狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

水野広徳について

2006-01-29 16:31:27 | 反戦基地
私の「水野広徳」という名前を知ったのは、改造社の所謂「圓本」『現代日本文学全集第49編「戦争文学集」からであった。戦後、古本屋で買い求めた1冊である。
この本の内容は、「肉弾」(桜井忠温「銃後」の桜井忠温・「此一戦」水野広徳の3篇で、前者は陸軍の旅順攻撃、後者は日本海海戦(皇国の興廃此の一戦に在り)の忠実なる実戦記録である。

巻末には、
「日本海海戦日本公報」(東郷連合艦隊司令長官報告)が11項目。その確定詳報が、周到綿密に、記載され、
さらに「日本海海戦露国公報」が、5項目、
「露帝とロ提督との電報往復・並びにネボガトフ少将の電奏文の、詳細全文」、
「日本海海戦感状」九篇
「日本海海戦戦死傷者人名表」まで添付されていて、戦争文学というより、完璧な「戦史」であると私は思っている。

『此の1戦』は著者が『軍事思想鼓吹によって得たる印税を以て平和主義を買ひ得たるのも佛家の所謂因果の輪廻であろう。』と述べているように、2回に亘る大戦後の欧州を見て、其の余の惨状に打たれ、反戦運動のさきがけになった兵学校出身の海軍大佐であった。

『最初の外遊は第3年目と第4年目とて、正に激戦の最絶頂であった。英佛伊等を巡遊して、現代文明国の戦争なるものがいかに大規模なものであり、これに比すると

 日露戦争の如きは子供の軍ごっこ(兵隊ごっこ)に毛の生えたくらいに過ぎず、

日本の如き経済要素に貧弱なる国は到底今日の戦争に耐えうるところあらざるを覚った時、僕は愛国的見地かより戦争を否認せざるを得なかった。』と記している。

今日本自衛隊の駐屯地のサワマは戦闘地域ではないとはいえ、隊員たちは戦争の悲惨さは具に検分しているものと思う。
なぜ日本の新聞は、ライブドア、耐震強度の偽装事件ばかりが、連日紙面の大部分を占めらて居るのに、イラクには反戦意識を守り立てるような状況下にはないのだろうか。願わくばそうありたいものだが、60余年前爆弾の恐怖におののいた日本国土のあの頃を考えれば、イラクに平和が戻って、民主的政府が樹立されつつあるなどとは、到底考えられない。

『此の一戦』から著者年譜を開いてみよう。
(前半は略す)
明治37年  2月、日露開戦、第41号水雷艇長として朝鮮海峡、並びに旅順方面の戦役に従事す。
明治38年  日本海海戦に参加す。
明治39年  海軍軍令部出仕を命ぜられ『明治三七、八年海戦史』編纂に従事す。初めて東京に居住す。
明治43年  『戦史』余暇を以て『この一戦』を書く。九月、第20艇隊司令に補され舞鶴に赴任。
明治44年  『この一戦』発刊。
明治45年  2月、佐世保海軍工廠検査官より海軍省文庫主管に転じ、再び東京に居住す。
大正2年  時局に鑑み日米戦争仮想記『次の一戦』を書きしも都合により発表を見合す。
大正3年  一友人の急迫を救ふ為『次の一戦』の原稿を寄与す。「一海軍中佐」の匿名を以て金尾文淵堂より刊行す。書中軍事と外交との機微(機密にあらず)に亘る点ありたるため問題となりて匿名発覚し、無認可出版の廉を以て謹慎を命ぜらる。問題の書として大いに読書界を賑はしたるも、同年8月、欧州戦勃発し日本も亦参戦するに及び、当局の対米外交上の意思を尊重し、刊行後3は月にて絶版とす。
十二月、『次の一戦』絶版の埋め合わせとして金尾淵堂より『戦影』(旅順海戦私記)を「一海軍中佐」の匿名(当局の認可をえて)を以て発刊す。此書は著者最も会心の作なりしも刊行の終末を詳にせず。書肆の店頭に殆ど其の姿見ずして煙滅したるは遺憾なり。
『日独戦史』編纂事業に着手す。」
大正4年~大正6年 (略)
大正7年  海軍大佐  
大正8年 一月、「大阪日々新聞」所載姉崎正治博士の軍国主義攻撃論に対する駁論を「中央公論」に載せ、大いに軍国主義の提灯を持つ。之より先数年来新聞雑誌等に屡所見並に評論を書く。
三月、友人の給費に依り再び私費留学を出願、認可を得、戦後の欧州視察に赴く。時に休戦後僅かに半歳、仏国の戦跡を訪ねては戦争の害毒を目賭し、独逸の惨状を見ては軍国主義の幻滅を覚忍し、思想の大転換をきたす。
大正九年 5月、帰朝。九月軍令部出仕。
大正十年  正月、「東京日々新聞」の依頼により新年『軍人心理』を書く。現役軍人の筆としては聊か大胆露骨過ぎたり、果然物議を生じ「上官の許可を得ず文書を以て政治に関する意見を公表したる」科に依り謹慎処分を受く。
謹慎明け後当局より再出勤の勧めありしも、軍隊は最早永住の境にあらざるを思い、現役引退を希望す。
八月、予備役に編入、軍服に永久の別れを告ぐ。
大正十一年 渡欧航海記『波のうねり』を金尾文淵堂より発行。
華府会議開催、尾崎咢堂翁等と軍縮運動に従事す。爾後軍事並に社会評論に筆を執る。

<水野広徳は1945年10月13日に腸閉塞発病。16日船で度重なる米軍による空襲で壊滅状態にあった今治に向かう途中に機関の故障で漂流、17日手術したが、翌日同市の別府病院で死去。享年71歳。

 敗戦直前の8月12日に一人息子の光徳(日本鉱業株式会社マニラ支店勤務中に招集される)が招集地フィリピンで戦死した(享年36歳)が、水野はこれを知らなかったという。

 敗戦後、彼が帰るのをただひたすら待ちわび、友人より送られた高価なウイスキー一本を、「光徳が帰ったら、一緒に飲むのだ」といって秘蔵していたが、ついに口を開けられないまま残された。そのウイスキーは水野49日忌の仏事の夜、ツヤ子夫人の手で開けられ、近親の人々の盃に注がれた。>遺稿自叙伝

―引用―  「著者の言葉」
(略)『この一戦』は可なりよく売れた。しかも実際に書物が売れた以上に評判が高かった。これが為め印税で5万円儲けたとか、10万円儲けたとか、途方もない噂さへ耳にした。

噂の十分の一にせよ、20分の1にせよ、兎に角僕に取りては予期せざる収入である。別に恥づべき悪銭ではないけれども、俸給をもらって居ながら内職稼ぎと言われては軍人気質が許さない。そこで富友から多大の補助を貰い、私費留学の允許を得て、戦時戦後の2回、西洋見物と洒落たのである。

 最初の外遊は第3年目と第4年目とて、正に激戦の最絶頂であった。英佛伊等を巡遊して、現代文明国の戦争なるものがいかに大規模なものであり、これに比すると日露戦争の如きは子供の軍ごっこに毛の生えたくらいに過ぎず、日本の如き経済要素に貧弱なる国は到底今日の戦争に耐えうるところあらざるを覚った時、僕は愛国的見地より戦争を否認せざるを得なかった。
 
 次回の外遊は休戦後僅かに半歳、恰も酔っぱらひが酔いの力で手当たり次第の皿小鉢を叩き割り、醒めて後頭抱えて悔やんでいる居ると同様、連合国民は5年の長年月に亘って自ら破壊つくした戦いの後を眺めて、戦争に勝ちながら後悔と疲労とに茫然自失して居る時であった。

僕はまず北仏の戦跡を訪ね、其の凶暴なる破壊、其の残忍なる殺戮の跡を見て、満目唯荒涼、満身唯悲哀、僕は人道的良心より戦争を否認せざるを得なかった。

更に敗戦の独逸に入り、人は藁パンを齧って栄養不良に痩せ、物は軍用に徴発せられて殆ど完物を見ず、往年世界を睥睨してユーバーアルレスを誇りたる独逸人の意気と独逸の繁栄今何処ぞと顧みたる時、僕は柔順に軍国主義侵略主義に幻滅を感ぜざるを得なかった。

 要するに現代の戦争なるものは、不幸にして負くれば国家民族の廃滅を意味し、幸いに勝っても子弟と骨肉の血を以て野草を肥す以外に、大衆の生活に寸毫の幸福を齎すもやらすものでないことは、欧州戦争が最も最も明確に、最も雄弁に之を立証して居る。

 外遊前数ヶ月、軍国主義の鈍刀を振り翳して姉崎正治博士(姉崎正治)の平和論に打って掛かった僕は、此に至って潔く兜を脱いで博士の軍門に下らざるを得なくなった。戦争の害毒、軍備の危険、軍国主義の亡国、是僕が2回の外遊に依って覚り得たる唯一最大の土産であった。

伯林滞在中、在留邦人の天長節祝賀会の席上 、僕は人類の幸福、世界の平和の為、軍備撤廃論を述べて同席の陸軍将校と深更まで論戦したこともある。露西亜のソビエート政府よりも僕の方が軍備撤廃の大祖かも知れぬ。
軍事思想鼓吹によって得たる印税を以て平和主義を買ひ得たるのも佛家の所謂因果の輪廻であろう。

此書は敢て凶悪なる軍国主義を鼓吹するものではないが、幾分なりと軍国主義や好戦心を刺激する嫌いがあるので、出版社の好意ある了解を得て数年来造反を停止していた居たのである。

然る処今回改造社から之を本全集に加えたいと云う交渉に接したので大いに躊躇はしたが、既に時勢も変わっている居るし、読者の思想も進んで居るし、今では単なる歴史的文学に過ぎないとの見解の下に之を承諾したしだいである。

斯様な書物が文学書として本全集に輯収せられる価値があるや否やは僕は知らない。唯併し明治より昭和にかけて蒼天の星の如く現れたる無数の書籍の中、此書も亦天の一隅に極めて微かな光の一糸を印した小さき流星の一として本全集に加へられたることを光栄とする。

何か著者の言葉を書けという命に依り与えられたる頁を駄言に汚すこと件の如し。
昭和3年12月初旬