牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

傷んだ葦を折ることも、ほの暗い灯心を消すこともなく

2016-07-17 19:18:48 | Weblog
マタイの福音書12::17-21 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。 「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。異邦人は彼の名に望みをかける。
争うこともなく、叫ぶ=犬のほえる声、カラスのなく声、酔客のどなる声やわめく声=ことで、相手を罵り罵倒する。イエス・キリストには、静かな力強い落ち着きがあります。それは言葉の論争ではなく、愛を持って勝利する人の落ち着きです。怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈る平和な人生を祈ります。
また、痛んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない。イエス・キリストの限りないやさしさと愛です。打つひしがれた者をさらに傷つけたり、ほの暗い燈心を吹き消したりせず、立ち上がる勇気を与え、明るく強い炎として輝かせてくれます。
イエス・キリストの救いは全世界全人類の希望です。その十字架上に釘付けられた両手は、全宇宙と全世界を抱き寄せる愛の御手です。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネの福音書3:16,17)
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝してます。

癒され元気に

2016-07-17 05:21:42 | Weblog
聖書の一言;ペテロの第一の手紙2:2―24 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
偉大な生涯を生き抜き、33歳の若いいのちを十字架に捨て、全人類の救いを実現されました。
自分から十字架の上で、私の罪をその身に負われました。16歳の時、そのことを初めて知りました。愛は自発的、頼まれてしたことでもなく、アガペの愛、無条件に愛。そのしるしは十字架にあります。
罪のない神の子として処女降誕され、罪のないその生涯を自らささげました。その結果、すべての罪を背負い、同時にそのことをアーメンと信じるとき、義のために生きる人生が与えられます。信仰の義人は生きるのです。雪よりも白く洗われたきよらかな人生が、現実となります。
同時に、キリストの打ち傷のゆえに、精神と肉体の病もいやされたのです。現代社会は、様々な精神疾患があり、肉体の病も数限りなくあり、病院に行けば病名が宣告され、食事もいらないくらいの薬が出されます。病人の仕事は薬をもらう事と飲むことです。
待ち時間は長く、診察はちょっとの時間です。
イエス・キリストは、信じる者のしるしとして、病人の手を置けば癒されると約束しました。
手当ということば通り、病むときに手を当てて、イエス・キリストの打たれた傷で癒されたと宣言します。
病む人は癒され、気持ちが病に勝ち、元気になります。交通事故で車椅子に乗せられ、大阪の教会へ行きました。可愛い5歳の女の子が、近づいてきて足に手を置いて、イエス様によって直るように祈ってくれました。この子はアルツハイマーで介護タクシーでやって来る88歳の高齢者にも手を置いて祈ります。先日訪問し祈った時、不自由な口を動かし、喜びを語ってくれました。今日も八尾市からご夫婦で礼拝参加です。
自分でも信じる者として、自分の痛むところに手を置いて祈ります。
すばらしいいやしが、精神的にも肉体的にも与えられ、もう病気ではない。病はあっても気は病まない、健やかな気持ちでハレルヤの日曜日です。
午前中は、富雄キリスト教会=奈良市富雄川西1-19-11で礼拝説教。午後2時から大阪市浪速区2-3-4、エリムキリスト教会礼拝説教。
神のなさることはみなその時にかなって美しい。ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝してます。