狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

再び怒ブログについて

2006-01-24 22:47:25 | 怒ブログ
     
 畏ブロ友ましま氏から、小生のブログのカテゴリ゛怒ぶろぐ゛を題名にお借りして今日の記事を書きました。というコメントを頂いた。

「怒ブログ」というカテゴリは、今の時事問題の全てに適用できる、我ながら痛快な観念分類指標であると自画自賛していた。しかし、それに当てはまる小生の雑文は皆無といってよい。

ところが今日ましま氏が、
<在日中のゼーリック米国務副長官は「日中間の緊張について、日米中3カ国の歴史家による歴史検証作業を仲介する用意がある」ような趣旨のことを、日本政府要人に提唱したと伝えられる。まあ、こんなレベルの低いおせっかいをぬけぬけとよくいえたものだ>

と、痛快極まりない論評を述べてくれた。これが「怒ブログ」の本領でなくてなんであろう。
 そもそも小生の「怒ブログ」の原点は、故前田俊彦「ドブロクをつくろう」農文協にさかのぼる。
その内容の一部を紹介すれば、

☆今「ドブロクをつくろう」と何故か・・・・・・・・前田俊彦
☆酒税法は憲法違反である・・・・・・・・・・・・・小林孝輔(憲法)
☆自立・自醸。自給・・・・・・・・・・・・・・・・真壁 仁(詩人)
☆世界中で流行しだした酒つくり・・・・・・・・・・津村 喬(評論家)
☆酒と農耕文化―どぶろくに思う・・・・・・・・・・玉城 哲(経済)
☆穏健的ドブロク復権崙・・・・・・・・・・・・・・坂本 楠彦(経済)
という本である。

  まえがき
 酒の自家醸造が普及すればおおくの弊害がともなう、という意見がある。事実、以前から私の周囲の人にドブロクづくりをすすめているあいだに、しばしばそういう意見をきかされたものである。たとえば、飲酒量が多くなってアルコール中毒患者がふえるだろう、あるいは酒のうえの喧嘩がおおくなるであろうなどであるが、はたしてどうであろうか。

 戦時中の私の経験であるが、ある軍需工場で働いていた優秀な技術者が自分の仕事に疑問を持って酒びたりになり、統制がきびしくて容易にはてにはいらぬ酒をもとめてほとんど精神錯乱状態意になり、まさに典型的アル中患者であった。

そこで私は彼に酒を自分で作ることをすすめ、さすがは技術者である彼は小型の蒸留装置を製作して果実酒からブランデーをつくることに成功したのである。そして、まもなく彼はアルコール中毒から脱出した。これはどういうことであるかというと、彼は酒を飲むことの快楽をさらに酒をつくることの愉悦にまで拡大し、酒を飲むことは拡大された愉悦の部分にすぎないことの自覚に達し、必然的に節酒にみちびかれたのである。

理屈はこれとおなじではないかもしれないが、杜氏にアル中患者がいないことはよくしられた事実であり、また、阿片の産地であるタイ国チエンマイにはモルヒネ中毒患者がいないということにも注目すべきであろう。つまり、それを多飲すれば弊害があるから警戒を要するのは銭で買うだけの消費者にとってであって、生産者にとっては弊害について心配する必要がないということである。これは単に酒の門題だけではない。

にもかかわらず、すでにながいあいだ酒の自家醸造を禁じられているわれわれ日本人は、そのことがいかに人間の基本的な自由の抑圧であるかを感覚的にわすれており、その自由の回復が必ず日本人の文化の蘇生をみちびくという展望もうしなっている、ということがいえるだろう。

そこで私は不遜をかえりみず、“一国人民の文化の性格はその人民がどのような酒をつくるかによって素朴に表現され、また、その国人民の生産者的自由は自分がのむ酒は自分がでつくる自由の獲得からはじまる”という趣旨をのべて、ひごろ志の通じあっている諸氏に執筆を依頼してこの本ができあがった。

私個人にしてみれば、ながいあいだの念願がようやくかなえられたというものであるが、しかしまた、ここに、容易ならぬことがはじまろうとしているのでもある。あとはこの本よむ人たつの、自由と愉悦にむかっての決断次第ということになるであろう。

1981年3月         前田俊彦