車椅子で卓球@渡邊剛

2013年より車椅子卓球をスタート。備忘録の意もこめてここにブログを綴ります。
内容は基本パラ卓球、時々食文化。

「共生社会」を考える

2022年10月03日 22時17分33秒 | 日記
先日、このことについてパラスポーツと関連付けてお話しする機会をいただいた。

「共生社会」と「パラスポーツ」を紐づけて、というか、くっつけて考えるのは簡単なこと。

人それぞれだとは思うけど、その2つには「障害者」という共通の絶大的なキーワードが存在するので、それを結びつけることはあらためてどうこう言うようなことでもないように思う。



じゃぁその「共生社会」そのものを、もう少し考えなきゃいけないんじゃないの?

と、講演を終えてからふと思った。

「共生社会」という言葉が独り歩きしていて、それを当然のように「理解しているつもり」になっているけれど、果たしてその内容とはいかに?一旦立ち止まりあらためて考える必要があるのでは?と思ったから。

なのでそれを綴っておきたい。

一応の備忘録として。



「障害者」をテーマに「共生社会」を考えた際、誰もが思い描くであろうイメージは「公平」とか「平等」とか「差別なく」といったものだと思う。

まさに「ノーマライゼーション」で、その根底には「障害者にも平等の権利を」という考えがあるからでしょう。

障害者の立場からすればそれは実にありがたい考えで、社会弱者にとっては心強く励みになるテーマであり、誰もが早期の実現を願うものだと思う。



でも、「共生社会」と「ノーマライゼーション」というのは、僕は少し違ってるんじゃないのかな?

と思うのだ。

「共生」のそもそもの意味をググってみたら、「異なる種類の生物が、生理的あるいは生態的に緊密な結び付きを保ちながらいっしょに生活している現象。(日本大百科全書(ニッポニカ)「共生」の解説)」となっていた。

で、「共生」はそこから更に細分化されていた。

まず、共生者の双方が生活上の利益を受ける場合は「相利共生」となるらしく、どちらか一方だけが利益を受けて、もう一方は利益も不利益もない場合を「片利共生」、一方は利益を受けてもう一方が不利益を受ける場合は共生ではなく「寄生」になるらしい。

さらに、「2種類の生物が単に同じ生息場所にすんでいる場合は共生とはいわない」のだという。

それを踏まえた上で「共生社会」を考えてみる。



今日本が目指す共生社会。

その中で障害者のあるべき姿とはどれがイメージされているのだろう?

社会に対して、僕ら障害者は「相利共生」の存在になれているのだろうか?

なれるかどうかは別として、でも僕らがそこを目指さなければ、本当の意味での共生社会にはならないんじゃないだろうか?

「私は社会弱者だから仕方ありません」では相利共生の関係は築けない。

相利社会の一員になれるように、誰かがそうしてくれるのを待つのではなく、自らがそうなれるように努力するのが本当の意味での共生社会なんじゃないだろうか?

自分達の権利を主張するだけでは不十分で、権利と共に責任と義務を負うからこその共生社会となるはず。

「片利共生」の場合、相手の忖度が無ければその関係は続かずに、いずれその関係は切られてしまう。

雇用の関係がそうだ。

不利益は生まないけれど、利益も生まない存在はゼロではなくマイナスに捉えられる。

どちらかが「してあげる側」でもう一方が「してもらう側」であり続けるのであれば、それは今求められている「共生社会」の本来の姿ではないように思う。

それは片利共生でもなくむしろ寄生になりかねない。

自らの権利を主張することが悪いことではない。

でも、権利を主張するのであれば自らが負う義務を果たせ。

義務を果たすから権利が認められる。

と、子供の頃に父から教わった。

共生社会の目指すべきは、正しくは「相利共生」のはずなのだ。

片利共生や寄生が許される関係であれば、おそらくそれは上下の関係。

強く言えばペットと飼い主のような主従関係であり、平等な関係ではなくなると考える。

繰り返すが、目指すべきはそれではない。

少なくとも、僕はそれは嫌だ。



じゃぁ、障害者の僕らは「共生社会」の実現に向けてどういうアクションを起こせばいい?

障害者の僕らはどうあるべきなのか?

そこをしっかりと見定めたうえで「共生社会」を訴えなければ、目指さなければ、気が付いたら誤った方向へ進んでしまっていたということになりかねない。

障害者がただ自分の権利を訴えるだけの「共生社会の実現」は駄々っ子と同じだと思う。



結論からすれば、「胸を張れる社会人であれ」ということか。

「自立」を目指して頑張っていく。

僕らがその意志を持って頑張っていかなきゃ、いつまで経っても社会におんぶにだっこのままだ。

大切なのは出来るかどうかではなく、そうやって頑張っていくかどうか、そういう姿勢であるかどうかにあると思う。

でなければきっと、障害を言い訳にしてしまう。

障害があるから出来ませんではなく、どうやったら出来るのかを考えて行動することが大切なんだと思う。

そういう障害者はかっこいい。美しい。

そういう障害者だからこそ、「共に生きていこう」と思ってもらえるはず。

そういう「人」だからこそ、応援してもらえる。親身になって助けてもらえる。

もし、頑張っているけど出来ないってことがあれば、そんな時は、何か困ったことがあれば、手伝ってもらえばいい。助けてもらえばいい。

そして、それに対して感謝の気持ちをきちんと伝えればいい。

逆に、相手が困っていれば何か自分に出来ることをして助ける。

ほんの些細なことでいい。

物理的に「何かしてあげる」のではなく、話を聞くだけでもいい。

それで相手が「気が楽なった」と言ってくれれば、それで十分に「助けた」ことになるし、「支えている」ことになる。

あなたの存在を感謝される。

そういうことは身体に障害があったって問題なく出来ることだし、そういう関係性は誰にでも築くことが出来るはず。

そこに障害は関係ない。

そういう関係が共生社会っていうんじゃないかなと思う。



知的障害や精神障害の場合はまた異なるだろうから一概に言えることではない。

でも身体障害の場合は大半がそう取り組めると思う。



「共生社会」の正しい在り方を今一度確認すべきタイミングなのかもしれない。

これから行動制限もどんどん解除されていき、社会がより大きく動き出すだろうからこそ、その前に確認しておかないと、この先で「あれ?」となるかもしれない。

共生社会もバリアフリーも、社会や健常者が障害者の為に動くだけでなく、障害者側からも同じ目的に向かって動いていかなきゃダメだと思う。

トンネルは双方向から掘ったほうが早く貫通する。

そのトンネルは誰の為?何のために掘ってるの?

そっちからは掘らないの?

それに対して、「障害があるから出来ません」と言われるのと、「出来るだけ頑張ってみます」というのでは、与える印象が全く異なる。

前者であれば、掘ってくれてる方々のモチベーションはガクンと下がって然り。

それが人間社会だと思う。



なんてことを考える。

僕を含め一人一人が出来ることは全体からすれば極々わずかなもので誰も気づかないような些細なもの。

選挙の一票と同じ。

でも、チリは積もって山になり得るのだ。

山は異次元から突然現れるものではない。

この世に存在するものが積み重なって形となるのが山なんだ。

ひとつのきっかけ、僅かな動きがやがて流れを作って大きな力になる。

歴史を鑑みれば革命と言われるものがまさにそのようだ。



と、自分なりに共生社会を考えてみる。

この考えは時間が経てば変化しているかもしれない。

社会の変化と共に大きく変わるかもしれない。

いずれにしても、自分のライフスタイルは変わらない。

信念を持って生きていたいと思う。

カッコいい障害者でありたい。

障害者っぽくないチェアウォーカーでいたい。



さぁ、これからの日本社会がどのように変化していくのか。

これは対岸の火事ではない。

私事として日々意識しながら、当事者として考えながら、毎日を過ごしていきたい。

そうやって常に感謝の気持ちを持って謙虚に真摯に活動を続けていく。

共生社会の実現の為に、微力ながら僕も頑張る。

僕の微力でも、それはここに確かに存在している。

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