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独り居の充実ライフを求めて!

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戦後80年 旧満州で起きた悲劇を公表「黒川の女たち」

2025年07月22日 12時14分09秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

                        戦後80年 旧満州で起きた悲劇を公表
                 「なかったことにはできない・黒川の女たち」とは。             
     解説・あらすじ

       戦時下の満州で黒川開拓団の女性たちに起きた「接待」という名の性暴力の実態に迫ったドキュメンタリー。

       1930~40年代に日本政府の国策のもと実施された満蒙開拓により、日本各地から中国・満州の地に渡った満蒙開拓団。
       日本の敗戦が濃厚になるなか、1945年8月にソ連軍が満州に侵攻し、開拓団の人々は過酷な状況に追い込まれた。岐阜県から渡った黒川開拓団の人々は生きて日本に帰るため、
       数えで18歳以上の15人の女性を性の相手として差し出すことで、敵であるソ連軍に助けを求めた。帰国後、女性たちを待ち受けていたのは差別と偏見の目だった。
       心身ともに傷を負った彼女たちの声はかき消され、この事実は長年にわたり伏せられることになる。しかし戦争から約70年が経った2013年、黒川の女性たちは手を携え、
       幾重にも重なる加害の事実を公の場で語りはじめた。


       そんな女性たちのオーラルストーリーを、「ハマのドン」の松原文枝監督が丁寧に紡ぎ出す。俳優の大竹しのぶが語りを担当。

       


      


      

      
                                                               ソ連兵に女性を差し出したおかげで帰還できた父親の息子さん

      


      


      


      


      


      


      
             犠牲になられた黒川の女性たちの「乙女の碑」が建立されました              「黒川の女たち」の映画上映を説明されましたテレ朝のアナウンサー

                                                             上映期間・時間などはお住まいの近くの映画館でご確認いただきたく存じます。

                                                    千葉市は中央区千葉劇場(043-227-4591)にて上映中です。
                                                        上映期間 7月25日(金)~31日(木)までは
                                                        上映時間 10:00~11:45
                                                             14:25~16:00
                                                             19:00~20:45
                                                         入 場  料 高齢者は曜日を問わず1200円・高校生は1000円
                                                         8月1日以降につきましては千葉劇場にご確認ください。    

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「白旗の少女」はいま・・・記憶をたどり写真をカラー化

2025年07月12日 16時32分16秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

                                         
                                                 米軍が撮影した「白旗の少女」=沖縄県公文書館所蔵

                           米軍に撮影された一枚のモノクロ写真がある。破れたモンペに素足の少女が、木の根に結ばれた白い布を掲げ、懸命に手を振っている。
                      後に「白旗の少女」と呼ばれるようになった比嘉富子さん(87)(沖縄県沖縄市)は当時7歳。戦野をさまよい、生き延びた遠い記憶をたどった。                            

                      1945年6月25日、暗いガマ(洞窟)に片言の日本語が響いた。
                      降伏を呼びかける米兵の声だ。その中には、ガマで出会った両手足がないおじいさんと目が不自由なおばあさん、そして富子さんの3人が潜んでいた。
                      いつもは優しいおじいさんが「これを結びつけるものを持ってきなさい」と硬い声で言った。おばあさんがおじいさんの白い ふんどし を手にしている。
                      富子さんは木の根を竿のようにし、しっかりと結んだ。
                     「それは世界で約束された安全の印。持って外に出なさい」。おじいさんがそう促した。でも富子さんは米軍に捕まれば殺されると思っていた。
                     「嫌だ。一緒に死にたい」とだだをこねると大声で叱られた。おばあさんも「早くこれを持ってお逃げ」とせかした。
                     「外に出たら、白旗を掲げるんだ。高く、まっすぐにだよ」。その言葉を背に出口に向かった。まず白布を結びつけた枝をそっと出す。
                      続いて顔を出して周りの様子をうかがう。 そして一歩、また一歩とガマの外に踏み出した――。
                                           以上は讀賣新聞報道より転載させて頂きました
                                                  
                                               以下は日テレ報道より頂きました

 
                               
                                            「白旗の少女」がカラー化されたお写真

            
                            撮影をされました元米兵 ジョン・ヘンドリクソンさんと43年ぶりに再会されました時の思い出の写真ですと。

            
                       助けていただいた「おじいちゃん・おばあちゃん」のことはとてもありがたく一生忘れることができませんと語っておられました。

            
                      撮影をされました元米兵 ジョン・ヘンドリクソンさんと43年ぶりに再会され、感謝を申し上げられましたお喜びを語っておられました。

            
                     お写真をカラー化するために広島テレビの 庭田 杏珠さんと「空の色は?」・「洋服の色は?」など何回も打合せを行いましたそうです。

            
                    カラー化されたお写真をご覧になられてビックリされながらもお喜びの 比嘉 富子さん、どうぞお元気にお過ごしくださいとお祈り申し上げました。         
         

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2025年度(令和7年)6月23日 沖縄戦没者追悼式(NHK放映より)

2025年06月25日 15時38分37秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

                         戦没者追悼式 沖縄戦から80年 「慰霊の日」合掌

                                  沖縄は6月23日(月)20万人を超える人が亡くなった沖縄戦から80年の「慰霊の日」で、平和の祈りが捧げられました
                                最後の激戦地となった沖縄本島南部の糸満市では、正午前から沖縄県主催の戦没者追悼式が開かれました。 

                 

                                           素晴らしい詩を奉読されました小学校6年生 城間 一歩輝さんのご紹介

                                       

                                       

                                       

                                       

                                       

                                       

                                       

                                       

                                       

                                       

                                       
                                              城間 一歩輝さん素晴らしいお言葉をありがとうございました

                                         

                  
                                 玉城知事のお言葉の一部です                         ご来賓のお二方様が献花を捧げられました

                                 
                                                         「平和の礎」に参拝される遺族の皆様

                                    以下の写真は日テレが取材された「沖縄戦で散った生徒たち」の悲しい写真の一部ですが絶句しました。

                  
                                 このような幼い少年兵の写真はどのように保存されておりましたのでしょうか?とても残念!とても悲しいです。

                 

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2025年(令和7年)度 5月26日(月)千鳥ケ淵戦没者墓苑拝礼式

2025年05月27日 12時40分55秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

                                          
                                                          千鳥ケ淵戦没者墓苑
                                            (ネットより転載させて頂きました)
                                           日本国政府が設置した戦没者慰霊施設である。
                 日中戦争および大東亜戦争/太平洋戦争の折に[3]国外で死亡した日本軍人軍属民間人遺骨のうち、身元不明や引き取り手のない遺骨を安置する施設である。
                                    閣議決定「『無名戦没者の墓』に関する件」に基づき[5]1959年に創建された[4]
                                       政教分離原則により、特定の宗教宗派に属さない施設とされている。

                                            

                           2025年(令和7年)5月26日(月) 秋篠宮ご夫妻、千鳥ケ淵墓苑でご拝礼 368柱が新たに納骨   

                   千鳥ケ淵戦没者墓苑で開かれた拝礼式に参列された秋篠宮ご夫妻=26日午後、東京都千代田区(松井英幸撮影)
                                 千鳥ケ淵戦没者墓苑で開かれた拝礼式に参列された秋篠宮ご夫妻=5月26日午後、東京都千代田区(松井英幸撮影)

               先の大戦中に海外などで亡くなった身元不明の戦没者を慰霊する厚生労働省主催の拝礼式が26日、東京都千代田区の千鳥ケ淵戦没者墓苑で開かれ、秋篠宮ご夫妻が臨席された。
                                 福岡資麿厚労相の式辞と納骨の後、ご夫妻は納骨堂の前まで進み、深々とご拝礼。
                                   皇宮警察音楽隊の奏楽の中、遺族代表らが順番に献花し、祈りをささげた。
                             今回は、硫黄島などで収容された遺骨368柱が納められ、同墓苑の遺骨は計37万1008柱になりました。

                                
                                拝礼式には秋篠宮ご夫妻が出席されたほか、遺族の代表などおよそ600人が参列しました。


                                       

                 式では福岡厚生労働大臣が「いまだ多くの戦没者が各地に眠っていることも決して忘れず、1柱でも多くの遺骨が1日も早くふるさとに戻るよう全力を尽くす」と述べました。 
                 そして、遺骨の調査団が南太平洋のビスマーク諸島などから持ち帰った身元が分からない368人の遺骨が納められ、この墓苑の遺骨は37万1000人余りとなりました。
                    戦後80年となる中、国は遺骨収集作業を加速させていくとしていますが、国内外のかつての戦地にはいまだ、およそ112万人の遺骨が残されたままです。                                   

                                            以上はネットより転載させて頂きました。

                                    この度の拝礼式に千葉市遺族会からは女性の遺児2名が参列致しました。                                          

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千葉市立幸町小学校で「平和の語り部」授業を実施しました

2025年03月04日 06時00分00秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

                                              千葉市立幸町小学校で「平和の語り部」授業を実施しました

          令和7年2月25日(火)千葉市立幸町小学校(平澤典之 校長)の6年生を対象に、「平和の語り部」授業(テーマは「戦中の小学生と千葉空襲」)を実施しました。
       当日は、千葉市遺族会から宍倉会長、石橋・横田副会長が訪問し、戦前、戦中、戦後の小学生の生活の様子や、平和の大切さを大型のディスプレイを使用して、講話を行いました。
               これは、今年、戦後80年を迎え、戦争を直接体験した遺族の多くが高齢化し、戦時の記憶を継承することが難しい状況となっていることから、
            (一財)日本遺族会の元、 戦争の悲惨さ、平和の尊さを次世代へしっかりと伝え、伝え引継ぐことを趣旨として「平和の語り部事業」を実施するものです。
    この日の授業は、まず、千葉市遺族会宍倉会長が戦前、戦中、戦後の区分、小学校の移り変わり、小学生の生活などを、当時の社会情勢と千葉県内の状況を交えながら、視覚的に話をしました。

                        
                              千葉市遺族会宍倉会長が授業の内容をスライドに示しながら説明しました 

                        
                                   千葉空襲の状況をスライドに示しながら説明しました

             そして、社会科の教科書にも掲載されている「対馬丸事件」や、東京大空襲について、学童疎開での悲しい出来事として、児童目線で熱弁しました。      
              そして、後半は横田副会長、石橋副会長が、昭和20年6月10日、7月7日の千葉空襲体験者の作文を朗読し、当時の状況を説明しました。
                                      児童は、熱心に耳を傾けていました。
           この平和の語り部を通して、児童たちが、戦争は過去のものではなく、平和を守るのは自分たちの手にあると考えるきっかけとなればいいと願っています。
            遺族会は、いつまでも平和な時代が続くよう、これからも「平和の語り部事業」を継続して、命の大切さ・平和の大切さを伝えていきたいと思っています。

           この度の「平和の語り部」授業につきまして千葉市立幸町小学校を初め各関係部局からブログ掲載のご了解を頂きましたので改めてご紹介させて頂きました。               

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青森県 田中 恭子様 戦車に眠る父探してぺリリュ―島へ

2025年02月28日 06時00分00秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

                                                 
                         
                         

                        遺児の友人としてご厚誼を頂いております青森県の田中 恭子様はお父上の墓参に何度もぺリリュ―島へ慰霊巡拝にお出かけになられていらっしゃいます。
                                 この度は最後になるかもしれないと、ぺリリュ―島へ慰霊巡拝にお出かけになりました。
                                    
                                       この度の慰霊巡拝に詠まれました感動のお歌を紹介させて頂きます。

                                          父捜す三千粁の空路わずかなる期待に背のつばさ広げて

 

                  
                      10年前の慰霊巡拝には当時の天皇・皇后陛下のご訪問にご尽力をされましたことが読売新聞に掲載されましたので再度ご紹介させて頂きます。

                                                   
                                                   天皇・皇后両陛下ペリリュー島慰霊の旅に感謝                                   

                         
                                  2015年(平成27年)4月8日の新聞に平和を願う畑1800本持参の紹介がされました
                                     
                                             ぺリリュ―島に散華されましたお父上を偲んで

                                                   ひとたびも呼びしことなき「父さん」のこだまは渡る熱帯雨林を 

                                         弾痕のしるき戦車の手に熱し赤道直下の野に晒されて      

                                                 戦死せし父かと思ふ声高く頭上をよぎるパラオの島に 
                                   
                                   天皇・皇后両陛下ペリリュー島慰霊の旅に感謝2  2015年04月13日

                                    戦後70年に激戦地ペリリュー島で天皇・皇后両陛下が供花を捧げられました。

                                                         当時、お喜びを詠んだお歌

                                                 両陛下のご訪島決まりてペリリューは七十年の願ひ叶ひぬ

                                  両陛下にお言葉を頂きました田中様の胸中はいかばかりでございましたでしょうか。

 

                               以上、遺児・歌友としてご厚誼頂いております青森県の田中恭子様についてご紹介させて頂きました。                                                                   
                                        
                                                                 

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残酷な特攻兵器「伏龍(ふくりゅう)」を初めて学びました

2025年02月01日 16時46分47秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

                                     海底に潜み、敵の船を下から突く無謀な特攻の記憶 - Yahoo!ニュース

                                                  伏龍(ふくりゅう)」とは、
                                   第二次世界大戦末期の大日本帝国海軍による特攻兵器
                                         
「人間機雷」とも呼ばれる。
                
潜水具を着用した兵士が浅い海底に立って待ち構え、棒付き機雷を敵の上陸用舟艇に接触させ爆破するという特攻戦法のことである[1]
                                     (以上、ネットより転載させて頂きました)

                               
                                   
靖国神社遊就館で展示されている「伏龍」の模型

               以下は日テレより「証言 多くの若者が犠牲…特攻兵器「伏龍(ふくりゅう)」いまを戦前にさせない」より一部を紹介させて頂きます。
                        尚、証言者の個人名他などの転載はいけないと思いますので、HPをご覧頂けましたら幸いに存じます。
               この度、残酷な特攻兵器「伏龍(ふくりゅう)」について初めて知ることになりましたことに、戦争の悲劇を改めて学ばせて頂きました。
                       犠牲になられました多くのお若い兵士の皆様のご冥福とご遺族の皆様に心から哀悼の誠を捧げたく思います。

                            

                            

                            

                            

                            

                            
                               沼澤 聡教授が「伏龍」は想像できない悲惨さと語ってくださいました。

                                                       
                                 証言者はかつて訓練を行っていた「対潜学校」を遠くに眺めました。

                           「当時は訓練の様子が外から見えないように大きな幕が張られていました。」と語りました。

                              かつて「伏龍」の練習が行われておりました対潜学校」について(ネットより)

       ・大正期になって水雷学校では、魚雷部門と機雷部門に分かれて教育が行われてきたが、昭和15年に機雷部門を独立させる方針となり、昭和16年、久里浜に機雷学校を開校した。
       ・戦局の激化によって、敵潜水艦による被害の増大に伴い、対潜術や水中測的の教育が主務となり、名称も対潜学校に改めた。
       ・一部埋め立てによる広大な敷地には、庁舎や講堂、道場のほか、大量の学生を収容するため学生舎、予備学生舎そして兵舎、浴場、酒保、烹炊所などが立ち並んでいた。建物はほとんど木造であった。
       ・大戦終期には、延焼防止のために建物が間引きされるとともに、庁舎裏手の崖に碁盤の目状の大規模な防空壕が構築され、教室機能が移転した段階で終戦になった。
       ・終戦後、南方からの引揚に浦賀港が指定され、陸軍桟橋から上陸していたが、コレラが発生したことから、対潜学校に検疫所が設けられ、対潜学校の岸壁からも多くの方が上陸した。
        しかし、判明しているだけでも800名以上の方が亡くなり、敷地内東海岸に急遽火葬場を設置して、火葬にふされたという。刑務所の裏手には戦後建てられた供養塔が残されている。
       ・大戦末期には、水中特攻兵器である「伏龍」要員の養成が行われた。訓練は野比に2カ所設けられていた実習所で行われた。危険な兵器であったため、訓練中の死亡事故が多数あったようである。

                             
                               現在の美しい野比海岸ですが、かつて「伏龍」の訓練が行われた野比海岸です。
                           海の底で方角を見失い、岸へ戻れなかった隊員は、行方不明のまま、今もここに眠っていますと。 

        

                       現在まで多くの戦争の悲劇についての記事をご紹介させて頂き多くの皆様にご覧頂いてまいりましたが、下記はその一部です。   
                              
                          千葉県 松戸市PTSDの日本兵家族会「寄り添う会」開催に90人が参加しました      2024年12月23日
 
                                 NHK 戦禍の中絶 埋もれてきた当事者たちの“声”              2024年08月30日 
                                     
                                   NHK12月9日放送 ネタドリ! “戦禍の傷”                 2022年12月11日

                以上のご紹介を書きます時も手が震えましたことを思いだしておりますが、この度の「伏龍」につきましてはあまりにも衝撃的な内容に言葉がありませんでした。
                お訪ね頂きました皆様の中にはご存じでしたお方もお出でと存じますが、「いまを、戦前にさせない!」お若い皆様にお願い申し上げましてご紹介と致します。
                                                        

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作家 五木 寛之さん「昭和100年」を語る(読売新聞より紹介)

2025年01月13日 07時00分00秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

                         
                         
                         
                         
                          昭和ヒトケタ時代も残念!少なくなりました。五木寛之氏(92歳)のご活躍を願ってご紹介させて頂きました。

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令和7年度 終戦80年記念版「靖 国」のカレンダーの一部をご紹介させて頂きます

2025年01月11日 07時00分00秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

                         
                                                  令和7年度「靖 国」のカレンダーの表紙

                    
                                      昭和天皇御製 及び 靖国神社のお正月風景

                    
                                  上段は令和6年度歌会始御製御歌 及び 1月・2月のカレンダー

                    
                             上段は昭和20年10月靖国神社を参拝する人たち         昭和20年8月15日 皇居前
                    

                    
                                    上段は「終戦の詔書」 及び 7月・8月のカレンダー

        日本遺族通信 12月号の「声なき声」より一部転載してご紹介させて頂きます。
        2024年の重大ニュースと言えば何といっても「平和の語り部」事業が国に認められ、国から補助を受けて47都道府県遺族会と共に一致協力して事業を進めることになったことに尽きる。
        水落会長は「平和の語り部事業を永続的に行うことが、遺族会に課せられた社会的責務を果たす事」と語り、さらに「組織運営にも繋がる」として「青年部組織の結成、育成を第一に組織一丸となって取り組もう。」
        力強い決意表明をされ、新たな遺族会のスタートを切ったことでした。
        令和7年からは新たに「終戦80年からの組織強化3ヶ年計画」と「終戦80周年記念平和の語り部事業計画」が策定され、遺族会にしかできない事。
        それを実現する活動者を育成し、そして増えていく、遺族会の真価が問われる年を迎える。と

        「平和の語り部」は小学校の高学年を対象に、各教育委員会を通して各学校のご理解をいただきながらご希望に沿う内容にすべき行ってまいります。
        千葉市遺族会と致しましては今春早々に千葉市内の小学校のご理解を頂き「対馬丸事件」対馬丸 - Wikipedia につきまして資料を整えて発表の準備を進めております。

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千葉県 松戸市PTSDの日本兵家族会「寄り添う会」開催に90人が参加しました

2024年12月23日 13時10分09秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

                   2025年(令和7年)は戦後80年を迎えます。国民の約90%が戦後生まれとも報道され、昭和も遠くなりました。
            又、日本が残酷な戦争を経験したことをご存じない方もお出でになりますことの報道にも驚いておりますが、戦争は絶対に繰り返してはなりません。
                     遺族も高齢になり、年々減少しております。戦争の事実を語れる方は私も含めて間もなく皆無になります。

      又こんな記事を?と思われるお方もおいででしょうが、「語り部」の一人として尽力しておりますことをお許しいただきましてお目を通していただきたくご紹介させて頂きます。

                    お若い皆様方どうぞ、今後の長い人生が心豊かな戦争のない平和な日本が続きますことを切に祈念する者でございます。
                        戦争で得るものは皆無です。「戦争は悪・戦争は絶対にやってはいけない!」と叫び続けてください。

        先日、私が父を偲びました短歌に 医師!と名乗る方から「あなたいい年をして父乞うの激しさはおかしいぜ。医師の診察を」とコメント頂きました(再掲載です)

          今でも気持ちがおさまりません。このお方のお父さまがもしPTSDに苦しみ、そのご家族でしたらどのような感想をおもちか?お伺いしたく思います。    

            又、2022年12月11日 のブログにNHKにて放送されました下記の記事を保存してありましたので再度ご紹介させて頂きます。      

                                   NHK12月9日放送 ネタドリ!
                                  「“戦禍の傷” 親子に連鎖した苦しみ」
                                     太平洋戦争81年
          
           
       

     この度の新聞記事を拝読して又、NHKの放送を見まして国のために出征し、困難から無事に帰還されましたことにご家族の皆様はお喜びになられたはずです。
     しかし、旧日本軍が「戦争への恐怖から精神病となる兵士は一人もいない」と主張したためにPTSDになられました患者は保護されることも無く放置されてきたそうです。
     そのために最大で約300万人の元日本兵がPTSDに苦しみ、家族ともどもご苦労されましたことを知りました。
     私の父はレイテ沖海戦に「鳥海」と共に昭和19年10月27日戦死とされてより後は父の良い思い出のみを信じて今日まで参りましたことを申し訳なくも思っております。
     帰還兵がPTSDに苦しみましたご家族だけではなく原爆の後遺症に今なお苦しむ皆様方のお心にご理解頂きまして「戦争は絶対やってはいけない!」と叫び続けてください。

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千葉市遺族会 靖国神社昇殿参拝へ

2024年12月14日 07時00分00秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

                                       千葉市遺族会代表者による靖国神社昇殿参拝

                                  日 時 令和6年12月13日(金)
                                  参拝者 宍倉会長・副会長2名


                           靖国神社境内の桜紅葉も散り果てし寸前の平日の静けさの中に迎えていただきました


         靖国神社昇殿参拝記念御朱印                   靖国神社限定販売の美味しい「銘菓 白鳩の願い」をお土産に購入


         昇殿参拝を済ませて帰路に見る美しいさくら紅葉              宍倉会長と副会長の帰路のお姿と前方の道路の両側に見る美しい銀杏並木の紅葉

           コロナ前は靖国神社境内及び千鳥ヶ淵の美しい桜を愛でながらバス2台ほどで、千葉市遺族会行事として昇殿参拝を行っておりましたが、
                          遺族も高齢化に参加者の減少を余儀なくされます昨今となりました。

            昨年からは会長の自家用車に副会長2名が同乗させて頂き、千葉市遺族会代表として多くの御霊に昇殿参拝を行ってまいりました。
                     この度は「遊就館は休館」の看板に見学することができませんことが残念でございました。

 

下記は昨年12月5日に昇殿参拝しました折の見学時の写真です。


     遊就館に展示されている回天一型改一。国内では唯一の実物。       「ゼロ戦」の愛称で親しまれた「三菱零式艦上戦闘機五二型」        三菱零式艦上戦闘機五二型の説明書                        

「回天とは」(HPより転載)
 先端に爆薬を搭載し、搭乗員が自ら操縦して敵艦に体当たりする水中特攻兵器。
 1人乗りで全長約15メートル、直径約1メートル。脱出装置はなかった。
 1944年8月に兵器として承認された。
 回天記念館によると17~27歳の106人の搭乗員が戦死した。


             三菱式零艦上戦闘機五二型の座席及び説明書   ↑                 ↑ 旧日本軍の高射砲などは元戦場のジャングルなどに残されたままと聞きました

戦後生まれの国民が90%になりました報道に戦後も遥かになりました。
戦争を知らない?と言うお若い方が居りますことに愕然としますが、遺族も高齢になりました。
お若い皆様には「戦争は絶対にダメ!」と、継承して頂きたく願っております。
現在、遺族会では日本各地において「語り部事業」を展開しております。
小学校の高学年を中心に講演会を開催して悲惨な戦争の事実を理解して頂きたく尽力しております。
この度の靖国神社参拝も戦争の悲惨さを理解して頂きたくご紹介させて頂きました。
多くの皆様にお訪ね頂きましたことに御礼を申しあげまして保存させて頂きました。

 12月15日(日)   981PV |588UU |3195579ブログ中 1186

 12月14日(土) 1044PV |598UU |3195535ブログ中   933
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ノーベル平和賞 被団協に授与されました

2024年12月12日 17時41分16秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

戦没者遺児として立場は異なりますがこの度までのご努力に敬意を表し保存させて頂きました。
尚、以下の写真・掲載文は読売新聞及NHK放映から拝借させて頂きました。        

        

 ノーベル平和賞の証書とメダルを手にする被団協代表委員の右から箕牧智之さん、田中重光さん、田中煕巳さん

                                                          
                   ノーベル平和賞の授賞式で講演する被団協の田中煕巳代表委員

          

          
           講演されました田中煕巳様は92歳とご紹介されましたが、とてもお元気に堂々と
           説得力のありました講演のお姿に心から拍手を贈らせて頂きました。
           大変お疲れ様でございました。

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千葉県遺族会女性部・青年部合同会議開催

2024年12月09日 07時00分00秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

                          令和6年度女性部・青年部合同会議開催次第                  

                 
                                 「平和の語り部事業について」
                  戦後80周年を目前にして、戦没者遺児等の戦争体験者の高齢化が進む中、
                 その体験した記憶を確実に次の世代へ受け継ぐことは喫緊の課題であるため、
                 これまで慰霊事業に参加した体験も踏まえ、戦争体験の記憶とあわせて次世代に
                 語り継ぐことで、先の大戦の記憶を風化させることなく、戦争の悲惨さ、平和の
                 尊さをつたえていくことを目的として令和6年度より実施。
                  具体的な事業内容としては、語り部の講話活動や座談会、朗読会などを行う。
                  

                  この度、ある小学校の6年生76名を対象に講演会が開催されました。
                  講師は「千葉県原爆被爆者友愛会」の有志の方が「腹話術人形 あっちゃん」を
                 紹介しながら講演会を行い、講演後に児童の皆様から寄せられました感想文が配布
                 されましたので一部を紹介させて頂きます。
                  お目を通して頂けましたら幸いに存じます。

                 「担任の先生より」
                      また、再び世界の平和の危機が訪れております今、今回のお話を聞くことができました事、
                     身が引き締まる思いが致しました。先人の方々の犠牲の上に今の平和がありますことに慣れて
                 しまっていました。日々、子ども達には平和の大切さを説いているつもりでしたが経験された
                 方々のお話とは重みが違うと痛感しております。
                  子ども達も真剣に話に聞き入っておりました。先ずは、自分の身近なところからの平和を
                 実現していきたいと思います。

           (以下は児童の皆さんからよせられました感想の一部です。)        
           

                       昼食後は昇殿参拝 ~ 千葉県護国神社清掃奉仕活動を致しました。
  
                                青年部の皆様の協力はとても心強いです

  
                                 皆様お疲れ様でございました
                  

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2024年度(令和6年)千葉県戦没者追悼式に参列致しました

2024年10月31日 22時00分22秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

                 “不戦の心新たに”千葉県出身の戦没者らを追悼 千葉県熊谷知事「平和の尊さ次世代へ」

               戦争で亡くなった千葉県の出身者らを慰霊する「千葉県戦没者追悼式」が10月31日(木)千葉市で行われました。
                     2024年で71回目を迎えた追悼式には、遺族や熊谷知事ら300人余りが参列しました。
            熊谷知事は、「戦争を経験していない世代が社会の9割近くを占めるいま、平和の尊さを次の世代に継承する責務を果たす」と誓い、
              日清戦争から太平洋戦争までの間に戦争で亡くなった千葉県出身者ら5万7000人余りに対し、全員で黙祷を捧げました。

                     続いて、生まれて間もない頃にフィリピンの戦地で父親を亡くした浦安市の大塚勝幸さんが、
                   「戦没者の無念に心を馳せ、不戦の心を新たに誓う」と遺族を代表して追悼の言葉を述べました


                               (以上はネットより転載させて頂きました)


                                                                            頂きました御供物です

      
       千葉県戦没者追悼式のご紹介をされました千葉テレビアナウンサー               会場が狭いことから千葉県下から遺族・来賓で320名の参列でした


             「青葉の森公園芸術文化ホール」にて挙行されました                       「式 辞」千葉県知事 熊谷 俊人氏


            「追悼のことば」遺族代表 大塚 勝幸様               式典の最後は熊谷千葉県知事を初め来賓、各市町村会長たちが献花台に花を手向けました
 

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昭和19年10月27日レイテ沖海戦に戦死の父の80回忌

2024年10月27日 17時37分41秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

        【レイテ沖海戦】1944年10月、日本占領下のフィリピン・レイテ島周辺海域で米国などの連合軍と旧日本海軍が繰り広げた戦闘。
                 日本の連合艦隊は「武蔵」など戦艦3隻、空母4隻、その他「鳥海」を含む艦艇多数が沈没。
                     約1万人が死亡し、連合艦隊は事実上壊滅。神風特別攻撃隊が初めて出撃した。

                             
                    「鳥海」は昭和19年10月25日敵艦隊と交戦中、敵艦の砲弾が命中し、航行不能となった。
                   警戒に当たっていた「藤波」が鳥海の乗員を収容の後魚雷を発射し鳥海は沈没した。

             「藤波」は鳥海乗員を収容し、主隊と分かれ別行動中10月27日敵航空機の大編隊と遭遇、善戦健闘したが、
                   被弾により火災を誘発しついに戦没し、僚艦が捜索したが1名の乗員も発見されなかった。

                             
                                     「鳥海」・「藤波」慰霊碑
            戦役者 鳥海830名・藤波130名、慰霊碑は佐世保海軍基地保存会の皆様により平成10年12月建立された。
                        以後、護衛艦「ちょうかい」が毎年慰霊祭を行っている。

         父は「鳥海」乗艦者960名とレイテ沖海戦に交戦中、昭和19年10月25日敵艦の砲弾が命中し「鳥海」が航行不能となりました。
                      生存者が「藤波」に収容されるも10月27日敵航空機の大編隊と遭遇し、沈没。
                父の戦死は公報が10月27日とされておりますことに「鳥海」船上ではなく「藤波」船上と考えられます。
                令和6年10月27日は父の80回忌を迎えますことに子供たちと千葉県護国神社に昇殿参拝を致しました。

       
                                 千葉県護国神社から頂きました御神酒・御朱印他

 

                           慰霊友好親善事業20周年記念 「洋上慰霊」 に参加して
          
                    
日  程 2011年(平成23年)3月5日 ~ 16日 (11泊12日)
                    
参加者 44都道府県から 363名 (内千葉県参加者14名)

     上記、初めての「洋上慰霊」に参加しましてから13年の月日が過ぎましたが、その折の「鳥海」戦死者960名中の参加者は田中艦長様のご子息様と私の2名でした。
          ご子息様が千葉県の私をお訪ね頂き「艦長の息子田中です。」とご挨拶を頂きましたあの瞬間は生涯忘れることができませんほどに感激いたしました。
「追悼のことば」を奉読にあたりお言葉の中に「お父さん、ただ今、田中艦長様のご子息様とご一緒しております。娘が喜んでおりますと田中艦長様にお伝えして下さいね。」と添えさせて頂きました。
 
           
          追悼式を前に「鳥海」田中艦長様のご子息様と父の好物を供えて    千葉県代表「追悼のことば」 を奉読中に大震災発生3・11を夕刻に知る

                           「鳥海」の艦長の子息に出会ひたり船上に交はす熱きあつき握手 

                            海底に今なほ眠るみ霊らにわが生の限り祈り捧げむ

   「田中艦長様のご子息様との今はですが」
    佐世保市にお住まいですが今年のお誕生日で97歳になられました。数年前に奥様をなくされ、お子様たちに支えられながらお一人でお住まいでしたが、安全のために昨年より施設に入所と伺っております。
    時々お電話をさせて頂いておりますが、お元気のご様子を嬉しく思っております。この度の読売新聞の記事をお届けいたしましたところ「お父さんの供養になりましたね。」と喜んで頂ました。
    令和7年6月に最後の「洋上慰霊」が実施されますが、田中様は「もう参加はできませんのであなたが代表して「鳥海」の戦没者にお参りをしてきてください。」とお言葉を頂いております。
    参加申し込みの結果は此れから発表されますが日々健康に留意をして是非参加をしたく考えております。そして田中様に良い報告ができますように尽力したく考えております。

    

 

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