狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

わが戦跡

2007-10-03 17:54:40 | 反戦基地

「わが戦跡」という表題ではちょっとばかり大袈裟であるが、実はこの写真に写っている近くの民家「農家」でボクらは、終戦の天皇の(いわゆる玉音)放送を聴いたのだった。

あれから60余年、今では、その近くが「ファミリー・レストラン」になってしまって、ボクはその駐車場に車を停め、当時掘っ立て小屋の飛行機修理工場を建て、なす事もなく終戦を迎えた場所を探しながら、約60年前の当時を偲んでいるところである。

 今でこそ、ラジオ放送が雑音が入っていて、よく聞き取れなかったとか、感泣したとか、種々の日誌や、回想録に見られるが、ラジオは普段よりよく聞こえたと思う。
 ただ、天皇のお言葉は、「何を言ったのか全く分からなかった」のが本音ではあるまいか。
 われわれは、30人ぐらいラジオの前に、何列かの縦隊に並び、この放送を聴いたのであるが、誰一人として泣くものはなかった。何のことだか、意味が分からなかったのである。

ただ、天皇のお言葉は若い澄んだお声で、(畏れ多いことだが)今の天皇のお声と比べ、神々しい厳かなお声であったことは間違えない…。 われわれ(中学3年生)が分からないのは当然で、時の中学校長が「何を言ったのがサッパリ分からなかった」と何かの本に書いてある回想談話を読んだことがある。 

 当時、この住宅地は、田圃か畑だったと思う。手前の草藪のように見えるのが、カットにした、裏山である。ここに掘っ立て小屋を建て、万力台を並べた。屋根は爆撃でやられた本廠から、トタン板を拾い集め、リヤカーで運んできて張った。オレは屋根に上ってコールタールを塗った覚えがある…。
 本土決戦は間近のような情勢だった。しかし戦うにも、竹槍すらなかった。

 沖縄戦争がどのように悲惨なものであったかは、想像に難くない。
 ここの技術士官たちですら、自決用の青酸カリを用意していたと聞くが、われわれは虜囚の辱めを受けない前に、無抵抗のまま、爆弾か、火炎放射器で死んでしまったであろう。沖縄の集団自決は、当時としては当たり前の考え方だった。
 また、軍紀などは無きに等しかった。「弾は前からばかり、来るんじゃねえぞ!」工場が停電になったある時、一人の工員が怒鳴った瞬間、同調の声が、大きなウエーブになって、真っ暗になった大型飛行機組立工場内に糾弾の叫びが谺したのを、今でも思い出す。
 終戦になって、ビンタをはることで恐れられてた、H中尉は部下の工員から、かなりの殴る、蹴るの「リンチ」を加えられた話を聞く。その後何回が当時の人たちの親睦会があったが、K中尉だけはとうとう姿を見せなかった。