狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

七花八裂

2006-01-09 21:24:35 | 日録
       
以前「楚人冠全集」についてこのブログに書いたことがある。しかし、最近は杉村楚人冠の名を知る人も少なくなってしまった。ブログには、コメントも、TBもなかった。我孫子市には「楚人冠公園」もあり、その近くに楚人冠が「白馬城」と称した杉村邸も現存する。ご子息の住宅になっておられるのではないかと思う。「杉村」という表札がかかっていた。
 近くの楚人冠公園は、我孫子市の文化財である。河村蜻山作の陶製の句碑が建てられてある。(参照)
   筑波見ゆ冬晴の洪いなる空に

<大正九年、中学国語読本(吉田弥兵衛著)巻2、その中に「戦地に使いして・楚人冠」という章があった。
 これは楚人冠が第一大戦後、朝日新聞社を代表して、ベルギー皇帝に日本刀を奉献した時のいきさつを書いたものである。その楚人冠というペンネームが珍しく、又意表をついたものだったので、特に記憶に残ったのである。

 しかしこの楚人冠がこの町に住む杉村広太郎氏(当地では杉村さんと呼ぶ)であることを知ったのは、かなり後のことである。ふちなし眼鏡をかけ、からだをやや斜めにして、さっ爽と歩く長身の姿は今でも眼前に浮かぶ。杉村邸から駅まで、徒歩約15分。警察署のわきを通って、県道を横断し、林組製糸工場(現在の石橋製糸工場)の黒い板塀にそって駅まで歩いていた。当時この町には乗り物といえば人力車が2,3台あっただけである。ほとんど毎日、東京の朝日新聞社に通勤されていたので、中学生であった私たちは駅でよくお目にかかった。

この頃我孫子から東京へ通う人は、学生を加えて10人といなかった。当時常磐線は本数も少なく、客車もひどかった。とくに成田始発の上野行きになると、ひどいものであった。それは、窓毎にドアのついた旧式の箱型で照明なども石油ランプによるものであった。むろん、自動ドアもなければ、自動連結機さえなかった。窓を開ければ、機関車の油煙が目に入った。(手賀沼と文人  秋谷半七 崙書房1978年)>

著者の秋谷半七氏は、巻末奥付によると、『1908年 千葉県我孫子町に生る。元、千葉県立葛飾高校教諭、現在位置川高校教諭』と書かれているから、現在なおご健在でおられるとすれば、100歳を超えられている勘定になる筈だ。

僕が楚人冠を知ったのは、やはり中学校のときの教科書からである。1年生の時使った、
≪国語 巻1 岩波書店 の『十八  湖畔 杉村楚人冠』≫が初めての出会いだった。頭注に杉村楚人冠 名は廣太郎 新聞記者 和歌山県の人 明治5年生まれとある。出典は「続湖畔吟」と記されていた。

「“霧”という副題でその書き出し部分は今でもよく覚えている。

<湖畔の秋がようよう半ばにならんとする頃、よく夕方から朝にかけて霧が一面に立ちこめる。
 昨夜も日の暮れから霧が次第に深くなって、折からの月の光も雲を隔てたやうに見え、野も山もさながら白紗を引いた趣を現したが、夜のふけると共に益々深く、これが木の葉にたまり、木の枝を伝わって、末つひに銅版ぶきの山荘の屋根にぼたぼたと落ちる音は、目の覚める毎に雨かと疑われた。…」

岩波書店でも教科書を作ったことがあったのだ。(昭和9年)この事については後日別タイトルで書くことにしたい。

さてその「楚人冠」というペンネームのことで、最近やっと其の語源が解けた。       
「人の言はく、『楚人は沐猴(もっこう)にして冠するのみ』と。果たして然り」
(「人言、『楚人沐猴而冠耳』。果然」:「『項羽は冠をかぶった猿に過ぎない』と言う者がいるが、その通りだな」)

杉村廣太郎は、アメリカ公使館勤務時代に、白人とは別の帽子掛けを使用させられるという差別的待遇を受けたことに憤り、以来「楚人冠」と名乗ったという。

沐猴=猿の類。―にして冠す。〔史記 項羽本記〕(故郷を懐かしんで中国統一の大業を疎んじた項羽を嘲った言葉から)猿が王冠をかぶっているように、所詮、人君には相応しくない人物だと言うたとえ。(広辞苑)

項羽①秦末の武将。名は籍。羽は字。下相(江蘇宿遷)の人。叔父の項梁と挙兵、劉邦を滅ぼして楚王となった。後劉邦と覇権を争い、垓下に囲まれ、長江で自刎。

ところで、もう一つわからないことがあった。

楚人冠全集第1巻は、「へちまのかわ」「白馬城」が収められているのだが、その「へちまのかわ」の序に
次の旧版「七花八裂」自序というのが巻頭にある。その「七花八裂」の語彙を和漢、漢和いずれの辞書でも引けなかった。

 <過去十三年間の悪文悪詩を蒐めて一巻となし、題して「七花八裂」という。
天下に誇り示す名作とては、一篇も之あることなしと雖も、収むる所は尽く是れ他が掣肘威圧を受けざる、我が独立の思想也。偶々其の語る所に、互いに矛盾せるものあるが如きは、畢竟著者の個性が、互いに相矛盾せるものあるに由る。

 文、文を成さず、詩、詩を形づくらずと雖も、此の書は是れ半点の修飾を加えざる著者が本来の面目也。追うて竟に及ぶことなき理想を追ひて、手負猪の如く突進したる著者が半生の浄裸々史也。之を公にして大方の清鑑を求むるは、敢て自ら負む所に非ず、唯狂人の病床日記を公にして、医家の参考に供せんとすると、其意を同するのみ。
   明治40年11月1日午前第1時東京朝日新聞編輯局に於いて
                         縦横杉村広太郎識す

「へちまのかわ」の例言によると、
<この書は、明治二十八年より今日に至るまで約二十年間に、新聞雑誌に掲げたる、著者の旧稿を集めたるものなり。其の一部は、嘗て発売禁止の命に接したる「七花八裂」中より取り、又一部は発行者の移動の為に絶版に帰したる「人語」中より取れり。云々>とある。

さて、最近新聞にこの「七花八裂―明治の青年 杉村広太郎伝」という本の出版広告が載った。(参照)大手出版社の本ではないが、「七花八裂」意味や、いま稀覯本(参照)となっている、「人語」を知る手がかりとなるかもしれない。購いたい心が躍っている。


イラク派遣の自衛隊員さんに「慰問袋」を送ろう

2006-01-08 10:08:08 | 反戦基地
    
寒い日が続く。国内での豪雪や、耐震偽装だとか、病院から生まれたばかりの男児が連れ去られたとか…。大凶ばかり続く「御神籤」のような新年である。

ところで、故国を離れて幾千万里、イラクに派遣さている兵士(自衛隊員は兵ではないのだ。と解釈してもダ!)の、状況や、そのご家族はどんな気持ちでこのお正月を迎えたのだろうか。
国内での除雪作業などの活動状況などは短時間ながら、テレビニュースで放映されるのに、イラクでの行動は、インド洋での海上自衛隊の、米軍への給油活動等、一向に国民には伝わってこない。

地球儀の緯度線で見ると、日本のだいたい九州南部あたりに位置する国だから、季候的には最高の住みやすいところなのだろうか。ご家族の心境は複雑なものがあるであろう。

私が小学生の頃、担任の先生は児童に前線の兵隊さんに、慰問袋に入れる「手紙」を書かせたものだ。私は綴方が割合得意だったから、その手紙を何枚も書いた覚えがある。勿論先生に言われたから、仕方なく書いたのではない。自発的な兵隊さんへのご苦労に感謝する文面であったことには間違いない。(慰問袋)

その返事が来たのを先生が、皆の前で読んで下さるのを聞いて、得意になったものだった。

「お便り有難う。兵隊さんは、お国の為に、天皇陛下の御為に、軍務に精励しています。キミ達も一所懸命勉強に励んでください」という型通りの返事が多かった。それでも嬉しかった。

私は中学に入ってからも学校側の要請で、慰問袋を送った経験がある。対米戦争が始まったばかりの頃は、まだ町には百貨店などがあって、初めてその店内に入って仲間と一緒の買い物を捜すことが許された。

普段中学生は、飲食店や百貨店、寄席・興行・映画館などに入ることは禁止されていたのである。慰問袋をつくるために、百貨店に行くのは特例だったように思う。

映画館に入れる特例は、学校推薦映画の鑑賞で、指定の映画館(当時は劇場といった)で、戦争映画に興奮したものだった。

余談になるが、『「決戦の大空へ」(東宝映画昭和18年)』などは、予科練練習生の慰安集会所となった民家の1少年が、病弱を克服して家族の激励を受けながら航空隊員を志す。やがて少年は海鷲の一員として出陣、赫々たる武勲を立てる―。 という粗筋だが、当時海軍の町T市にある私の中学校が、当然ロケーションの舞台となったのはいうまでもない。出演の原節子に憬れた思い出がある。

開戦当時は、「ハワイマレー沖海戦」「海軍」などは勿論学校推薦映画で、学校側は授業を潰してまで、隊伍を組んで、上映される劇場に繰り込んだものだった。

自衛隊には、広報部もあることだろう。テレビ時代に相応しいドキュメンタリー活動記録を製作放映して、イラクでの正月風景を国民に見させようとするような意見は出ないものなのだろか。

話が横道に逸れた。

今イラク復興のため、民主主義防衛のため、世界の平和を確立する為、天皇陛下ならぬ、コイズミや、コイズミの友人ブッシュの、命令乃至は要請で、お国の為に(国益いうのか?)故国を離れて、命がけの仕事をしていて下さっている自衛隊員さんに、「慰問文を送って、励ましてあげましょう」と児童たちに教える先生がいたとしたら、それは、いけない先生なのだろうか。

それはそうだろう、手紙を書くより、キーボードを打つ方が、送る側も受け取る側も、より有難いかも知れぬ。

家族間では頻繁なメールの交換も行われているだろう。しかし、どのような時代でも、年賀郵便はがきが沢山くると、嬉しいことは、先生自身がよく知っていることと思う。ブログだって未知の他人からコメントや、トラックバックされたら、如何に嬉しい娘とか。

されば、戦争反対、憲法法改正反対を叫ぶよりも、先ずイラクの自衛隊員さんに、メールでも良い、内地の様子を知らせる、慰問文を書かせる運動をしたほうが良いのではないか。大切なことだと思うのだが…。

戦争は二度と起こさぬ誓いの為、靖国神社に参拝したいと仰る小泉首相だ。
イラクに派遣されている、自衛隊さん向けの、特別ホームページを作って(ブログを組み込んでくれたら、尚更簡単に投稿できていい)、家族の声や国民の声、日本は戦争を二度とやりませんから、安心してイラク復興の為、世界平和のため隊務に励んでくださいと、小学校児童の作文を送ることに、反対する理由はないであろう。

何よりも早い無事帰国を待ちわびていらっしゃる隊員も、その妻子も、国民も、日本は戦争をやらない憲法のある国ですという、誓いを「慰問袋」というホームページに、慰問のメッセージを沢山送ってあげたら、国民と自衛隊との絆も大きいものになると思うのだが…。


賀状彷徨

2006-01-05 22:17:04 | 日録
       
今年は、交友関係も、それほど多くはないし、賀状を全部手書きで、しかも誰にもみんな違う文面で認めたいと思って、用紙の「お年玉付きはがき」も、売出し直後に100枚購って置いた。

当然年金以外収入のない懐からの、5千円也の支出は大きな負担であった。
だから、元旦に間に合うように、歳末に書くのではなく、元旦に来さそうな方への返信用に、予め去年の賀状名簿を基に、計算した枚数であったのだ。
     
戌年のこの元旦には、予想通り70枚の年賀はがきを頂いた。
さて、いざとなってみると、この返事を書くのは、当初の計画通りに行かないことを頭初から実感した。

ワープロ書きは、一行書くのでさえ、字を間違えたり、漢字を思い出すのに、辞書を引いたり、下書きを書くかして、文面を推敲しなければならぬ僕の作文への煩わしさは、一挙に解決してくれた。

ところが手書きとなると、たとえ
「謹賀新年 旧年中は大変お世話になりました。
今年も宜しくお願い申し上げます。
皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます」式に書いたとしても、

或いは、サインペンで
「迎春 今年もよろしく」と、元日から、書き始まったとしても、相手の郵便番号、住所、それに己の住所を書き加え、間違いがないかどうか確める必要もある。

不眠不休で作業を続けたとしても松の内はゆうに過ぎてしまうであろう。特に正月三ケ日は子供たちが集まって酒を飲む我が家の習慣がある。

これがパソコンは、名簿と文面と、はがきさえあれば、何百枚でも、酔っ払っていても間違いなく数分で出来上がるのである。

手書きでは、1日何枚も書けないことを、これほど痛感したことはない。第一、買ったはがきが、特別誂えなかったのに「インクジェット紙」なのであった。この紙は、写真の貼り付けには良いけれど、文面は毛筆ならともかく、万年筆で書くのには非常に不向きであるのを初めて知った。

結局は、返信も相手の文面を全く見ないまま、切羽詰って、2日の夜までに、とうとうパソコンによる同一文の返信となってしまった。

書き(作り)、終えて肩の荷を下ろしたところで、昨夜は初めてその差出人相手からの賀状の文面と印刷賀状の添え書きを読んだ次第である。

そして、僕はその中の1通に、否応なく釘付けされてしまったのであった。
消火器設備販売業の傍ら、旧海軍にとり憑かれてしまったY兄からの年賀はがきである。

兄は、例年必ず、数行にわたる、コメントの書き込欄の次に、1ポイント小さい活字で、昨年度の自分の出版書や、新聞への寄稿一覧、今後の執筆予定などの、抱負があるのに、今年は何もなかった。

活字印刷年賀はがきの文面は次のようなものである。

「謹賀新年
本年で馬齢を重ねて私は七六歳、妻は、七五才に達します。顧みますと若き日に志を樹て、将来像を見出すこともせず、意思薄弱なる故に唯々諾諾と六〇年余年の歳月を空費し、今日に至って了ひました。も早遅きに失し悔多く恥入るばかりであります。
本年を以って節目と考へ、来年からの年賀ご挨拶は欠礼させて頂きます。長きに亘ってのご厚誼に対しまして厚くお礼を申し上げ、ご尊家の弥栄を心からお祈りいたします。
平成十八年元旦」

宛名だけは、彼独特の細字の万年筆文字だった。

健康を損ねていることを直感した。 
兄は僕より一つ年下だ。万感無量、僕は今年喜寿を迎える年齢に達してしまったのである。

一旦義理一通りの賀状は出してしまったのだけれど、また既成品仕上げの賀状へのお詫びと、兄の健康のことを気遣う文面のはがきを、心をこめて認めねばならないと思ったのであった。

新春随想

2006-01-03 22:15:29 | 怒ブログ
   冬景色

 昨夜は大分冷えたと思って起きて庭に出たら、真っ白い素晴らしい霜の朝であった。
妻が居ない正月なので、昨夜は正月だというのに酒も控えた。そのせいが、一旦目を覚ましたら、まだ3時前である。この時間では、起きてよいのか悪いのか、いちばん迷う時間帯なのである。

溜まってもいない小便を垂れ、再び床に入ると、今朝だけは珍しくいつの間にか眠ってしまった。起きたのは7時過ぎだった。

眩しいほどの霜の朝の光である。
元朝と、とって代わってほしかったような清々しさがあった。

「霜の朝」という題で、昔の小学校の頃、国語読本で習った覚えがある。それを思い出すと、居ても立ってもいられず、文部省「尋常小学国語読本」(復刻本)を持ち出して十二巻の目次に目を通してしまった。再度捜しても見つからない。

「唱歌」だったかもしれない。インターネットで捜す。あったのは、「冬景色」だった。
正月三日、思いである冬景色を、朝から口遊んでしまった。

さ霧消ゆる湊江の
舟に白し、朝の霜。
ただ水鳥の声はして
いまだ覚めず、岸の家。

烏啼きて木に高く、
人は畑に麦を踏む。
げに小春日にのどけしや。
かえり咲の花も見ゆ

嵐吹きて雲は落ち、
時雨降りて日は暮れぬ。
若し燈火の漏れ来ずば、
それと分かじ、野辺の里。

数年前、
<正月の飲み屋に知らぬ他人と居て、歌詞あやふやの「冬景色」唱う  tani>
こんな歌を街の短歌会に出したら、歌会の老師はこの唱歌を思い出して絶賛してくれたが、
一般のおばちゃんたちは、「津軽海峡冬景色」だっぺ!と譲らなかったのを思い出した。



迎春2006

2006-01-01 11:02:15 | 日録

 

年の始めの 例とて
終なき世の めでたさを
松竹たてて 門ごとに
祝う今日こそ 楽しけれ。


初日のひかり さしいでて、
四方に輝く 今朝のそら、
君がみかげに 比えつつ
仰ぎ見るこそ 尊とけれ。(千家尊福作詞)