世界遺産「京都・銀閣寺(慈照寺)」行って来ました。
12月中旬に京都に行ってきました。今回は会社行事の旅行なので、厳密に言うと「男を磨く旅」って言う訳じゃないんですけが、取り合えず京都に行って色々見てきたのでアップしておきます。世界遺産で登録されている施設が17あるようですが、今回はそのうち非常に恥ずかしくなるほどベタな「金閣寺」「銀閣寺」「清水寺」「下鴨神社」の4つを訪ねてみました。今日はその第二弾をアップしてみます。
「銀閣寺」って「金閣寺」に比べ少し地味な感じがしますが、行ってみると 枯山水庭園がとても素晴らしかったし、国宝の銀閣寺(慈照寺)の建物自体も、錦鏡池(きんきょうち)を中心とする池泉回遊式庭園ごしに映える姿は美しかったです 。
時期的に中途半端な時期だったので、人はそんなに多くなかったです。きっと桜や梅の季節、或いは紅葉の季節は賑わうんでしょうね。 「苔寺」の通称で知られる「西芳寺庭園(夢窓疎石作庭)」を模して造られているだけあって、「苔」は見事でした。苔のディスプレイがあって、苔が「有益」「普通」「困ったちゃん」みたいにランク分けされていました。
慈照寺(じしょうじ)は、東山文化を代表する臨済宗相国寺派の寺院(相国寺の境外塔頭)で通称銀閣寺(ぎんかくじ)、山号は東山(とうざん)と呼ばれる。
室町幕府8代将軍の足利義政、開山は夢窓疎石とされている。(夢窓疎石は実際には当寺創建より1世紀ほど前の人物であり、このような例を勧請開山という。)足利義政が造営した楼閣建築である観音殿を「銀閣」と通称することから、観音殿を含めた寺院全体を「銀閣寺」と通称している。この通称名は近世の名所案内記などですでに使用されている。
室町幕府8代将軍足利義政は、1473年(文明5年)、嗣子足利義尚に将軍職を譲り、 1482年(文明14年)から、東山の月待山麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めた。この地は、応仁の乱で焼亡した浄土寺のあったところであり、近代以降も左京区浄土寺の地名が残っている。当時は応仁の乱が終わった直後で、京都の経済は疲弊していたが、義政は庶民に段銭(臨時の税)や夫役(ぶやく、労役)を課して東山殿の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な生活を送っていた。
造営工事は義政の死の直前まで8年にわたって続けられたが、義政自身は山荘の完成を待たず、工事開始の翌年である 1483年(文明15年)にはここに移り住んでいた。東山殿には会所、常御所(つねのごしょ)などの大規模な建物が建ち、足利義満の北山殿(後の鹿苑寺)ほどではないが、ある程度政治的機能ももっていた。ただし、現存する当時の建物は銀閣と東求堂(とうぐどう)のみである。
1490年(延徳2年)2月、同年に死去した義政の菩提を弔うため東山殿を寺に改め、相国寺の末寺として創始されたのが慈照寺である。戦国時代末期には前関白近衛前久の別荘にもなったが、これは慈照寺の歴代住持に近衛家出身者が多かったことによる。
前久の死後は再び相国寺の末寺として再興された。 1952年3月29日には庭園が 特別史跡及び特別名勝に指定された。1994年12月17日には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。