車椅子で卓球@渡邊剛

2013年より車椅子卓球をスタート。備忘録の意もこめてここにブログを綴ります。
内容は基本パラ卓球、時々食文化。

可能性と成長速度を考える

2019年10月09日 23時14分00秒 | 日記
出来ることをやり続けて、その幅を広げていくことと、出来ないことにチャレンジし続けて新しいことが出来るようになる。

成長として考えた場合、どちらの方が「成長」としてより良いのか?どちらの方が効率がいいのか?成長速度が速いのか?

ふと考えた。



僕のように障害を有する身体では、現代医学では不可能とされる動きも多々ある。

例えば、自分の脚で立つ、歩く、がそうだし、腹筋背筋という体幹もほぼ機能しないので、背筋を伸ばすことも出来ないし、それにともなう運動も「不可能」と言われる。

でも、一般的には出来ないことでも、実は、もしかしたら出来るかもしれない。

動かせない部分でも、もしかしたら動かせるのかもしれない。

「こういう障害だからこの動きは出来ない」

と、そこでセオリーの物差しで計っていたら、そこで限界を設定することになる。

脊髄損傷の僕には感覚のある部分と無い部分がある。

そこには境界線が存在する。



「その境界線を1mmでも下げられたら、それってすごい成長じゃねぇ?だから、トレーニングするのよ」



と教えてくれたのは車いすマラソン選手の同級生。

限界を設けない。

可能性に挑み続ける。

パラ・アスリートってそういうスタンスで取り組んでるんだな、と、2012年の暮れに学んだ。

だけど、そういう話をすることは僕のその後の競技生活では皆無だった。

だから、僕の思考やスタイルはアウトローなのかもしれないけれど(笑)



可動範囲を少しずつでも広げていけるようにトレーニングをすることは、決して簡単なことではない。

それとは別に、今までやったことの無い新しい動きに挑戦してみることもまた、簡単なことではない。

僕の場合は、体幹が効かないから身体が倒れちゃうとか、バランスをすぐに崩してしまって安定しないだとか、思うように出来ないことが歯がゆいのだけど、それを障害のせいにしてしまっていて、まず初めに、「(障害があるから)あぁダメだ」という挫折感に苛まれる。



でも、ホントにそうなの?

それは障害のせいなの?



と、最近では今まで以上に前向きに考えるようになってきているし、より客観的に考えられているようになってきた。

それはおそらく、自信の裏側に多少なりとも根拠を得たからなのでしょう。



基本的に障害を言い訳にしたくはないので、頑張れば出来る前提で考える(笑)

あるいは、やってるうちに慣れてくる!と、楽観的に考えることも多い。

実際、そうやって今までも色々やってきたし、それが経験則として自分の中に存在している。



ということで、出来ることは継続し、さらに出来るようになるために取り組んでいく。

プラス、新しいことにチャレンジし、それを自分のものに出来るよう努力していく。

どっちが早くて効率が良いのかは分からない。

でも、どちらも必要だと思う。

欲張りな僕は両方を狙い、手放さない。



最近も思い付きで新たなことを試みた。

数年前にやってみた時は「これは無理だ」と思ったこと。

でも、最近ふと「今の自分なら出来る」と変な自信が突如芽生え、チャレンジしてみたら案の定余裕で出来た。



さらにもう一つ、新たなステップを求め始めた自分がいて、そこへもチャレンジすることにした。



その二つは競技の為に日常生活の部分を犠牲にする行為でもある。

現に、その影響は身体面に疲労感として表れている。

でも、そこから得られるメリットを最優先したいし、今までは出来なかったそのことが、今では出来るようになったのだから、そんな自分に喜びを覚えるし、この疲労感もそのうち慣れてくるはず(笑)



車椅子になって間もない頃、無知であるがゆえに同様のことを当然の如く行い、最初は違和感や不安に苛まれたけど、しばらくするとすっかり慣れた経験を持つ。



何事も案外やれば出来るものなのだ。



車の快適さと機能性は相反するもの。

サスやクラッチなどがそうだし、エアコンなどの装備による重量の追加は操作性にも影響を与える。

車椅子にもそれは同じことが当てはまるし、ユーザーにとってその快適さを失うことは生活そのものの快適さに直結する。

でも、それを犠牲にすることで得られるメリットが存在している。

世間から「アスリート」として認められるには、ある程度の快適さは犠牲にして然り。

極端に例えるなら、F1マシンと乗用車の違いと同じ。

そう考えると、僕はまだまだ甘かった。

それに気づけて良かった。

台風一過から、全開でいく。