「続く」と公言した以上タイトルはそう書いているけど、内容はちょっと違っている旨をまずはお伝えしておく。
敢えて正式なタイトルをつけるなら、「その為に『学ぶ』についての持論」とでも言おうか。
カッコいいなぁ(笑)
では本題に入る。
「上手くなる」為に技術を教しえてくれる人は多くいる。
けれど、その「教える」の中身(教え方)は様々なので、多くいる人の中で「自分に合った指導者」という自分が分かるよう細かく合わせて教えてくれる人に出会うのは意外と難しいように思う。
上司、部下、先生、恋人だって同じで、人間関係の難しさであり人類の永遠のテーマの一つ。
であれば、そのドンピシャを探し求めるよりもまずは相手がどのような指導者であるかを問わず真摯に教えてもらい(謙虚な姿勢、相手に合わせることも必要か)、その教えてもらったことを「理解(消化吸収)できるように努める」方が効率的だと思うし、成長していく為にもその「スキル」を身につける方がより効率的ではないかと考える。
更に言うと、無料で教えてもらうなんていうのは都合の良い話で、クオリティに比例して価格が上がっていくのは世の常であり、相手が素人であればまだしも、プロフェッショナル(とまでいかなくてもそれで収入を得ている人)であれば信頼関係を築く上でもお互いにビジネスな関係も前提とすべきだし、プロと言っても様々だから、そこは自分のニーズに合致するのかどうかの判断も必要。
また、金銭を生じさせず善意で指導いただけるのであれば、合う合わないではなくまずは感謝の気持ちをもって教えてもらうべきだと僕は考える。
その為にも、まずは自分で勉強し自分を高めていこうという気持ちが大切で、その「学びの意識」が重要になってくると思う。
例えば「〇〇教室」みたいなところに参加しても「学びの意識」の有無、あるいはその強弱で授業の効果、そこから得られるものの大きさは異なってくるはず。
「自分とは合わないな」と思った内容あるいは人であったとしても、そこから何かしらを得る、学ぶことは出来ると思うので、その為にも「学びの意識」が不可欠。
なので、まずはそれをもってして指導を受ける。
繰り返すが、同じ指導を受けるにしてもその違いが結果的に差を生むことになるのだと思うから。
また、コーチや指導者も人間だから感情は当然有している。
「教えがいがある」と思う生徒に気持ちが向くのは当然なこと(でなければ損得感情かw)。
そうしたところでも差が生じかねないようにするために自分がどうするのか?となる。
じゃぁ具体的な学びの意識とは?どうやるのがいい?
ここで言うのは気持ちの部分ではなく、行動という物理的なことについて。
でも残念ながらその答えは1つではないと僕は思っている。
個人差があると思うのだ。
「ノートを取る」というのは分かりやすい手法だし僕も肯定する。
でも現代ではもっと効率の良い記録の留め方も複数ある。
大切なことはその情報を「頭の中」に記憶することであり(ただデータとして物理的に記録すればいいという場合を除く)、その為に「どの方法が自分に合っているか?」を考え判断すること。
まずそれを見出し、それをもってして「学びの意識」を行動に移していく。
これが重要だと思う。
だから、「人に言われたとおりにやる」ではダメ(そこでも差が生じる)。
せっかく記録を取ってもその方法が自分に合っていなければ効果は半減されるから。
そのノートの取り方に関して、オリンピック元卓球代表の言葉が印象的だった。
「私が子供たちに言ってるのは、私の言ったことをそのままノートに書くなということ。ちゃんと自分の言葉で書きなさいって」
これも重要なポイントだと思う。
どの単語で表現するかで印象はガラッと変わると思う(その重要性を実感しているからこそそうしたよりリアルな指導を技術以外の部分でも行えるという高いレベルのコーチングの現れ)。
そういう風に「自分に合ったやり方」でなければ、どれだけ真面目に頑張っても、極論を言えば努力の空回りとなりかねない。
じゃぁ自分に合ったやり方とは?
それをどうやって見つける?
ここからは100%僕の推論、個人的な考えになり科学的な根拠は一切なく、あくまでも一つの考え方に過ぎないのでその点を理解いただいたうえで読んでいただきたい。
まず、人の感覚はそれぞれ違っている。
大小強弱もある。
音感の良い人、目の良い人、読解力の高い人、計算の速い人、運動神経の良い人、色彩感覚の優れた人などなど。
みんな違っている。
それは何故か?
多分、脳の構造の違いだと思う(脳科学者の話を聞いて勝手にそう考えている)。
例えば音を聞く。
それは耳から入り信号として脳細胞を伝わってしかるべき脳のどこかで認知される(記憶であれば海馬など)。
その脳細胞を伝達していくルートには個人差があるのでは?ということ。
耳の良い人、音感の良い人はそのルートがより短く効率の良いものなのでは?となる。
例えるなら、普通の人は脳細胞10個をパスしてたどり着くところを、5個で到着できるとか。
そうした個人差があるのではなかろうか(個人の勝手な妄想)。
だって外見は皆違っているのだから、中身も違っていて当然。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。
五感の感度は人それぞれ違っていて、だからこそ得手不得手があるのだと思う。
作家や芸術家、音楽家、数学者・科学者とか、あるいはトップアスリートもそうだし、優秀な料理人やソムリエなどその道を究めている人はそれが天性のものなのか、あるいは幼いころから培った結果得られたものなのかは分からないけれど、そうした「優れた感覚」を有しているのは間違いない。
で、大切なのはここから。
じゃぁ自分はどこが優れているの?を理解すること。
「私にそんなものはない」
と最初からあきらめる人には、僕は敢えて反論はせず「そうですか」と優しく相槌を打とう(笑)
でもここで僕が言うのは人と比べて評価しようというものではない。
自分の中で、自分自身の感覚の中で何が最も優れているかを自分自身で探るということ。
それをするとしないでは、「これ」と思える答えを見出すと見出さないでは、その先の人生は全然違ってくると思う。
これが持論である分度器の理論(笑)
で、その答えを見出すために、僕はまず自身の過去を振り返ることを提案する。
子供の頃、あるいは学生時代の、またはがむしゃらに頑張った若い頃の「勉強の仕方」「運動の仕方」「仕事の仕方」等を思い出すと、そこにヒントがあるのでは?と思うから。
ポイントはその時の「成功したやり方」だ。
見て覚える、読んで覚える、書いて覚える、何度も繰り返し身体で覚えるなどなど。
子供の頃、あるいは若い頃に一生懸命頑張った時のことを思い出して、または楽しかった経験でも良いだろうし、達成感を得られた経験、成功体験など、結果を含めその経験から自分自身の正解(またはそのヒント)を見いだせるのではないかと思う。
話を戻せば、「見る」は視覚からの情報、「聞く」は聴覚から、「書く」は動作に視覚も伴うし、「読む(音読)」は視覚プラス聴覚となる。
五感のどの感覚からの情報が一番効率よく脳に届いて吸収できるか、どれとどれを組み合わせると効果が高いのか、それらで自分には何が最も効率が良いのかを自分で見出すということ。
その答えはお金を払って専門家のカウンセリングを受けるよりも、過去の自分の経験から探る方がもっとシンプルで効率的だと思う。
また、一度で覚える人もいれば、何度も繰り返して覚える人もいる。
それも同じこと。
その優劣を決めるのではなく、自分は果たしてどうなのか、自分にとってどうするのが良いのかを見つけること。
そこで大切なのは「人と同じじゃなくていい」「これが自分なんだ」という自己肯定感。
繰り返すが、ここで人と比べる必要は無い。
自分自身の正解を、そう思えるものを見つければそれで良い。
感覚的に、あるいは経験からそれを既に掴んでいる人は何も気にせず自分のやり方を貫き通せばいいし、それが出来ている人なのだと思う。そういう人はきっと勉強すること(本を読む、話を聞くなど学ぶ・情報を得ること)に前向きでそれを面倒だと思わずに、恐らくどのような職業であれ頑張って取り組むことの出来る、いわゆる仕事の出来る人だと思う。
でもその答えは誰かに教えてもらえるものではなく自分で見つけるしかないものであり、さらには明確にひとつが形を成して存在しているとも限らない訳だから、それを「これだ!」と断定するのは中々に難しい。
成長とともに変化もするだろうから一生同じとも限らないし。
最早それは哲学の領域といえる。
だからこそ、それに向き合い答えを見出そうとする努力そのものに価値があるし、もしその答えにたどり着くことが出来ればそれは、先述した通りその先の人生を大きく変えるもになると思う。
だからまだの人は今からでも遅くない、これから自分で見つければいい。
そして自信をつければいい。
自分の中に答えはあるので、どこに行かずとも考えるだけで見いだせる物凄くコスパの良い成長方法だ。
余談になるけど、だからこそ「若いうちの苦労は買ってでもしろ」なのだと思う。
結果ではなく、一生懸命に頑張った経験が未来の自分にとってのガイドラインになるといえるから。
「頑張った(努力した)」経験は記憶にもより深く残れば、それがより多くある方が過去を振り返った時に華やかだと思えるだろうし(いばらの道は通り過ぎると良い思い出w)、そんな自分をより誇らしく思えるだろうから。
そして、努力というのは必ずしも結果を生むものではないけれど、経験という名で100%自身の財産として残る。
「あの時ちゃんとやっとけばよかったな」
という大人の言葉ほど虚しいものは無い。
ここでもまさに後悔先に立たず、だ。
将来そうならないようにする為に、大人の僕らが子供たちに伝えていかなきゃならないとも思う。
これもまたコーチングか。
とにかく、そうして過去を振り返ると、自分にとって最も効率の良いやり方が見えてくるのではと思う。
ノートを取るにしても、手書きと、携帯にメモする、あるいは写真や動画に収めるなどそれぞれでその効果は全然違うし、そもそも「ノートを取った」という記憶の大きさにも違いが生じるはず。
「急がば回れ」という言葉があるけど、効率の良いものが必ずしも最大の効果を生むとは限らないということ。
敢えて効率の悪い選択をする、それは「努力」という言葉に変換できるものなのかもしれない。
そうやって自分に相応しいやり方を見出し、学ぶことの効率を上げていけば、成長は速度を上げていけるものだと思う。
そうやって上手くなっていく。
まとめると、まず学びの意識を持ち自らを磨く。その為の効率の良い具体的な手段を自己分析し見出し実行する。トライ&エラーの繰り返しでも構わない、自分で考えトライすることに意義がある。そして上手く指導を受けて磨いていき、磨いてもらった結果上手くなっていき、さらにそこから自分自身でも磨き続けていって強くなっていくというのが現時点での自身の結論。
ようやくここにたどり着いた(笑)
このゴール、見方を変えれば、正しくはそこへ「導く」のが「コーチング」。
でも人間対人間の付き合いになるから相性が深く関係。
プレースタイル云々だけでなく、その何倍も大きく双方のパーソナリティが絡んでくるから、選手側のニーズ、コーチ側のスキル、そこにギャップが生じて然り。
クライアントになる選手だって、後ろから押してもらう方が良い、前から引っ張ってもらう方が良い、遠くから見守ってもらうくらいが良いなど様々だろうし、同じ選手でもその時々のタイミングで変化もするものだと思う。
良いコーチは選手のそうしたニーズを敏感に察し、それに合わせ答える能力のある人だと思う。
そんなコーチはきっと・・・高額になる(笑)
でも、ビジネスの現場で上に立つ人、指導する立場にある人というのはそういうスキルが非常に高いレベルにあると実感するし、僕はそういう人に憧れる。
最後に余談をもう一つ。
じゃぁもし現時点で僕が技術的指導を求められた場合、お金を取るのか?いくらぐらいになるのか?
はい、お金を取るつもりは全くございません(笑)
だって僕は指導をするような資格はおろか肩書も、そして実力ももっていないし、さらに僕は尊敬すべき華々しい経歴を持つコーチや指導者をたくさん知っていて、そういう方々と同じ土俵に上がるなんていうのは全くもって恐れ多く申し訳ない気持ちのさらに二乗くらいに申し訳ないから。
それに僕よりも優れた指導者は数えきれないくらいいる。
もちろん聞かれれば知りうる範囲で答えることは出来るし、求められれば可能な範囲でそれに応じることはする。
でもそれは僕の言葉ではないことが大半。
その時は「〇〇選手がこう言っていた」「〇〇(本)にこう書いてあった」といった引用元を名言するようにしているし、それを失念している場合でも「何かで読んだ(見た)」と自分の言葉ではない旨を伝えるようにしている(その方が説得力があるw)。
じゃなきゃそれって人の褌で相撲を取るってやつで、それを僕はしたくない。
自分の言葉で技術を語れないのに、それでお金を取るつもりはない。
少なくとも、現時点でそれはしたくない。
だから、誰かにアドバイスをすることには積極的ではないし、するとしてもその時の練習相手くらい。
それもよほどの思いが無ければ自分からすることはない。
そんな僕が技術的な指導を求められた時?その時はもちろんボランティアです(笑)
とまぁ、今回は些細なきっかけから持論をまとめてみたけどものすごく長いものになった(笑)
正直、まとめるのにも苦労した(笑)
最後までお読みいただいたあなた、よく頑張りました(笑)
まさに素晴らしい努力です(笑)
こうして思考を整理することで、結局のところは自分で考えるっていうのがベースかなと振り返ることが出来ました。
与えてもらう、してもらうのではなく、自分なりだとしても自分で考えて行動すること自体に価値があるのではないかと。
それが技術の向上だけでなく人生そのものをより豊かにしていく一つの要素になるのでは?と思います。
だからこれからも、自分で考え懸命に取り組み己を磨いていきたいと思います。
まずは暑さに負けず活動を続けていけるコンディショニングを。
敢えて正式なタイトルをつけるなら、「その為に『学ぶ』についての持論」とでも言おうか。
カッコいいなぁ(笑)
では本題に入る。
「上手くなる」為に技術を教しえてくれる人は多くいる。
けれど、その「教える」の中身(教え方)は様々なので、多くいる人の中で「自分に合った指導者」という自分が分かるよう細かく合わせて教えてくれる人に出会うのは意外と難しいように思う。
上司、部下、先生、恋人だって同じで、人間関係の難しさであり人類の永遠のテーマの一つ。
であれば、そのドンピシャを探し求めるよりもまずは相手がどのような指導者であるかを問わず真摯に教えてもらい(謙虚な姿勢、相手に合わせることも必要か)、その教えてもらったことを「理解(消化吸収)できるように努める」方が効率的だと思うし、成長していく為にもその「スキル」を身につける方がより効率的ではないかと考える。
更に言うと、無料で教えてもらうなんていうのは都合の良い話で、クオリティに比例して価格が上がっていくのは世の常であり、相手が素人であればまだしも、プロフェッショナル(とまでいかなくてもそれで収入を得ている人)であれば信頼関係を築く上でもお互いにビジネスな関係も前提とすべきだし、プロと言っても様々だから、そこは自分のニーズに合致するのかどうかの判断も必要。
また、金銭を生じさせず善意で指導いただけるのであれば、合う合わないではなくまずは感謝の気持ちをもって教えてもらうべきだと僕は考える。
その為にも、まずは自分で勉強し自分を高めていこうという気持ちが大切で、その「学びの意識」が重要になってくると思う。
例えば「〇〇教室」みたいなところに参加しても「学びの意識」の有無、あるいはその強弱で授業の効果、そこから得られるものの大きさは異なってくるはず。
「自分とは合わないな」と思った内容あるいは人であったとしても、そこから何かしらを得る、学ぶことは出来ると思うので、その為にも「学びの意識」が不可欠。
なので、まずはそれをもってして指導を受ける。
繰り返すが、同じ指導を受けるにしてもその違いが結果的に差を生むことになるのだと思うから。
また、コーチや指導者も人間だから感情は当然有している。
「教えがいがある」と思う生徒に気持ちが向くのは当然なこと(でなければ損得感情かw)。
そうしたところでも差が生じかねないようにするために自分がどうするのか?となる。
じゃぁ具体的な学びの意識とは?どうやるのがいい?
ここで言うのは気持ちの部分ではなく、行動という物理的なことについて。
でも残念ながらその答えは1つではないと僕は思っている。
個人差があると思うのだ。
「ノートを取る」というのは分かりやすい手法だし僕も肯定する。
でも現代ではもっと効率の良い記録の留め方も複数ある。
大切なことはその情報を「頭の中」に記憶することであり(ただデータとして物理的に記録すればいいという場合を除く)、その為に「どの方法が自分に合っているか?」を考え判断すること。
まずそれを見出し、それをもってして「学びの意識」を行動に移していく。
これが重要だと思う。
だから、「人に言われたとおりにやる」ではダメ(そこでも差が生じる)。
せっかく記録を取ってもその方法が自分に合っていなければ効果は半減されるから。
そのノートの取り方に関して、オリンピック元卓球代表の言葉が印象的だった。
「私が子供たちに言ってるのは、私の言ったことをそのままノートに書くなということ。ちゃんと自分の言葉で書きなさいって」
これも重要なポイントだと思う。
どの単語で表現するかで印象はガラッと変わると思う(その重要性を実感しているからこそそうしたよりリアルな指導を技術以外の部分でも行えるという高いレベルのコーチングの現れ)。
そういう風に「自分に合ったやり方」でなければ、どれだけ真面目に頑張っても、極論を言えば努力の空回りとなりかねない。
じゃぁ自分に合ったやり方とは?
それをどうやって見つける?
ここからは100%僕の推論、個人的な考えになり科学的な根拠は一切なく、あくまでも一つの考え方に過ぎないのでその点を理解いただいたうえで読んでいただきたい。
まず、人の感覚はそれぞれ違っている。
大小強弱もある。
音感の良い人、目の良い人、読解力の高い人、計算の速い人、運動神経の良い人、色彩感覚の優れた人などなど。
みんな違っている。
それは何故か?
多分、脳の構造の違いだと思う(脳科学者の話を聞いて勝手にそう考えている)。
例えば音を聞く。
それは耳から入り信号として脳細胞を伝わってしかるべき脳のどこかで認知される(記憶であれば海馬など)。
その脳細胞を伝達していくルートには個人差があるのでは?ということ。
耳の良い人、音感の良い人はそのルートがより短く効率の良いものなのでは?となる。
例えるなら、普通の人は脳細胞10個をパスしてたどり着くところを、5個で到着できるとか。
そうした個人差があるのではなかろうか(個人の勝手な妄想)。
だって外見は皆違っているのだから、中身も違っていて当然。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。
五感の感度は人それぞれ違っていて、だからこそ得手不得手があるのだと思う。
作家や芸術家、音楽家、数学者・科学者とか、あるいはトップアスリートもそうだし、優秀な料理人やソムリエなどその道を究めている人はそれが天性のものなのか、あるいは幼いころから培った結果得られたものなのかは分からないけれど、そうした「優れた感覚」を有しているのは間違いない。
で、大切なのはここから。
じゃぁ自分はどこが優れているの?を理解すること。
「私にそんなものはない」
と最初からあきらめる人には、僕は敢えて反論はせず「そうですか」と優しく相槌を打とう(笑)
でもここで僕が言うのは人と比べて評価しようというものではない。
自分の中で、自分自身の感覚の中で何が最も優れているかを自分自身で探るということ。
それをするとしないでは、「これ」と思える答えを見出すと見出さないでは、その先の人生は全然違ってくると思う。
これが持論である分度器の理論(笑)
で、その答えを見出すために、僕はまず自身の過去を振り返ることを提案する。
子供の頃、あるいは学生時代の、またはがむしゃらに頑張った若い頃の「勉強の仕方」「運動の仕方」「仕事の仕方」等を思い出すと、そこにヒントがあるのでは?と思うから。
ポイントはその時の「成功したやり方」だ。
見て覚える、読んで覚える、書いて覚える、何度も繰り返し身体で覚えるなどなど。
子供の頃、あるいは若い頃に一生懸命頑張った時のことを思い出して、または楽しかった経験でも良いだろうし、達成感を得られた経験、成功体験など、結果を含めその経験から自分自身の正解(またはそのヒント)を見いだせるのではないかと思う。
話を戻せば、「見る」は視覚からの情報、「聞く」は聴覚から、「書く」は動作に視覚も伴うし、「読む(音読)」は視覚プラス聴覚となる。
五感のどの感覚からの情報が一番効率よく脳に届いて吸収できるか、どれとどれを組み合わせると効果が高いのか、それらで自分には何が最も効率が良いのかを自分で見出すということ。
その答えはお金を払って専門家のカウンセリングを受けるよりも、過去の自分の経験から探る方がもっとシンプルで効率的だと思う。
また、一度で覚える人もいれば、何度も繰り返して覚える人もいる。
それも同じこと。
その優劣を決めるのではなく、自分は果たしてどうなのか、自分にとってどうするのが良いのかを見つけること。
そこで大切なのは「人と同じじゃなくていい」「これが自分なんだ」という自己肯定感。
繰り返すが、ここで人と比べる必要は無い。
自分自身の正解を、そう思えるものを見つければそれで良い。
感覚的に、あるいは経験からそれを既に掴んでいる人は何も気にせず自分のやり方を貫き通せばいいし、それが出来ている人なのだと思う。そういう人はきっと勉強すること(本を読む、話を聞くなど学ぶ・情報を得ること)に前向きでそれを面倒だと思わずに、恐らくどのような職業であれ頑張って取り組むことの出来る、いわゆる仕事の出来る人だと思う。
でもその答えは誰かに教えてもらえるものではなく自分で見つけるしかないものであり、さらには明確にひとつが形を成して存在しているとも限らない訳だから、それを「これだ!」と断定するのは中々に難しい。
成長とともに変化もするだろうから一生同じとも限らないし。
最早それは哲学の領域といえる。
だからこそ、それに向き合い答えを見出そうとする努力そのものに価値があるし、もしその答えにたどり着くことが出来ればそれは、先述した通りその先の人生を大きく変えるもになると思う。
だからまだの人は今からでも遅くない、これから自分で見つければいい。
そして自信をつければいい。
自分の中に答えはあるので、どこに行かずとも考えるだけで見いだせる物凄くコスパの良い成長方法だ。
余談になるけど、だからこそ「若いうちの苦労は買ってでもしろ」なのだと思う。
結果ではなく、一生懸命に頑張った経験が未来の自分にとってのガイドラインになるといえるから。
「頑張った(努力した)」経験は記憶にもより深く残れば、それがより多くある方が過去を振り返った時に華やかだと思えるだろうし(いばらの道は通り過ぎると良い思い出w)、そんな自分をより誇らしく思えるだろうから。
そして、努力というのは必ずしも結果を生むものではないけれど、経験という名で100%自身の財産として残る。
「あの時ちゃんとやっとけばよかったな」
という大人の言葉ほど虚しいものは無い。
ここでもまさに後悔先に立たず、だ。
将来そうならないようにする為に、大人の僕らが子供たちに伝えていかなきゃならないとも思う。
これもまたコーチングか。
とにかく、そうして過去を振り返ると、自分にとって最も効率の良いやり方が見えてくるのではと思う。
ノートを取るにしても、手書きと、携帯にメモする、あるいは写真や動画に収めるなどそれぞれでその効果は全然違うし、そもそも「ノートを取った」という記憶の大きさにも違いが生じるはず。
「急がば回れ」という言葉があるけど、効率の良いものが必ずしも最大の効果を生むとは限らないということ。
敢えて効率の悪い選択をする、それは「努力」という言葉に変換できるものなのかもしれない。
そうやって自分に相応しいやり方を見出し、学ぶことの効率を上げていけば、成長は速度を上げていけるものだと思う。
そうやって上手くなっていく。
まとめると、まず学びの意識を持ち自らを磨く。その為の効率の良い具体的な手段を自己分析し見出し実行する。トライ&エラーの繰り返しでも構わない、自分で考えトライすることに意義がある。そして上手く指導を受けて磨いていき、磨いてもらった結果上手くなっていき、さらにそこから自分自身でも磨き続けていって強くなっていくというのが現時点での自身の結論。
ようやくここにたどり着いた(笑)
このゴール、見方を変えれば、正しくはそこへ「導く」のが「コーチング」。
でも人間対人間の付き合いになるから相性が深く関係。
プレースタイル云々だけでなく、その何倍も大きく双方のパーソナリティが絡んでくるから、選手側のニーズ、コーチ側のスキル、そこにギャップが生じて然り。
クライアントになる選手だって、後ろから押してもらう方が良い、前から引っ張ってもらう方が良い、遠くから見守ってもらうくらいが良いなど様々だろうし、同じ選手でもその時々のタイミングで変化もするものだと思う。
良いコーチは選手のそうしたニーズを敏感に察し、それに合わせ答える能力のある人だと思う。
そんなコーチはきっと・・・高額になる(笑)
でも、ビジネスの現場で上に立つ人、指導する立場にある人というのはそういうスキルが非常に高いレベルにあると実感するし、僕はそういう人に憧れる。
最後に余談をもう一つ。
じゃぁもし現時点で僕が技術的指導を求められた場合、お金を取るのか?いくらぐらいになるのか?
はい、お金を取るつもりは全くございません(笑)
だって僕は指導をするような資格はおろか肩書も、そして実力ももっていないし、さらに僕は尊敬すべき華々しい経歴を持つコーチや指導者をたくさん知っていて、そういう方々と同じ土俵に上がるなんていうのは全くもって恐れ多く申し訳ない気持ちのさらに二乗くらいに申し訳ないから。
それに僕よりも優れた指導者は数えきれないくらいいる。
もちろん聞かれれば知りうる範囲で答えることは出来るし、求められれば可能な範囲でそれに応じることはする。
でもそれは僕の言葉ではないことが大半。
その時は「〇〇選手がこう言っていた」「〇〇(本)にこう書いてあった」といった引用元を名言するようにしているし、それを失念している場合でも「何かで読んだ(見た)」と自分の言葉ではない旨を伝えるようにしている(その方が説得力があるw)。
じゃなきゃそれって人の褌で相撲を取るってやつで、それを僕はしたくない。
自分の言葉で技術を語れないのに、それでお金を取るつもりはない。
少なくとも、現時点でそれはしたくない。
だから、誰かにアドバイスをすることには積極的ではないし、するとしてもその時の練習相手くらい。
それもよほどの思いが無ければ自分からすることはない。
そんな僕が技術的な指導を求められた時?その時はもちろんボランティアです(笑)
とまぁ、今回は些細なきっかけから持論をまとめてみたけどものすごく長いものになった(笑)
正直、まとめるのにも苦労した(笑)
最後までお読みいただいたあなた、よく頑張りました(笑)
まさに素晴らしい努力です(笑)
こうして思考を整理することで、結局のところは自分で考えるっていうのがベースかなと振り返ることが出来ました。
与えてもらう、してもらうのではなく、自分なりだとしても自分で考えて行動すること自体に価値があるのではないかと。
それが技術の向上だけでなく人生そのものをより豊かにしていく一つの要素になるのでは?と思います。
だからこれからも、自分で考え懸命に取り組み己を磨いていきたいと思います。
まずは暑さに負けず活動を続けていけるコンディショニングを。
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