサーの声に耳を傾け、事の重大さに誰もが心配、不安でしたが被災地とされる皆様はボードに
貼られた被災状況に泣き崩れるお方もいらっしゃいました。私達はただただご東北地方のご家族の皆様のご無事をお祈り申し上げておりました。
ボードにはられた記事の一部より
「洋上慰霊の三・一一を詠む」
「ふじ丸」に届く「東北に津波発生」南方洋上にすべなく聞けり
船内のテレビ・携帯すべて不可 短波放送を息こらし聞く
「ふじ丸」が揺れ始めたるは夕刻で洋上慰霊の人ら歩けず
次々にボードに貼らるる津波報に被災地の戦争遺児ら呆然
数万人の安否不明の記事に見る瓦礫の山は被爆せしごと
日本の実態は知れずサマール沖航行中に大地震(おほなゐ)に遇ふ
轟轟と白く立つ波星明かりに浮かべば命あるを思ふも
「落ち着いて行動せよ」と幾たびも亡父の声聞き死も想定す
三日後の父島通過に東北の甚大な被害を映像に知る
次々と伝ふる被害の映像は地獄図のごと戦争と重なる
私事ですが、2011年3月11日14時46分頃発生の「東日本大震災」時は、父が乗船しておりました「鳥海」の戦没地のサマール島北方にて「洋上慰霊祭」を執り行って頂いておりました。
そして「東日本大地震発生」時(時間差1時間遅れ)に千葉県代表として「追悼のことば」を奉読する機会を頂き、日本の被害状況を知ることも無く、父への思いを述べておりました。
しかし、「洋上慰霊祭」後の5時過ぎに揺れ始めましたと同時に「東日本大震災」の事実を館内放送に聞くことができ、だんだん揺れも激しくなって恐怖の日々の始まりでした。
そして翌日、3月12日の午前中、まだ激しく揺れておりました船上での「洋上慰霊祭」に東日本大震災の犠牲者のみ霊に黙祷と合掌を捧げました。
3:11を迎えます度に、初めて父への慰霊ができました喜びと、サマール沖航行中に発生しました「東日本大地震発生」のあの恐怖の日々を想いだします。
過去ログですが、3・11の状況を私自身が振り返るために記録しました。
「慰霊友好親善事業20周年記念「洋上慰霊」に参加して」
日 程 2011年(平成23年)3月5日 ~ 16日 (11泊12日)
慰霊友好親善事業20周年記念 「洋上慰霊」 に参加して (3-1)
慰霊友好親善事業20周年記念 「洋上慰霊」 に参加して (3-2)
慰霊友好親善事業20周年記念 「洋上慰霊」 に参加して (3-3)