狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

わが青春に悔いあり

2007-10-28 22:11:29 | 日録
(まえがき)
 今年から、町の任意文芸同好会(正式名称は“□□町郷土文学研究会”という学術的(?)グループの会)の同人誌のような、年刊誌の編集長に強制的(自分から、やっても良いとも云った事は確かだが…。)になってしまった。

 前任者は、ボクと同じ年齢、それも中学同級生の、A兄である。
 兄は、ワープロの、キーボードを叩くのは、遙かにボクよりも長けているが、機能引き出しについては、あまり関心がない。集まった原稿を(フロッピーにしたものも数点ある)、これを全部自分1人で、「一太郎」ワープロに打ち直したのである。
 出来た印刷物を、製本も手掛ける印刷業者に頼んで、格安な値段で仕上げてきた。
 執筆陣の原稿は、おしなべて長文である。
 その、編集、割付、ワープロ打ち込みを、第1号から第11号(平成18年度)まで、兄1人でこなしてきた。その労苦は推して知るべしである。
そして遂に今年から、一応ワープロ打ちが出来る、小生と交代したということになったのである。勿論、同好会の趣味の雑誌であるから、町からの補助金などは一切ない。
  
 執筆者は、何れも、定年を過ぎ会社を止めた人、お金持ちはあまりいないようだが(失礼!)、著書も多い方々が、数人いるので、文の内容も、いろいろに亘るが、長い文章を書くことに長けている方が多いのが特徴だ。
 






 閑話休題
 この写真は、元K海軍航空隊の正門跡と、下は荒れ放題になってしまった、兵舎、戦後その一部が、東京医科歯科大学の、地方名を付したK分院となった建物の遠景である。
 そのときの勤務医師であった、T氏の地方新聞紙への寄稿の切り抜きを見つけた。(年月不明)
 これは、医師でもあり作家でもあるT市在住J.S氏の著書に登場してくる、この航空隊にまつわる部分への感想文の寄稿の抜粋である。

このK海軍航空隊跡でK分院の診療が始まったのは 昭和21年12月、私が赴任したのは24年5月ですが、当直をしていた私のところに立ち戻ってきた友人が「よくひとりでこんな部屋に泊まっていられるネ。今、大谷(国道125線からK分院に通じる道路の分岐点)へ向かって車を飛ばしたが、俺も連れていってくれと後ろで声がするので、恐ろしくなって戻ってきたんだ」と話したことがあります。
 思えば戦時中、非業の死をとげた若い兵士もいたであろう。戦後は肺結核で病死したした患者も多かった。分院のここかしこ、こうした霊がさまよっているのではないだろうか?ここにも鎮魂歌(レクイエム)がなければならない。そうしなければさまよえる霊はいつも浮かばれまい、と友人は語ってくれた。
 平成9年(1997)3月28日午後3時から、K分院閉院式典を挙行するとの案内状が送られてきました。二内(第二内科)発生の地、A村大山(地名)の灯が消えてゆくのです。
 二内では当時、私と同時に赴任してきた、N.K先生、先任のN.K先生と三人の侍がO教授のもと肺結核症の治療にあたりました。20床にすぎなかったベット数も、結核患者が全国から集まるようになり、昭和29年には165床となり、活気あふれるk分院となりました。
 老朽化の激しい旧木造病棟などはとり壊されましたが、敷地内には、K航空隊時代のコンクリート製の指令本部や、ボイラーの煙突、錨(おかり)の紋章の入った消火栓などが当時の姿のまま残されています。かつてこの地で猛訓練をうけた飛行学生らは、操縦席からどんな景色を見ていたのでしょうか。
 上空から跡地を訪ねると、枯れ草に覆われた広大な敷地に当時の建物の配置がはっきりと見て取れました。練兵場のようにがらんと空き地になった分院跡の一角に、元予科練生らが同窓の戦死者の霊を弔おうと記念碑を建立しました。我々にとっても感無量なものがあります。
 航空隊の跡地の国有地10万2千平方㍍の跡地利用をめぐっては、複数の動きがあります。まだどれも具体化していないようであります。物言わぬ遺物たちは戦後50年を経た今も、草むらの中でひっそりと戦争の記憶を伝えています。
 この地を難渋の地といっている人もいるようですが、私はこのA村のよさをしみじみ実感しています。都会の雑踏から離れただけで、緑を楽しみはなの香りを賞で、小鳥の囀りに耳を傾ける生活がそこにはあります。手近に自然があるという事は現代では贅沢な部類に入ります。そう思うと、駅まで遠いとか、バスの弁が悪いとかはさほど苦にならない筈だと思います。
「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず、流れに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし、人の世もかくのごとし」
 このように、河川、湖沼、雨、霧、雪など水はさまざまに姿を変えて、人の心を動かし、来し方、行く末を考えさせます。このK湖もまた同じでしょう。…(略)
 


 実は今日、友人の車に同乗して、この元航空隊跡を一週してきた。そこには全国で2番目に大きく広い湖が広がっていた。
 航空隊内の格納庫から湖面への誘導路になった緩やかな傾斜のコンクリートの広場にはかつての面影があったが、湖面で、モーター付きボートによる疾走の風景は、この地でなくては見られまい。
 巨大な貸しボート会社がいくつも建ち並び、無数に近い若者たちの車で埋められていた。バーベキューを愉しむグループ、風力ヨットによるサーフィン。
 ラジコンによる模型飛行機の競技。
これを見ただけでも「わが青春に悔いありき」である。
初め、ブログのタイトルをこれと決め、若者たちの喜戯たる様子と、己の過去を比して書くつもりでいた。
 写真だけを貼り付け、後から文を入れる段階で、こちらの「一太郎」が耄碌し出した。修復に相当の時間を要した。
 従って、ー太郎ワープロでの練習文の転載となってしまった。
何回か読み返したが、誤字脱字不適切な文は何れも一太郎の所為
のみならず、小生の痴呆症もだいぶ進んできたとお察し願いたい。