牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

心の貧しさの幸せ

2005-06-09 10:07:36 | Weblog
イエス・キリストの有名な八福の教え(山上の垂訓)の第一、マタイ5章3節。

 こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

 心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

 心の貧しさを知る謙そんな人は幸福です。 天国はそういう人に与えられるからです。

 Blessed are the poor in spirit,For theirs is the kingdom of heaven.

 貧しさは幸せの基準からずいぶん離れていることばです。しかし、イエス様は貧しさと心を結び付けました。心が貧しいとはどんなことでしょうか。リビングバイブルは、「心の貧しさを知る謙遜な人は幸福です」と訳しています。
 謙遜な心=へりくだり自分の弱さを知り、助けてくださいと素直に祈れる心です。幼子のような素直さで、神を求める心こそ貧しい心です。初孫が3月に誕生し3ヶ月目、ときどき抱かせてもらいます。その全存在は腕の中に委ねられ、何の心配もなく安らか微笑んだり、しばらくするとスッと眠ります。足を動かしたり手をつかんだりもします。
 お腹がすいたり、おしめが濡れたりすると泣きます。ママはすぐ世話をしあやします。「天の御国はおさなごの素直さで受け入れる人のものである」とイエス様は教えました。
 心の貧しさは自分の弱さを知り、欠乏を認識できる幸せです。その人の心は天国!どんなに成功しても、金持ちになっても、自分を誇らず謙遜に生きる人。永遠を確信し頼りにならない富や、自分の力ない頼らずに生きる幸い。そのような幸せを今朝から体験してください。



聞かれている

2005-06-09 10:06:55 | Weblog
朝日放送まで希望の声7月放送の録音に行きました。いつもは正面玄関前に駐車しますが、5時からパーティで地下駐車場へ。
 1973年7月に最初の話をしたので、いつの間にか32年目になりました。受付の美しく若い方たちが生まれる前から朝日放送に通っていることになります。
 32年前の5月、愛知県稲沢市の教会に行く途中,名神高速道路で木曽川を越えるとき、運転していた牧師が、「義之君。ラジオ放送をやってみないか?」と。
 当時、開拓教会で信徒も少なく、経済的にも苦しく毎月5万円の電波料は高額すぎました。また話しべたで赤面恐怖症・・・等々、できない理由が瞬間のうちに次々思い浮かび、「できないです!」と言おうとしました。言う前に、「一ヶ月くらい祈ってから返事してくれていいよ」とのこと。「できない。ムリです!」ということばを飲み込みました。あの日、できないと言っていたらラジオ牧師にはなっていませんでした。
 稲沢市の教会に着き、祈りつつ聖書を開きました。「見よ!」ということばがめにとまりました。

「わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた」(黙示録3:8)

 叩く前にもう開かれている!思わずアーメンと叫びました。ラジオ放送希望の声はその瞬間スタートしました。あれ以来31年間、電波料の支払いが滞ったことはありません。話の材料に事欠いたことももなく、風邪を引いたことすらありません。スタジオ録音ですが、毎週水曜日朝4時35ー45分の10分間
放送は続けられています。

 さまざまな問題に直面します。不可能に思えることの方が多い人生です。しかし、「だれも閉じることのできない門」が開かれているなら、前進するおとができます。不可能は挑戦となり可能となります。

 イエス・キリストの十字架のより、だれも閉じることのできない救いの門は開かれています。信じるだけで救われるのです。
 だれも閉じることのできない祝福の門が開かれています。イエス様は「わたしは門です。だれでもわたしを通って入るなら救われます。そして豊かな祝福を受けることができます。と言われました。
 イエス・キリストを心にお迎えください。

 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。黙示録3:20