牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

罪が赦される!ってどういうことか?

2005-06-27 06:20:35 | Weblog
2005年06月27日
罪が赦される!ってどういうことか?
 昨日は、今年上半期最後の礼拝。
 学院教会も富雄キリスト教会、大阪エリムとも新しい方々の出席もあり、いつもより多い参加者。堺エリムはいつもと同じメンバー。
 
礼拝説教は、イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じるとき、罪が赦され神のことなり、永遠の命が与えられ、天国に必ず行けるという単純なメッセージ。

 罪が赦される!罪には法律を破る罪、道徳的な罪、原罪の罪があります。
 法律上の罪は法律が裁き、拘置所や刑務所で罰を受けます。警察に捕まらなければ処罰はなし。
 道徳上の罪は、良心が裁き咎めを感じます。これも良心がマヒすると不道徳に生きても処罰はなし。
 原罪は目に見えませんが、すべての罪の源であり、全人類は神の前に罪人です。原罪は死後に神の捌きがあり、誰一人のして最後の審判から逃れることはできません。
 法律上の罪を犯さなかったとしても、不道徳を行わなかったとしても(そのような清廉潔白の人はひとりもいないと聖書は宣言しています)、死後に裁かれ処罰(地獄)を受けることが定まっています。
 
その原罪を赦すために、神は人となりこの世に来られ、自らの命を十字架に釘付け、原罪を背負う全人類の身代わりとなりました。
 自らの行いや修業では原罪を贖うことはできません。イエス・キリストの十字架が、全人類の上に重くのしかかっていた原罪を贖うのです。十字架に死に復活したイエス・キリストを信じるとき、原罪は赦され神の子とされ、永遠のいのち(長く続く命というより神の命)を持つことができるのです。
 決して滅びることのない天国に生きるいのちを無条件で持つことができる!これが福音(よい知らせ)なのです。
 宗教や道徳、哲学や科学、修養や修行努力で自分をきよめて向上させ、勝ち取る救いではありません。
 ただ、その十字架でなされた原罪の贖いに、「アーメン」と言うことで救われるのです。もう原罪の裁きは十字架上で終わっている!地獄行きの処罰はイエス・キリストが全人類に代わって引き受けられたのです。
 その処罰が終わった証拠は、キリストが死を打ち破り3日目に復活したことにより保証されたのです。
 「アーメンと言えば救われる!」のです。

 原罪(罪の源、原因)が赦され神のことなったので、実際の罪を犯さないように生きる力が与えられるのです。救われるために善行をするのではなく、救われ神の子になったので良い行いをする力が与えられているのです。
 復活のイエス・キリストが、「アーメン。信じます。私の心にお迎えします」と言った人の心にお入りくださり、その霊を生かし復活のエネルギーとパワーで満たしてくださいます。聖霊に満たされることを体験するとき、いのちに輝いて生きることができます。

 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──
 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
 
私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。エペソ2:1-10
 
 
 7月より12月、今年の下半期、神の子とされた喜びの中で、神を天地万物を創造された全能の神を、「天のお父様」として、豊かな祝福された人生を、天国の保証を与えられ(永遠のいのち)ているのですから、恐れないで輝いて前進したいものです。