世界遺産「京都・金閣寺(鹿苑寺)」行って来ました。
12月中旬に京都に行ってきました。今回は会社行事の旅行なので、厳密に言うと「男を磨く旅」って言う訳じゃないんですけど、取り合えず京都に行って色々見てきたのでアップしておきます。世界遺産で登録されている施設が17あるようですが、今回はそのうち非常に恥ずかしくなるほどベタな「金閣寺」「銀閣寺」「清水寺」「下鴨神社」の4つを訪ねてみました。
京都は中学生と高校生の修学旅行の時と2001年にバイクでの「男を磨く旅・四国一周編」の帰り道にちょっと寄った時の3回ほど訪ねてますが、中・高生の頃はやんちゃだったので、当然のごとく全く歴史や神社仏閣等には興味は無く、隠れて「・・・を吸ったり」「・・・を飲んだり」「ほかの修学旅行生の女子を・・・したり」する事にエネルギーの殆どを費やしていたので名所の記憶は殆ど残ってません。
然しながら、この歳になると本当にこう言う所に訪ねることがうれしくなりますね。金閣寺(鹿苑寺)を訪れたのが3時ごろだったので、西日で金箔がものすごく輝き美しかったです。写真を撮るポイントが何ヶ所かあり、どうりで誰が撮っても同じような構図になるのか謎が解けました。
鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺院。寺名は足利義満の法名にちなむ。通称金閣寺(きんかくじ)、山号は北山(ほくざん)。 1994年に古都京都の文化財として世界遺産に登録された。中心となる建築物である舎利殿を「金閣」、寺院全体を「金閣寺」と通称する。
通称「金閣寺」の由来となった金閣は、漆地に金箔を押した三層の建物で正式には舎利殿と称する(金箔を貼るのは二・三層のみ)。初層・二層・三層のそれぞれに異なる様式を採用した特異な建築で、初層は寝殿造風で「法水院」と称し、二層は住宅風(武家造)の「潮音洞」、三層は禅宗様の仏殿風で仏舎利を安置し「究竟頂」(くっきょうちょう)と称する。屋根はこけら葺きで上には鳳凰が飾られている
この地には、鎌倉時代の元仁元年(1224年)に藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立し、あわせて山荘を営んでいた。これらは公経の子孫である西園寺家が代々所有していた。同氏は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていたが、幕府滅亡直後に当主・西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようと企てたという容疑がかけられて処刑されてしまい、西園寺家の膨大な所領と資産は没収されてしまう。このため、西園寺も次第に修理が及ばず荒れていった。 1397年(応永4年)、足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新した。この義満の北山山荘は当時「北山殿」、または「北山第」と呼ばれた。邸宅とは言え、その規模は御所に匹敵し、政治中枢の全てが集約された。義満はここで一切の政務を行った。その後、義満は征夷大将軍を子の義持に譲ったが、実権は手放さず、北山殿にあって政務を見た。義満の死後、義持によって北山殿は舎利殿を残して解体され、禅寺とされて鹿苑寺と名付けられた。応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失した。焼失する前の金閣鹿苑寺金閣は第二次大戦前から(旧)国宝に指定されていたが、1950 年(昭和25年)、学僧・林承賢(当時21歳)の放火により炎上(金閣寺放火事件)。林は寺の裏山で自殺を図った。建物は全焼し、国宝の足利義満像も焼失した。この事件は三島由紀夫の小説『金閣寺』、水上勉の小説『五番町夕霧楼』・『金閣炎上』の題材にもなっている。現存する金閣は1955年(昭和30 年)に旧状どおり再建されたものである。なお、上層の天井板は「楠天井の一枚板」であったと伝えられるが、焼失のため、現在となっては真偽は定かでない。後に8代将軍・足利義政は祖父・義満にならい、銀閣を建てた。(Wikipedia)
もしかしたら、お目にかかったことがあるかもしれませんね。
世界遺産、楽しくはいけんさせていただきました。
羨ましいですね。
大人になって、あらためて「京都の良さ」を感じます。
宜しかったら、また遊びに来てください。