脊髄損傷で一生車椅子生活。
自分の足で立つ、歩く、が出来ない。
側から見ればこの上ない分かりやすい障害者。
だけれど、僕の場合、両腕は普通に動く。動かせる。
指先の感覚も全く失っていない。
目も、耳も、口も、鼻も、そして頭(頭脳)も、障害を負ってはいない。
多分・・・(笑)
僕は事故の際に急性クモ膜下出血で耳からも血が流れていたらしい。
事故から3週間の記憶は全くない。
その後頭蓋骨内の血は2カ月間引かなかった。
記憶障害とか計算能力に障害とか生じているかもしれないからと専門医の検査も受けたけれど、幸い大丈夫だった。
ちなみに、他には両肺挫傷で事故直後の心肺機能は平均の10%しかなかった。
けれど今は回復出来ている。
病院のベッドで目覚め、現状を知り、そんな中で一番嬉しかったことは、「頭が生きている」こと。
記憶という「データ」を失わなかった。
そして、これから先も様々なデータを収集し、蓄積させることが出来る。
そう考えると、自分のその先の人生の可能性は何も変わらないし、僕はこれから先も成長していけるのだと思えた。
だから、一生車椅子という現実を伝えられても悲観することはなかった。
落ち着いて話を聞く僕を見て、それを伝えてくれた家族からは「拍子抜けした」と笑われた(笑)
とにかく、僕は車椅子生活という身体障害者になった。
けれど、頭に障害はない。
「考える」ことには何の障害もない。
健常者と同じだし、その上を行くことも可能であれば、そもそもそこにハンディキャップは存在しない。
身体にはハンディキャップがある。
であるからこそ、その分だけ頭をより使わなければならないということなのだ。
頭を使うことで身体のハンディを補うことも出来るはず。
もちろん100%ではないけれど、でも100%に出来ることもあるだろうし、場合によってはイノベーションを生んで200%となることだって大いにあり得る。
可能性はとんでもないスケールで存在している。
それが僕のようなチェアウォーカーなのだ。
その発想でパラ卓球を考える。
健常者と同じように身体を動かせない。
僕の場合、腕は動くけど体幹は利かないし足で踏ん張ったり体重移動も出来ないから、同じようにボールを打つことも難しい。
フットワークも同じように出来ないから、戦術面も同じように取れない。
どうする?
だから「頭」を使うのだな。
頭を使って「工夫」をする。
セオリーではないオリジナルを生み出せばいい。
それが僕の「スタイル」であって、それは人と同じである必要はない。
僕は本を読んで勉強することも、動画を見て学ぶことも、あるいは直接指導を受けて学ぶことも、健常者と同じように出来る。
そこで得た知識を自分にいかにフィードバックさせるか、それこそが頭の使いようなのだと思う。
例えるなら、普通は得た情報を足りていない箇所にブロックをはめ込むように出来るものだとしても、僕のような身体能力では同じようにはいかないので、そのブロックが収まるように、例えば角を削り取るとか、表面の滑りをよくするとか、敢えて隙間ができるようサイズを小さくし、補強を加えて固定させるとか、頭を使うことで問題をクリアする方法はいくらでも得られると考える。
ただ、考えてすぐに答えが見つかることもあれば、考えても考えても答えが見つからないものもある。
考えてみて、やってみて、やっぱりダメだった・・・となることだって多々ある。
だからどうする?
再度頭を使うのか、どう頭を働かせるのか、あるいはそこで諦めるのか、それこそがその人のスタイル。
人生の分岐点とも言える。
身体が動かせないから諦めるのではなく、頭を使って別の道を探ればいい。
それは何も身体障害者だけに課せられたものではなく、すべての人が共有していることだと考える。
そうやって、僕のような身体障害者は成長していける。
自分を磨いていくことが出来る。
でももしかしたら、同じことをやって健常者がcm単位で前進出来るところを、チェアウォーカーはmm単位でしか前進出来ないことだってあるかもしれない。
でも前進出来ることに違いはない。
車いすマラソンの洞ノ上選手は身長が低いので腕の長さも短い。
対して海外のトップ選手は大柄な体格が一般的で腕ももちろん長い。
だから、タイヤを回す能力に差が生じてしまう。
同じ距離を走るのにストローク数の差が出るという。
車いすマラソンを始めた当初は「その腕の長さじゃ無理だよ」とまで言われたらしい。
でも彼はそれをハンディキャップとは捉えていないし、そこで諦めていないから今の彼がある。
それこそがまさに「アスリート」だと思うし、その姿勢はフィジカルにも表れている。
僕らにはそうしたお手本までもある。
身体障害者だからこそ、頭を使う。
頭を使って、発想を転換させる。
イノベーションはいつでも、どこでも、誰にでも起こすことが出来るのだ。
・・・と、言うのは簡単(笑)
でも、そう考えるか考えないかで人生のベクトルは違ってくると思う。
行動に移る前に、頭で考えるだけでも違うと思うのだ。
なぜなら、人は時間に背中を押され人生という道を進み続けていて立ち止まることはないから。
その方向へ同じ距離だけ進み続けた時、考えた場合とそうでない場合、それぞれの位置は大きく違っているはず。
どれくらいだか進んだ先で「あぁ、自分の人生はそんなつもりじゃなかったのに」なんて思いたくない。
後悔したって人生という進んだだけの時間軸を後戻りは出来ないのだから。
・・・なんだ?
壮大な内容になってきたぞ(笑)
卓球ネタがないからこうなるのか?(笑)
ま、とにかく僕は頭を使って頑張っていくしかない。
考えて考えて、それでも答えが見出せなくて、でも考えて続けて、トライ&エラーを繰り返して、PDCAサイクル(ちょっと古いかもしれないけど)を続けていくしかない。
それが直接の結果に結びつくことが出来なかったとしても、その行動は財産となるはずだし。
何事も一生懸命という行動は財産になるし、それが自分を支える柱にもなる。
よし、まとまった(笑)
さぁ、頑張っていこう。
学ぶべきことは多々あるし、やるべきことはたくさんある。
その数だけ可能性がある。
楽しいじゃないか。
だからこそ、自己管理と感染対策をしっかり行い、活動を継続できるように気をつけていたい。
コロナよ早く解決されたし!
自分の足で立つ、歩く、が出来ない。
側から見ればこの上ない分かりやすい障害者。
だけれど、僕の場合、両腕は普通に動く。動かせる。
指先の感覚も全く失っていない。
目も、耳も、口も、鼻も、そして頭(頭脳)も、障害を負ってはいない。
多分・・・(笑)
僕は事故の際に急性クモ膜下出血で耳からも血が流れていたらしい。
事故から3週間の記憶は全くない。
その後頭蓋骨内の血は2カ月間引かなかった。
記憶障害とか計算能力に障害とか生じているかもしれないからと専門医の検査も受けたけれど、幸い大丈夫だった。
ちなみに、他には両肺挫傷で事故直後の心肺機能は平均の10%しかなかった。
けれど今は回復出来ている。
病院のベッドで目覚め、現状を知り、そんな中で一番嬉しかったことは、「頭が生きている」こと。
記憶という「データ」を失わなかった。
そして、これから先も様々なデータを収集し、蓄積させることが出来る。
そう考えると、自分のその先の人生の可能性は何も変わらないし、僕はこれから先も成長していけるのだと思えた。
だから、一生車椅子という現実を伝えられても悲観することはなかった。
落ち着いて話を聞く僕を見て、それを伝えてくれた家族からは「拍子抜けした」と笑われた(笑)
とにかく、僕は車椅子生活という身体障害者になった。
けれど、頭に障害はない。
「考える」ことには何の障害もない。
健常者と同じだし、その上を行くことも可能であれば、そもそもそこにハンディキャップは存在しない。
身体にはハンディキャップがある。
であるからこそ、その分だけ頭をより使わなければならないということなのだ。
頭を使うことで身体のハンディを補うことも出来るはず。
もちろん100%ではないけれど、でも100%に出来ることもあるだろうし、場合によってはイノベーションを生んで200%となることだって大いにあり得る。
可能性はとんでもないスケールで存在している。
それが僕のようなチェアウォーカーなのだ。
その発想でパラ卓球を考える。
健常者と同じように身体を動かせない。
僕の場合、腕は動くけど体幹は利かないし足で踏ん張ったり体重移動も出来ないから、同じようにボールを打つことも難しい。
フットワークも同じように出来ないから、戦術面も同じように取れない。
どうする?
だから「頭」を使うのだな。
頭を使って「工夫」をする。
セオリーではないオリジナルを生み出せばいい。
それが僕の「スタイル」であって、それは人と同じである必要はない。
僕は本を読んで勉強することも、動画を見て学ぶことも、あるいは直接指導を受けて学ぶことも、健常者と同じように出来る。
そこで得た知識を自分にいかにフィードバックさせるか、それこそが頭の使いようなのだと思う。
例えるなら、普通は得た情報を足りていない箇所にブロックをはめ込むように出来るものだとしても、僕のような身体能力では同じようにはいかないので、そのブロックが収まるように、例えば角を削り取るとか、表面の滑りをよくするとか、敢えて隙間ができるようサイズを小さくし、補強を加えて固定させるとか、頭を使うことで問題をクリアする方法はいくらでも得られると考える。
ただ、考えてすぐに答えが見つかることもあれば、考えても考えても答えが見つからないものもある。
考えてみて、やってみて、やっぱりダメだった・・・となることだって多々ある。
だからどうする?
再度頭を使うのか、どう頭を働かせるのか、あるいはそこで諦めるのか、それこそがその人のスタイル。
人生の分岐点とも言える。
身体が動かせないから諦めるのではなく、頭を使って別の道を探ればいい。
それは何も身体障害者だけに課せられたものではなく、すべての人が共有していることだと考える。
そうやって、僕のような身体障害者は成長していける。
自分を磨いていくことが出来る。
でももしかしたら、同じことをやって健常者がcm単位で前進出来るところを、チェアウォーカーはmm単位でしか前進出来ないことだってあるかもしれない。
でも前進出来ることに違いはない。
車いすマラソンの洞ノ上選手は身長が低いので腕の長さも短い。
対して海外のトップ選手は大柄な体格が一般的で腕ももちろん長い。
だから、タイヤを回す能力に差が生じてしまう。
同じ距離を走るのにストローク数の差が出るという。
車いすマラソンを始めた当初は「その腕の長さじゃ無理だよ」とまで言われたらしい。
でも彼はそれをハンディキャップとは捉えていないし、そこで諦めていないから今の彼がある。
それこそがまさに「アスリート」だと思うし、その姿勢はフィジカルにも表れている。
僕らにはそうしたお手本までもある。
身体障害者だからこそ、頭を使う。
頭を使って、発想を転換させる。
イノベーションはいつでも、どこでも、誰にでも起こすことが出来るのだ。
・・・と、言うのは簡単(笑)
でも、そう考えるか考えないかで人生のベクトルは違ってくると思う。
行動に移る前に、頭で考えるだけでも違うと思うのだ。
なぜなら、人は時間に背中を押され人生という道を進み続けていて立ち止まることはないから。
その方向へ同じ距離だけ進み続けた時、考えた場合とそうでない場合、それぞれの位置は大きく違っているはず。
どれくらいだか進んだ先で「あぁ、自分の人生はそんなつもりじゃなかったのに」なんて思いたくない。
後悔したって人生という進んだだけの時間軸を後戻りは出来ないのだから。
・・・なんだ?
壮大な内容になってきたぞ(笑)
卓球ネタがないからこうなるのか?(笑)
ま、とにかく僕は頭を使って頑張っていくしかない。
考えて考えて、それでも答えが見出せなくて、でも考えて続けて、トライ&エラーを繰り返して、PDCAサイクル(ちょっと古いかもしれないけど)を続けていくしかない。
それが直接の結果に結びつくことが出来なかったとしても、その行動は財産となるはずだし。
何事も一生懸命という行動は財産になるし、それが自分を支える柱にもなる。
よし、まとまった(笑)
さぁ、頑張っていこう。
学ぶべきことは多々あるし、やるべきことはたくさんある。
その数だけ可能性がある。
楽しいじゃないか。
だからこそ、自己管理と感染対策をしっかり行い、活動を継続できるように気をつけていたい。
コロナよ早く解決されたし!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます